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日本近代文学の森へ (87) 徳田秋声『新所帯』 7 婚礼の風景

2019-01-31 14:50:40 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (87) 徳田秋声『新所帯』 7 婚礼の風景

2019.1.31


 

 新妻が天から舞い降りてくるような思いでいた新吉だったが、やがて、その新妻が人力車に乗ってやってきた。

 新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒を卸(おろ)した。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭の短い首を据えて、何やら淡色(うすいろ)の紋附を着た和泉屋の内儀(かみ)さんであった。三番目に見栄えのしない小躯(こがら)のお作が、ひょッこりと降りると、その後から、叔父の連合いだという四十ばかりの女が、黒い吾妻コートを着て、「ハイ、御苦労さま。」と軽い東京弁で、若い衆に声かけながら降りた。兄貴は黒い鍔広の中折帽を冠って、殿(しんがり)をしていた。


 ときどき妙な漢字の読みがあってとまどうのだが、ここに出てくる「殿」も「しんがり」と読んでいて、何で? って思った。しかし辞書で調べてみると、「殿」は「臀」に通じる文字で、「しり」「うしろ」「しんがり」などの意味があることが判明して、びっくり。

 5台の人力車(「腕車(わんしゃ)」は人力車のこと)が新吉の家の前にとまり、そこからゾロゾロ降りてくる人が活写される。まず、「足の先ばかり白い」和泉屋が「飛び降りる」。真っ黒に日焼けした和泉屋は、白足袋を履いているということだろう。これだけの描写で、和泉屋の「活躍」が目に浮かぶ。

 2番目が和泉屋の女房。「丸髷頭の短い首」がどういう容貌なのかよく分からないが、まあ、「美形」じゃないことぐらいは分かる。着物には長い首が似合うものだ。「何やら淡色の紋附」の「何やら」が、揶揄的。「何だか色味がはっきりしないが、うすい色の紋附」ってことで、「安物感」がよくでている。色無地の紋付きというのは、着物関連のサイトを見ると、色によっては(赤やピンクは年齢が制限される)長く着ることができ、個性も出るが、一方で、自分に合う色を見つけるのがむずかしく、模様がないだけに着付けのアラも目立つなどの特徴があるのだそうで、ここで和泉屋の女房が着ている着物がどんな印象かはおおよその見当はつく。ぜんぜん似合っていない変な薄い色の紋付きをだらしなく着て、ぐらいな感じではなかろうか。

 3番目が、新妻たるお作。これが冴えない。「見栄えのしない小躯(こがら)のお作が、ひょッこりと降りる」と露骨である。これじゃ、「天から舞い降りる」どころではない。

 4番目が、お作の叔父の女房で、これが着ている「吾妻コート」というのは、「女性用和装防寒服の一種で、1886年東京の白木屋呉服店が考案発売したもの。それまでの女性の防寒服は合羽 (かっぱ) から分離して発達した被布 (ひふ) であった。被布は高級織物の袷仕立てか、綿入れ仕立てであったが,白木屋では保温や防雨、防寒を考えてラシャ地を使用、襟にもへちま襟や角型の道行き襟にするなど従来にない新工夫を凝らし、名称も吾妻コートとした。斬新さが受けて流行し、大正期まで続いたが、現在の雨コートの台頭によって次第にすたれた。」(ブリタニカ国際大百科事典)とのこと。まあ、こういう流行のものを着て、シャキシャキと「軽い東京弁」で若い衆に声をかけながら降りてくる女は、杉村春子にやらせたらピッタリだ。

