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100のエッセイ・第9期・97 いろはにこんぺいとう

2014-08-31 09:12:49 | 100のエッセイ・第9期

97 いろはにこんぺいとう

2014.8.31


 

 「一日一書」なんていって連載を始めたのが、2013年2月14日のことだが、その時は、本当に中井精也さんの「一日一鉄」みたいに毎日1回必ず更新なんて思っていなかった。「たぶん一月もしないで終わってしまうでしょう。」なんて書いているくらいだから、それほど本気ではなかったわけだ。「カテゴリー」の欄を見ていただければ分かるとおり、途中で更新していない「企画」も多い。「ぼくの切抜帖」なんてたった1回だけで頓挫している。

 その「一日一書」が、予想に反して更新頻度が高く、400に近づいているのだから驚く。これは多分に、師匠の発案で始めた「コラ書」のお陰だろうと思う。「書」だけでは、とても続かなかったはずだ。その「コラ書」も、そうそういい写真が撮れるわけでもなく、それにしっくりと合う書がいつでも書けるわけでもないので、できるだけ「一日一書」をこころがけると、かなり辛いものがある。筆を持っても、さて何を書いたらいいのか、途方に暮れることも多いのだ。

 この前、そうした途方にくれながら、なんとなく「いろはにほへと」と書いた。最近、師匠から、ひらがなの練習をするように言われたこともあって、そんな気持ちになったのかもしれない。けれども、普通の筆で書いても、なんだかピンとこない。それで、それまでちょっと試していた草を筆代わりにして書いてみた。偶然できる線や形は、なんだか面白い。

 そんなことをして遊んでいるうちに、頭に「いろはにこんぺいとう」という言葉が浮かんだ。それで今度は筆で書いてみた。草でも書いた。「一日一書」にアップしようとして、はて、これはいったい何の意味だったかと考えた。あ、そうか、「いろはにこんぺいとう こんぺいとうはあまい」ってヤツだとすぐに思い出した。

 それで、「いろはにこんぺいとう、こんぺいとうはあまい、あまいはさとう さとうはしろい、しろいはうさぎ、うさぎははねる、はねるはのみ のみはかゆい、かゆいは……なんだっけ? 最後は、ひかるはおやじのはげあたま、となるんでしたね。」なんていいかげんなことを書いて、アップした。

 その後も、「かゆい」は何だ? ってずっと考えていた。「かゆい」のは、水虫とか、タムシとか、しもやけとか……と考えても、どうもしっくりこない。なんだっけなあ。

 アップしてから2日後だったか、家内が読んだらしく、「あなたの書いてた、いろはにこんぺいとう、だけど、あれ、はねるはかえる、なんじゃないの?」って言う。「はねるはかえる、かえるはあおい……たしか、そうだったと思うんだけど、あおいは何かしらねえ。う~ん、思い出せない。」とうなっている。最後は「ひかるはおやじのはげあたま」は確かだという。そこは一致しているし、最初のほうも一致している。同い年だから、同じような遊びをしていたわけだ。

 しかし、「あおい」は何だったのか、そもそも「はねるはのみ」じゃなかったのか。たしか「はねるは、の~み!」って歌ったような気がするんだけどなあと、ますます分からなくなってしまった。何だっけなあと思いつつ、テレビを見ていると、突然家内が「分かったわよ」とiPadを持ってきた。何とそこには、ちゃんと全部書いてあるではないか。「いろはにこんぺいとう」で検索をかけたらしい。そうか検索はぼくの十八番だったのに、これはやられた。

 それによると、やっぱり家内の方が正しくて、「はねるはかえる かえるはあおい」である。ぼくは、「のみ」に行ってしまったので、行き詰まってしまったのだった。ではその後は?

 「かえるはあおい あおいはおばけ おばけはきえる きえるはでんき でんきはひかる ひかるはおやじのはげあたま」である。う~ん、そうだったのかあ。「はねるは」がネックだったんだ。

 それにしても、「あおいはおばけ」には無理があるなあ。まあ、無理といえばみんなむりだけどねえ。「きえるはでんき でんきはひかる」も、時代を感じさせるなあ、などといろいろな感慨があった。

 そんな感慨にひたりながら、自分でも「いろはにこんぺいとう」で検索をしてみた。確かに、「世界の民謡・童謡」というサイトでは、「『いろはに金平糖』は、日本に広く伝わる遊び歌・わらべうた。連想ゲームのように言葉をつなげて歌っていく。歌われる地域によって歌詞は様々で、歌い出し一つとっても、『いろはに金平糖』で始まるものから、『さよなら三角また来て四角』、『デブデブ百貫デブ』などで歌い始める替え歌・バリエーションも存在する。」とある。

