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一日一書 1190 山海

2017-05-31 16:19:02 | 一日一書

 

山海

 

半紙

 

 


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一日一書 1189 読山海経・陶潜 3

2017-05-30 20:10:09 | 一日一書

 

陶潜

 

読山海経

 

34×47cm

 

コーヒー染めの紙に。 

 

 

 【原文】

 

孟夏草木長 

繞屋樹扶疏 

衆鳥欣有託

吾亦愛吾廬

既耕亦已種

時還読我書

窮巷隔深轍

頗回故人車

歓言酌春酒

摘我園中蔬

微雨従東来

好風與之倶

汎覧周王傳

流観山海図

俯仰終宇宙

不楽復何如

 

 

【書き下し文】

孟夏草木長 孟夏草木長じ

繞屋樹扶疏 屋を繞(めぐ)りて樹(き)扶疏(ふそ)たり

衆鳥欣有託 衆鳥託する有るを欣(よろこ)び

吾亦愛吾廬 吾も亦(ま)た吾が廬(いおり)を愛す

既耕亦已種 既に耕して亦た已に種(う)え

時還読我書 時に還(ま)た我が書を読む

窮巷隔深轍 窮巷(きゅうこう)深轍(しんてつ)より隔たり

頗回故人車 頗(すこぶ)る故人の車を回(めぐ)らす

歓言酌春酒 歓言して春酒を酌(く)み

摘我園中蔬 我が園中の蔬(そ)を摘む

微雨従東来 微雨東より来たり

好風與之倶 好風之(これ)と倶(とも)なう

汎覧周王傳 汎(あまね)く周王の傳(でん)を覧(み)て

流観山海図 流(あまね)く山海の図を観る

俯仰終宇宙 俯仰(ふぎょう)して宇宙を終(お)う

不楽復何如 楽しからずして復(ま)た何如(いかん)ぞや

 

 

【口語訳】

初夏のころ、草や木は成長し、

家の周りの木々も、枝がのび葉がふさふさと茂った。

鳥たちは身を寄せるねぐらができたのを喜び、

私は私で、この自分の廬が気に入って楽しく暮らしている。

畑を耕したり、植えたり、

時には我が愛蔵の書「山海経」を読むのである。

奥まった狭い路地裏は思いわだちとは無縁、

ただ友人の車だけが、よく訪ねて来てくれる。

友人と談笑し、春にかもした酒をともに酌み交わし、

畑の野菜を摘んで、酒の肴にする。

折しも、東の方から小雨が降ってきて、

気持ちのよい風もそよいで来る。

周の穆王(ぼくおう)の物語を拾い読みしたり、

山海の草木や鳥獣の図をあちこちながめたりしていると、

またたくまに、無限の空間と時間を一巡する。

これが楽しくなくてどうしようぞ。

 

 

 


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一日一書 1188 読山海経・陶潜 2

2017-05-29 17:53:58 | 一日一書

 

陶潜

 

「読山海経」より

 

半紙

 

 

衆鳥欣有託

吾亦愛吾廬

 

衆鳥託する有るを欣(よろこ)び

吾も亦(また)吾が廬(いおり)を愛す

 

鳥たちは身を寄せるねぐらができたのを喜び

私は私で、この自分の廬が気に入って楽しく暮らしている。

 

 

ぼくの書斎も「澄月堂」などと大げさなこと言ってますが

草の廬です。

まあ、ぼくも、それなりに、楽しく暮らしています。

 


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一日一書 1187 読山海経・陶潜

2017-05-28 19:44:57 | 一日一書

 

陶潜

 

「読山海経」より

 

孟夏草木長

繞屋樹扶疎

 

 

孟夏草木長じ

屋(おく)を繞(めぐ)りて樹(き)扶疎(ふそ)たり

 

【口語訳】

 

初夏のころ、草や木は成長し、

家の周りの木々も、枝が伸び、葉がふさふさと茂った。

 

 

 