 そして最後にお作の兄が降りるところまで、キチンと描き切っている。

 さて、いよいよ婚礼が始まる。


 和泉屋は小野と二人で、一同を席へ就かせた。
 気爽(きさく)らしい叔母はちょッと垢脱(あかぬ)けのした女であった。眉の薄い目尻の下った、ボチャボチャした色白の顔で、愛嬌のある口元から金歯の光が洩れていた。
「ハイ、これは初めまして……私(わたくし)はこれの叔父の家内でございまして、実はこれのお袋があいにく二、三日加減が悪いとか申しまして、それで今日は私が出ましたようなわけで、どうかまあ何分よろしく……。このたびはまた不束(ふつつか)な者を差し上げまして……。」とだらだらと叔母が口誼(こうぎ)を述べると、続いて兄もキュウクツ張った調子で挨拶を済ました。
 後はしばらく森(しん)として、蒼い莨の煙が、人々の目の前を漂うた。正面の右に坐った新吉は、テラテラした頭に血の気の美しい顔、目のうちにも優しい潤みをもって、腕組みしたまま、堅くなっていた。お作は薄化粧した顔をボッと紅くして、うつむいていた。坐った膝も詰り、肩や胸のあたりもスッとした方ではなかった。結立ての島田や櫛笄(くしこうがい)も、ひしゃげたような頭には何だか、持って来て載せたようにも見えた。でも、取り澄ました気振りは少しも見えず、折々表情のない目を挙げて、どこを見るともなく瞶(みつ)めると、目眩(まぶ)しそうにまた伏せていた。


 ため息が出るほど見事な描写だ。叔母なんぞは、ますます若い頃の杉村春子を思わせる。兄の窮屈な挨拶が終わったあとの、何とも間の持たないしらけた雰囲気が実に見事に描かれている。静まった部屋に流れる紫煙。こんな舞台を見た記憶がある。

 新吉の若々しい色気に満ちた表情とはうらはらに、お作の、どこか寸詰まりで、正装もしっくりこない、それでいて、やはり新妻らしい緊張をたたえた様子が、対照的であると同時にほのかな新婚の共通点を持っているのが、憎らしいほどうまく書かれている。


 和泉屋と小野は、袴をシュッシュッ言わせながら、狭い座敷を出たり入ったりしていたが、するうち銚子や盃が運ばれて、手軽な三々九度の儀式が済むと、赤い盃が二側(ふたかわ)に居並んだ人々の手へ順々に廻された。
「おめでとう。」という声と一緒に、多勢が一斉にお辞儀をし合った。
 新吉とお作の顔は、一様に熱(ほて)って、目が美しく輝いていた。
 盃が一順廻った時分に、小野がどこからか引っ張って来た若い謡謳(うたうた)いが、末座に坐って、いきなり突拍子な大声を張り揚げて、高砂を謳い出した。同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口が盛んにそちこちへ飛んだ。
「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。


 これが当時の「婚礼」である。仲人も神主もいない。今でいえば「人前結婚式」だ。「披露宴」にしても、下手な謡ひとつで済んでしまう。あとは飲むだけ。

 考えてみれば、これでいいのかもしれない。昨今の派手な結婚式や披露宴が、昔からあった「伝統」などではないことは分かり切ったことだが、こういう当時の婚礼の描写を読むと、なにか新鮮な感じがする。

 「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」と勇む和泉屋。ああ、これが彼の目的だったのかと納得だ。飲んべえにとっては、結婚式だろうが葬式だろうが、飲めればそれでいいのである。






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一日一書 1525 寂然法門百首(4)

2019-01-30 17:53:21 | 一日一書

 

草木叢林随分受潤

 

下草もめぐみにけらし木(こ)の芽はる雨のうるひや大荒木(おほあらき)の杜

 

半紙

 

 

【題出典】

草木叢林、随分受潤。(『法華経』)

草木・叢林は分に随って潤を受く。

 

【歌の通釈】

大荒木の杜の下草(人間、天上)にも恵を与えたらしい。木の芽が張る春の雨(仏の平等一味の雨)の潤いであるよ。

 

【考】

仏の恵の雨は、低い位の者の上にも平等に降り注ぐ。これを大荒木の杜の下草までもが春雨の潤いを受けることになぞらえて表現した。仏の恵の雨を「春雨」と表現するのは、俊成の歌に前例があるが、「下草」を詠むことにより、埋もれた者が恵を受ける、そのありがたさが実感される。

 

以上『全釈』による。

 

 

いっぱいに膨らんだ木の芽に、暖かい春雨が降り注ぐというイメージは、仏の慈愛を感覚的に伝えます。「法華経」の経文に、肉体が与えられたような、そんな感じがする歌です。それはイメージだけの作用ではなくて、「和歌」が持つ独特の「肉体」のしからしむるところなのかもしれません。