 え、「デブデブ」も替え歌なのか? って思いながら、更に他のサイトをみていくと、初音ミクが歌っているYouTubeが出てきた。へえ~、と思って見てみて驚いた。出だしは「いろはにこんぺいとう」で、「うさぎははねる」まで同じ。ところがである。「はねるは、の~み」なのだ。やっぱりそうだったんだ。「のみ」はぼくの勝手な思いこみではなく、確かにそう歌っていたのだ。じゃ、その後は? それはこうだ。

 「のみはあかい あかいはほおずき ほおずきはなる なるはおなら おならはくさい くさいはうんち うんちはきいろい きいろいはばなな ばななはたかい たかいは十二階 十二階はこわい こわいはおばけ おばけはきえる きえるはでんき でんきはひかる ひかるはおやじのはげあたま」これでおしまい。

 う~ん、そうだったのか。「のみはあかい」だったのか。そうだったかなあ。もちろんのみの色は赤っぽいけどなあ。でも、「なるはおなら おならはくさい」なんて言っていたような記憶が確かにある。でも、「たかいは十二階」の記憶は全然ない。そもそも「十二階」って何だってことになるが、それはもちろん、「浅草十二階」(正式名称は凌雲閣)のことで、明治期の建物としては「たかい」の代表だったのだろうが、横浜の人間にはまったく馴染みがないし、第一「浅草十二階」は関東大震災で崩壊してしまったいて戦後には跡形もなかったわけだから、ぼくらが「たかいは十二階」なんて歌ったとは思えない。それに比べて、「おならはくさい くさいはうんち」は、歌ったような気がだんだんしてきて、それどころかそこでものすごく盛り上がったような気がしないでもない。

 まあ、バリエーションがいろいろあったというわけだから、その辺は別バージョンだったのだろう。少なくとも「はねるはのみ」と歌っていた地域があったことが分かっただけでも大収穫である。更に、矢野顕子が「いろはにこんぺいとう」というアルバムを出し、同名の歌も歌っていることも判明した。そのうち聞いてみることにしよう。

 しかし、今はそれよりも、「さよなら三角また来て四角」、「デブデブ百貫デブ」が「いろはにこんぺいとう」にどうつながるのかが気になってしかたがない。「デブデブ百貫デブ」はそのあと「電車にひかれてぺっちゃんこ おまえのかあちゃんでべそ」でおしまいだったような気がするんだけどなあ。


 



  ■本日の蔵出しエッセイ ぼくらの川にドザエモンは流れ(1/31)

こんな思いこみもあります。


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一日一書 392 いろはにほへと(コラ書)

2014-08-30 17:05:03 | 一日一書

 

 

いろはにほへと

 

 

もちろん、有名な「いろは歌」ですが

漢字で書くと「色は匂へど」

つまり「色美しく照り映えていても」ということで

次の「ちりぬるを」つまり「いつしか色あせてしまうのに」

へと続くわけです。

 

といっても

あまり、写真と歌の内容を関連づけているわけでもありません。

写真は、舞岡公園で去年撮ったもの。

以下の写真もすべて、去年撮影のものを使っています。

結構ストックがあるのです。

 

文字は、「389 草で書く・いろはにほへと」の文字を使っています。

 

 

 

今年はまだ彼岸花は咲いていませんが

これは、去年庭に咲いた彼岸花。

 

 

横浜三渓園の池。

写真の色を反転させていますが

どこか浮世絵のような色調がおもしろくて。

 

 

ギボシの芽。

 

 

秋らしくなってきたので、

そろそろ写真を撮りにいこうかな。

 


 

  ■本日の蔵出しエッセイ 与作(2/59)

声がまだ完全に回復していないので

カラオケには退院後いちども行っていません。

もう一度歌えるかなあ。

 


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一日一書 391 涼(コラ書)

2014-08-29 17:53:55 | 一日一書

 

 

 

突然涼しくなりましたね。

これじゃ、寒い。

「中間」が欲しいです。

 


 

 ■本日の蔵出しエッセイ 親しみ(3/98)

ここに出てくる友人2人と先日久しぶりに飲みました。

3人とも、ずいぶんオジイサンになりました。

 


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一日一書 390 いろはにこんぺいとう

2014-08-28 17:55:29 | 一日一書

 

いろはにこんぺいとう

 

半紙

 

 

いろはにこんぺいとう、こんぺいとうはあまい、あまいはさとう

さとうはしろい、しろいはうさぎ、うさぎははねる、はねるはのみ

のみはかゆい、かゆいは……なんだっけ?