陶潜(陶淵明)の五言古詩の冒頭。

「孟夏」って、なんとなく「真夏」という感じがするかもしませんが

「初夏」のことです。

「孟」は、「はじめ」の意味。

「子どもを産湯に使わせる」という意味の漢字です。

 

今、まさに、初夏。

こんな感じですね。

 

 


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木洩れ日抄 24 かぞく、ってなんだ

2017-05-27 11:04:17 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 24 かぞく、ってなんだ

2017.5.27


 

 ある人にとっては、何でもない当然の言葉であっても、それが、別のある人にとっては、とても辛い、傷つけられる言葉であったりする。これはとても微妙なことで、いちいち気にしていたら、何にも言えなくなってしまうようなことだが、それでも、そういうことがあるということを、頭の片隅に置いている人と、そうでない人とでは何か、生きていくうえで大きな違いができるような気がする。

 例えばぼくが大嫌いな言葉に「健全な魂は、健全な肉体に宿る」というヤツがあって、今ではあまり言われなくなったからいいけど、ちっとも「健全な肉体」を持っていなかったぼくには、辛いというか、嫌な言葉だった。後で、この言葉は、本来は「健全な肉体に、健全な魂を!」という目標みたいなものだと聞いたような気がするが、それにしても、どんなに頑張ったって、健康な肉体を望めない人だってたくさんいるのだから、そういう人にしてみれば、やっぱり辛い標語になるわけだ。元気なジイサン、バアサンが、誇らしげに「やっぱり健康が一番だよ」って笑って言うのは勝手だが、健康じゃない人にしてみれば、それほど残酷な言葉はない。

 日テレで、ここ一週間「7daysTV かぞくって、なんだ。」というテーマで番組を構成していて、いろいろな企画をやっているようだ。日テレは、ヒルナンデスとか、メレンゲの気持ちとかぐらいしか見ないから、詳しいことは知らないが、それにしても、1週間「かぞく、かぞく」って連呼されたらめげる人も多いだろうなあとは容易に想像がつく。「かぞくって、なんだ」というわけだから、別に、あるきまった「家族像」を押しつけるわけじゃないだろうけど、ぼくなんかは、違和感がある。「家族」は大事だけど、それがすべてじゃないし、場合によっては、「家族」なんてこと考えてられないときだってあると思っているし、また経験上、「家族」が必ずしも「幸せ」に結び付かないことだってあることも身にしみて知っている。

 アメリカの映画とかドラマなんか見ていると、ものすごく「家族中心主義」が強調される場面があって、「家族のためなら命も捨てる」なんてセリフがごく普通に出てくる。それがアメリカの男の「あるべき姿」とでもいうように。この前、全話見終わった「キャッスル」でも、それは徹底していた。ドラマ自体は、とても面白かったのだが、その疑問なき「家族主義」にはやっぱり違和感があった。

 学校五日制が導入された時も、「家族と過ごす時間を多くする」というような理由が堂々と主張されていて、そこで前提とされているのは、昔のアメリカ的な、絵に描いたような「家族像」だったのではないかと思う。しかし、世の家族がそんな理想的な家族ばかりであるわけじゃなし、土曜日に子どもが家にいたって邪魔なだけという家族はごまんとあったはずだ。というか、そっちのほうがよっぽど多かったに違いない。案の定、学校五日制なんて、とっくに崩壊している(と思う。)

 ところで、キリスト教は、「家族」をどう考えているのだろうか。少なくとも、「家族礼賛」でないことは確かだろう。イエスは、弟子を集めるときに、「家族を捨てろ」といっていたはずだし、母マリアに対しても、「お母さんがいちばん大事だ」なんて言っていない。むしろ、「家族」から離れたもの、「家族」から排除されたものへの暖かい視線こそがイエスの特徴なのではなかろうか。

 なんて、ふと思ったのだが、その点については、もう少し、聖書もきちんと読んでみたいと思う。キリスト教=クリスマス=家族団らん、といった図式は、いったいどこで、いつから始まったのか、興味深いところである。




 


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