 

「釈教歌」というものは、仏の教えを和歌にしただけのつまらないものだと思っていましたが、こうして読んでみると、仏教の日本的な受容のさまが伺えるような気がして、興味深いものがあります。

 

 

 


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日本近代文学の森へ (86) 徳田秋声『新所帯』 6 淋しい新吉

2019-01-28 17:28:26 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (86) 徳田秋声『新所帯』 6 淋しい新吉

2019.1.28


 

 なんだかんだといっているうちに、婚礼の晩となった。新吉は、床屋に行って、それから湯屋に行く。こんなところも、落語を聞いているようだ。こういう一種の生活上のルーティンというのがきちんとあるということはすごく羨ましい。落語を聞いていて心地よいのも、そうしたルーティンを踏まえてリズミカルに話が進んでいくからだろう。

 新吉は貧しくて、ケチだけど、その生活を見てみれば、案外豊かだともいえる。婚礼の晩だから特別なのかもしれないが、床屋に行って、湯に行って、帰ってくると、「婆さん」がいる。婚礼の晩でなくても、「婆さん」はそこにいて、夕食を作ってくれるはず。新吉は長火鉢の前に座って、莨を呑むくらいの余裕はあるのである。現代の男には、そんな余裕はない。下手をすれば、夕食を作ってはもらえても、皿洗いはしなけりゃならないかもしれないし、莨は禁止されているかもしれない。第一どっかと座る長火鉢がない。


 三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りが点(つ)いていた。
 新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でも淹れようか。」
「莫迦(ばか)言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。


 ここにも「淋しい」が出てくる。それは、この婚礼への支出がかさむからではない。もっと、深いところからくる「淋しさ」だ。新吉がもし、大店のボンボンだったら、婚礼の前に「淋しさ」など感じることはないだろう。祝福してくれる親や親戚、友人などに囲まれて、人生でももっとも華やかな時間を過ごすことになるだろう。けれども、せっかくの婚礼なのに、新吉はここで使ってしまう金が惜しくてならない。惜しいというよりは、そんなことを惜しがらねばならない自分が悲しいのに違いない。

 小野にむかって、君とは違うんだと言った新吉の言葉には、そうした悲しさ、悔しさが滲み出ていた。小野には、そんな新吉の気持ちは分かろうはずもなく、自分のほうが浮かれている。


 するうち綺麗に磨き立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷に点(とも)され、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子、盃なども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々叮寧に拭いた膳の上に並べて、それから見事な蝦や蛤を盛った、竹の色の青々した引物の籠をも、ズラリと茶の室(ま)へならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、埃の被らぬように、御馳走の上に被せて行(ある)いていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰の小袖を着込んで、目眩しいような目容(めつき)で、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。
「サア、これでこっちの用意はすっかり出来揚(あが)った。何時(なんどき)おいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉の眼顆(めだま)のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。
「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒に傍に坐って、頭を掻きながら、「私(あっし)アどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
 新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚(みより)の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕ぎつけて来た、長い年月の苦労を思うと、迂廻(うねり)くねった小径をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火(ともしび)が、風もないのに眼先に揺いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。


 新吉の淋しい笑いをよそに、狭い部屋がたちまち宴会場へと変わっていく。テキパキとした描写は、まるで、舞台の転換をみているようだ。小野が新聞紙をご馳走の上にかぶせていく様など、細かいところが実に生き生きと描かれている。その小野が「蜻蛉の眼顆(めだま)のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。」なんて、それまでの小野の新聞紙をかぶせる姿が、池の面に卵を産み付ける蜻蛉のように見えてきて、笑ってしまう。こんなに見事な文章というのは、そうめったにお目にかかれるものではない。

 ケチで偏屈な新吉だが、このあたりにくると、なんだかいとおしくなってくる。新吉の「淋しさ」は、「この晴れ晴れしい席に、親戚(みより)の者と言っては、ただの一人もない」ことからも来ているのが分かってきて、かわいそうになるからだ。そしてそれ以上に、新吉の思いが切なく胸を打つ。

