外資系企業で働くある人の日記

外資系企業に勤務しているある人の日記。景気に左右されず、モティベーションを高く維持して頑張り続けます!

クリスマスイブ

2006-12-24 21:05:44 | Weblog
クリスマスイブは家族でゆっくり過ごす。下の子の調子が相変わらず良くない。今晩家内が下の子の面倒をみ明日朝のミサの時は私が病院へ連れて行くということになったので今晩は上の息子と一緒に礼拝に行く。年に一度、イエスの誕生を祝う会に参列できて光栄だ。ミサに参列後、家で家内の手作り料理を美味しく頂いた。メインは鶏のお肉を焼いたものだった。手作りケーキも大変美味しかった。家内の手作り料理プレゼントに対し私からのプレゼントは今年5月にフランスで購入したクリストフルのティーセット。何もプレゼントはするつもりはなかったが、教会から家に帰る途中に偶然、買っておいていたことに気付いた。家内の評判はイマイチのよう。やはりプレゼントなんてしなけば良かったと少し後悔してしまった。。。来年以降はプレゼントはやめよう。
十数年前に留学時にお世話になった家庭に電話したり、両親と普段話さない海外の友人にクリスマス電話をした。家庭のメンバーも増えて大変楽しくなった。

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最後にクリスマスについて記入してあったWEBをご紹介。出展;http://jns.ixla.jp(今日初めてこのサイトをみました。大変参考になったので転載いたしました。)

主の降誕(夜半のミサ)C【ルカ2:1ー14】                   キリスト教カトリックミサ説教
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
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 クリスマスイブが訪れました。クリスマスとはキリストのミサ。だから教会こそが、本当のクリスマスを祝う場所です。
 クリスマスとは何の日でしょう。イエスキリストがこの世にお生まれになったことをお祝いする日です。しかしただの人間の誕生日とは違います。イエス・キリストとは神の独り子。目に見えない無限の神様が、この人間の生きる世界に、人間となってくださって、この世に降りてきてくださった。そのことをお祝いするのです。
 神様とはどんな方でしょう。いのちそのもの、愛そのもの、真理そのものである方。この世をまったく何もないところから創って下さった方。時というものをまったく超えて存在される永遠そのものである方。宇宙の始まりであるビッグバンのもととなった巨大なエネルギーそのものである方。そして最初の宇宙創成の時よりも前にあった方。今もすべてのときと世界を支配しておられる方。いろいろに捉えられることができますが、しかしまた捉えきれることのできない方。
 その神様が人になってくださったとはどういうことなのでしょう。それは神様は愛と正義だからです。愛だから神様は罪の闇にある人間の救いを切に願っていた。正義だから神は人間の悪を滅ぼしつくすために、犠牲になる、身代わりに人間の罪を負うものを必要としていた。そこで生まれたのが神の独り子イエス様でした。
 人間を救うためには、ただ傍観する神ではだめ。人間になって、深く密接に人間とかかわることが必要だった。本当に人間としていき、苦しみ、飢え、乾き、涙を流し、死ぬことが必要だった。人間として、人間のことばで、直接はっきりと神の御言葉を宣べ伝え、また言葉だけでなく、行いによって、神様の望む人間の姿とはこういうものだと、目に見える形でお示しになりたかった。それがイエス様です。人間になる。これだけでもとてつもない大きなことです。無限の、全能の、すべて見通すことのできる神が、有限の、肉体に縛られ、あらゆる制約を受けた小さな人間になるのですから。しかも神様の望みは、スーパーマンのような人間としてこの世に現れるのではなかった。いきなりすべて知っている、尊敬される、そのような立派な人間として現れることではなかった。ちっぽけな、本当に普通の、人間として現れることを望んだ。それがイエス様の誕生でした。もっとも無力な人間として。親に自分の命を預けなければならない赤ちゃんとして。立派な王様のような暮らしをするのでなく、貧しく、何もない、生まれるというのに宿も取れない、そのような小さな小さな、貧しい家に生まれることを望んだのでした。
 寒い夜。泊まることのできる宿もない。家畜小屋で牛や馬と一緒に。最初の訪ねてきたのも、同じく貧しい羊飼い。しかしそこに天使の歌声があった。愛があった。人間を救いたい、人間に希望を与えたいという神様の愛があった。ヨセフのマリアの愛があった。何もない。しかしそこにはすべてがあった。