最後は、ひかるはおやじのはげあたま、となるんでしたね。

 

きのう、いろはを書いたら、急に思い出して

こんどは、筆で。

ただ、ちびた筆の穂先をハサミで切って短鋒にしてみました。

 

 

もう一枚。

 


 


 

 

 ■本日の蔵出しエッセイ

 人生は金次第(3/49) 「人生」と「金」再び(3/50)

つづきものです。必ず二つ順番に読んでください。

 

 


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100のエッセイ・第9期・96 強迫神経症的

2014-08-28 10:39:24 | 100のエッセイ・第9期

96 強迫神経症的

2014.8.28


 

 「100のエッセイ」と題してエッセイの連載を始めたころは、目的は、文章の練習だった。1998年の3月に最初のエッセイを書いているから、かれこれ26年も前のことになる。1998年の3月ということは、満49歳だったことになる。え? 40代か? って自分でも驚く。何のために文章の練習をする気になったのかはしらないが、とにかく、1000字で(ごく初期は800字)どこまで書けるかを懸命に模索した。

 パソコンだから文字数は簡単に数えられるので、1字でも多かったりすると、とにかく削って1000字以内に収めた。内容も、あたりまえのこと、誰でも言っていることは書かないように心がけた。(そうなっていたかはまた別の話)自分の言っていることに自信が持てないことは書かないようにした。だから、政治的なことは書かなかった。(ぼくは政治音痴なのだ。)

 話題がちゃんとあって、それできっちりとまとまった文章になるようにした。文体も、できるだけ工夫した。文章修行なんだから当然といえば当然だが、当時のエッセイを読むと、我ながら「よく書けてる」と思えるものがいくつもある。結構やるじゃん、って感じである。

 ぼくは、小学生の頃から文章を書くのも、話すのも、本を読むのも、あんまり好きじゃなかった。どちらかというと苦手だった。高校生になるまで、生物学者か生物写真家になりたいと思っていたので、それでよかったのだ。ところが、数学嫌いがたたって、理系への道が閉ざされ、よりによって国語の教師になってしまったのだから、大変だった。

 高校生になってから友人と「同人誌」を作ったが、自分の書く文章の幼稚さばかりが目立って、コンプレックスに苛まれた。それなのに、文学部しか行くところがなかった。何しろ、記憶力が抜群に弱いから法学部はダメ、数字にはもうメチャクチャ弱いから経済学部もダメ、というわけで、消去法で文学部だったわけだ。大変なわけである。

 それでも、何十年も国語教師をやってきて、50にもなろうという歳で、文章修行を始めたというのだから、学生時代のコンプレックスから抜け出せていなかったのだろうか。だとすると、その歳になっても向上心があったということになるのかもしれないが、まあ、そのころ始めたばかりのホームページを何とか維持したかったというのが本音だったのだろう。

 100書いたらやめるつもりだった「100のエッセイ」の続編を書いているうち、第2期、第3期と、どんどん増えていき、そのうち大震災がやってきて、自分で自分を縛っていることがばからしくなってしまい、それまで一度も破ったことのない「週に1度」「1000字以内」という「掟」を破ってしまった。さらに、その後、ひょんなことから始めたブログが便利だったので、エッセイもブログに移行した。それでも第9期などという枠組みはそのままにして続けているうちに、気がつけば、エッセイも900編に近づこうとしている。

 900編近くも書いてくると、今まで何を書いてきたのかも忘れてしまっているので、「蔵出し」などを始めて、つらつら昔書いたエッセイと最近のエッセイとを読み比べてみると、昔のもののほうが断然いい。短くて、ちゃんと書くべきことが書けているものが少なからずある。最近のものは、どうもダラダラと長いばかりでしまりがない。

 そろそろ潮時かなとも思うのだが、少なくとも1000編という目標は達成したいからやめるわけにはいかない。ただ、今更文章修行でもないわけだから、もっと気楽に書いてもいいんじゃないかと思う。まだ、しまりがないわりには、どこかに、ちゃんとしたものを書こうという意識があるみたいだ。

 加齢から来る(?)しまりのなさは、どう考えても免れないわけだし、それならそれで、かっこつけずに書けばいいじゃないか。前回「ネタ切れの恐怖」なんてことを書いたけれど、それもちゃんとした文章じゃなきゃいけないという強迫観念があるからこその「恐怖」だ。多分に強迫神経症的なところのあるぼくだから、そこから抜け出すのは大変なのだが、なんとか「適当に書き流す、あるいは垂れ流す」ように「努力」したい。なんて書くこと自体、もう強迫神経症的であるのだが……。

 

 



 ■本日の蔵出しエッセイ はじまり(1/1)


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