 ケチであろうが、偏屈であろうが、コツコツと努力して苦労して、曲がりなりにも商売を続けてきた。そして、なんとか、自分の金で婚礼もできるところまでこぎ着けた。こういった長い苦労の上の達成感は、やはり、いつの時代でも胸を打つものがある。昨日優勝した玉鷲のように。

 「花のような自分の新妻が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。」──新吉は、いっとき、夢をみたのだ。このときばかりは、婚礼費用のことなど、頭のなかからはすっかり消えていたことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (85) 徳田秋声『新所帯』 5 ケチと偏屈

2019-01-27 15:15:39 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (85) 徳田秋声『新所帯』 5 ケチと偏屈

2019.1.27


 

 小野は、ケチケチするな、こういうときはパッと使ってそれなりの婚礼にしなきゃみっともないと言うのだが、新吉はそんな気にはぜんぜんなれない。


「でも君、私(あっし)アまったくのところ酷工面(ひどくめん)して婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄(みえ)を張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君私アそういう主義なんだぜ。君らのように懐手していい銭儲けの出来る人たア少し違うんだからね。」
「理窟は理窟さ。」と小野は笑顔を放さず、
「他の場合と異(ちが)うんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人で稼げば。」
 新吉は黒い指頭(ゆびさき)に、臭い莨を摘んで、真鍮の煙管に詰めて、炭の粉を埋(い)けた鉄瓶の下で火を点けると、思案深い目容(めつき)をして、濃い煙を噴いていた。
 六畳の部屋には、もう総桐の箪笥が一棹据えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢、黄縞の座蒲団などが、赭(あか)い畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠い傭い婆さんが台所でその後始末をしていた。



 新吉の「主義」は、無駄な金は使わないということだ。小野は「懐手していい銭儲けの出来る人」だというのだが、小野が何をやっているのかは、書かれていない。株でもやって儲けているというところだろうか。新吉は、毎日汗水流して、せっせと小銭を稼ぎ貯金してきた。その金をここで使ってしまいたくない、と思うのも、まあ当然といえば当然である。

 「新吉は黒い指頭(ゆびさき)に、臭い莨を摘んで、真鍮の煙管に詰めて、炭の粉を埋(い)けた鉄瓶の下で火を点けると、思案深い目容(めつき)をして、濃い煙を噴いていた。」との描写が見事だ。無駄な言葉を省いて、新吉の生活と心情をくっきりと描いている。「黒い指頭」に、新吉の苦労が見える。落語の「子褒め」にも、「真っ黒になる」というのは、懸命に働くことの象徴として出て来る。「黒」は労働の色なのだ。「臭い莨」も、質の悪い安い莨を意味するだろうし、「炭の粉を埋けた」は倹約の様だろう。まさか、ほんとうの炭の粉じゃ「埋める」こともできないが、粉みたいなクズの炭を使っているということだろう。

 そんな新吉が「思慮深い目容」をしているとあるが、その「思慮」は、「金勘定」に他ならない。「濃い煙を噴く」というのも、安い莨をゆっくりと大事に呑んでいるから、煙も濃くなるわけである。(ほんとにそうなるかは知らないけど。)

 どういう料理の注文をするかで新吉が文句を言っている段階なのに、部屋にはもう「総桐の箪笥」と「鏡台」が置いてある。あっという間に、嫁入り道具が届いているのだ。お作の親族の「乗り気度」が伝わってくる。



 新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかた噴(は)き出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入(こしい)れをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華やかなことが、質素(じみ)な新吉の性に適(あ)わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏った一種の考えが、丁稚奉公をしてからこのかた彼の頭脳(あたま)に強く染み込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。

 


 新吉が、結婚するにしても、「そっと輿入(こしい)れをして、そっと儀式を済ます」レベルにしたいと思っていたのは、ケチなだけじゃなくて、目立つことが嫌いだったからだ、とあるわけだが、「目立つこと」「晴れ晴れしいこと」は、必ず金がかかるわけだから、結局、ケチだというところに落ちつく。金もかけずに目立とうとしたら、それこそ、裸で通りを歩くぐらいのことはしなけりゃならない。