 そんなイエス様の話を、1994年、ロシアの教育省の招きに応えて、訪れたアメリカ人が、養護施設にいる子どもたちに話をするために訪れました。そこは大きな養護施設。見棄てられ、虐待され、政府の運営する施設にゆだねられた百人ほどの子どもたちの前で。
 子どもたちは生まれて初めて、伝統的なクリスマスの物語を聞こうとしていました。ベツレヘムにたどり着いたマリアとヨセフの話。宿屋に泊まる場所が見つからなかった。二人は馬小屋へ行き、そこでイエスは生まれ、飼い葉おけに寝かされました。
 話を終えると子どもたちが簡単なまぶねを作れるように、小さな厚紙の切れ端を三つずつ、一人ひとりに配られました。その町では色紙が手に入らないので、持ってきていた黄色い紙ナプキンも小さな四角に切り分けて。教わった作り方に従い、子どもたちは黄色い紙を細長くちぎり、それをわらに見立てて注意深く敷き詰めました。古いナイトガウンは四角く小さく切って、赤ちゃんをくるむ毛布になりました。肌色のフェルトは切り抜いて、人形のような赤ちゃんになりました。
 子どもたちがまぶね作りに取りくんでいる間、助けの必要な子はいないか、子どもたちの間を歩いてると。六歳くらいの男の子、ミーシャのところで足が止まった。ミーシャはもう作業を終えていました。ミーシャのまぶねには、なんと二人の赤ちゃんが入っているではないですか。なぜまぶねに二人の赤ちゃんがいるのか?
 小さなミーシャは非常に真剣な様子で物語を繰り返し語りはじめました。まだ年端もいかず、クリスマスの物語を一度しか聞いたことしかないにもかかわらず、ミーシャは正確に語っていきました。マリアがみどりごイエスをまぶねに寝かせるところまで。
 物語がそこまでくると、ミーシャは自分で作った物語の結末を語り始めました。

 「マリアが赤ちゃんをまぶねに寝かせると、イエスは僕を見つめて尋ねました。『どこか行くところはあるの」。僕は言いました『僕にはママもいないし、パパもいない。だから行くところはないよ」。するとイエスは自分と一緒にいればいいじゃないか、と僕に言いました。
 でも僕にはそれはできない。どうしてかっていうと、ほかのみんなみたいに贈り物を持っていないから。
 でも僕はすごくイエスと一緒にいたかったので、何か贈り物になるものはないかと考え、イエスを暖かくしてあげたらいい贈り物になると思いました。そこで僕はイエスに聞きました。『君を暖かくしてあげたら、じゅうぶんな贈り物になるかな」。イエスは僕に言いました。『僕を暖かくしてくれたら、今までもらったどんな贈り物よりもすばらしいよ」
 それで僕はまぶねの中に入りました。イエスは僕を見つめ、自分と一緒にいればいいよ、と言いました」。

 いつまでも、ずっと見捨てずあたたかく受けとめて、一緒にいてくれる友。いつまでもずっと一緒にいてくれる方、愛そのものである神様に、ミーシャは出会い、そしてそのイエス様を暖めるために、自分を捧げる犠牲を、喜びながら果たしたのでした。

 神様が人間になってくださったのは、罪に陥った人間を救いたい。ただ愛からでした。だから私たちも愛である神様に生かされて、同じように愛に変わらなければならない。それがクリスマスです。しかし犠牲のない愛は偽物です。
 神様が人間になる。それだけでも大きな犠牲でした。そして神様の愛を語り続けたときに、「自分こそが偉い、立派」と思う人々のいろんな反発を受けました。その結果はイエス様は30年後に十字架にかけられます。イエス様はそこまでしなければ人間の身代わりになることはできない。正義の、正しい神を立てることにはならないと知っていました。この世に生まれるのは、愛のため。その愛、神様の正義は、十字架によってしか完成されない。そのことをすべて承知しながら、人間になってくださいました。
 愛は簡単なものではない。大きな犠牲も必要とする。ミーシャが自分の体を与えてイエス様を暖めようとしたように。そのこともイエス様の生涯は教えてくださっています。本当の愛に私たちもチャレンジしましょう。イエス様が、本当に人間として、痛みや悲しみを負いながらも、愛を貫いてくださったから。だからきっと私たちにもできるはず。