 前回の分を書くとき、「取りつき身上」という言葉を調べている過程で、「引っ越し女房」という言葉を発見した。どういう意味かと思ったら、「他の土地で披露をすませて引っ越してきたかのようによそおって、新所帯を持つ妻。」(デジタル大辞泉)とあった。なぜ、そんなことをするのか事情はいろいろだろうが、婚礼で費用をかけたくないという事情も含まれるのかもしれない。


 婚礼には金がかかる。そんなに金をかけたくないと自分たちは思っても、まわりがそうはさせない。和泉屋や小野みたいに「口銭」狙いのヤツがいるからだ。親戚というのも、こういう際には、何を狙うかわかったもんではない。今では結婚式に呼ばれたら、披露宴のご馳走以上の祝儀をはずむだろうが、祝儀以上のものを食いたいと思うケチくさい親戚縁者だっていないとは限らない。とかく人間とは賤しいものである。

 それはそれとして、「人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。」という新吉の気性は、なんとも共感できない。そういう人間もいるのかあ、と驚いてしまうほどだ。

 苦労をして稼いだ金ほど大事なものはない。500円の金を使うにも、それを稼ぐのにどれだけの時間と労力が必要だったかを考えると、ちょっと考えてしまう。小売商ともなれば、利ざやは細々としているから、余計に、出費には厳しくなる。商人は必然的にケチになり、(ケチが悪ければ、計算だかいと言い換えればいい)そして必然的に金持ちになる。金持ちになるには、金を使わなければいいのである。

 これが、職人となると、一度に入ってくる金が大きいし(つまり、商人のように、一品売って5円の利益のでる品物を1000個売って5000円稼ぐのではなく、請け負った仕事が終わると、いっぺんに5000円入ってくるという意味。総額の問題ではない。)その上、金が入ってくる時には、たいてい自分の払った苦労なんぞは忘れているから(そんな職人が多いと思う)、金を惜しげもなくパッと使ってしまうことになる。だから、職人は金持ちになれない、あるいは、なりにくい。

 「計算高い」ということは商人にとっては必須の資質だろうが、「計算高い」職人というのは、あんまり見たことがない。たとえいたとしても信用できない。職人というのは、自分の手仕事に熱中してしまうから、これだけやればいくらになるという計算などしているヒマはないし、もともと計算が不得意な者がなる。その結果、多くの職人は、「計算高い」商人のもとでこき使われて、その挙げ句、ちょっと「いい仕事してるねえ」ぐらいの世辞で舞い上がりかねないから、自分の収入が不当に低いことにすら気づかない。

 まあ、もちろんこれは、貧乏職人の家に生まれたぼくの偏見にすぎないが、いずれにしても、新吉の気性は、ぼくとはあわないことだけは確かだ。「人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風」な男とは、お友達にはなりたくない。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」というぼくの嫌いな言葉があるが、逆に「悪(わる)苦労」という言葉をどこかで聞いたような気がする。辞書で調べても出てこないから、親あたりから直接聞いたのかも知れない。「苦労したことがその人の人格形成上に悪い影響を与えた」ような場合に使う言葉としてぼくは理解してきた。

 長い人生の中で、苦労したことがその人を成長させたという例には事欠かないが、その逆もあるわけだ。あんな苦労をしなければ、もっと素直な人間になれたのに、というようなケースも稀ではない。それどころか、ぼく自身、若い頃の「苦労」(中学受験、大学受験、大学紛争、就職直後のパワハラなどなど)さえなければ、もっと素直ないい人になれたのに、っていつも思っている次第なのだ。

 この新吉の「気性」も、もともとの資質ということもあるだろうが、裸一貫東京へ出てきて、努力してなんとか商売を始めたという「苦労」が、「妙な偏った一種の考え」を形成したといえるだろう。それが「独立心」「個人主義」と呼べるかどうか、はなはだ疑問である。むしろ、「偏屈」な心と言ったほうが当たっているのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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一日一書 1524 林辺鳥語月微下

2019-01-27 11:43:01 | 一日一書

 

林辺鳥語月微下

竹裏華飛春又深

 

林辺鳥語り月微かに下り

竹裏華飛び春又深し

 

44×33cm

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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