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一日一書 1716 寂然法門百首 64

2022-04-20 08:55:45 | 一日一書

 

必当生於難遭之想

 


よにすまばめぐりあふべき月だにもあかぬ名残りは有明の空
 

 

半紙

 

【題出典】『法華経』寿量品


【題意】 必当生於難遭之想

必ず当に遭い難き想を生し


 
【歌の通釈】
世に生きていれば、月が沈んでも再び昇るように巡り会えるあなた(仏)とさえも、思い切れない別れの名残りの有明の空だよ。


【考】

月が再び空に廻るように、生きていれば恋人とも再び会うことはできるだろう。しかしそれでも別れは辛く、二度と会えないかもしれないと思う中、有明の月が恨めしく残るのである。それと同じように、仏は実際には滅度せず、永遠に月のように衆生を照らし続ける。そうとは言え、妄想にとらわれて志を失うならば仏に再び会うことは難しいという。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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日本近代文学の森へ (215) 志賀直哉『暗夜行路』 102 「俺が先祖だ」 「後篇第三  八」 その3

2022-04-10 14:55:54 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (215) 志賀直哉『暗夜行路』 102 「俺が先祖だ」 「後篇第三  八」 その3

2022.4.10


 

 謙作たちは、別の座敷に導かれ、もっと遊んでいけと勧められたが、残るものは誰もなく、宿に引き返した。

 翌朝、伊勢神宮の内宮から外宮をまわり、それなりに興じた。その後、京都へ帰る途中、ちょっと寄り道をした。

 

 二見から鳥羽へ行き、一泊して、京都へ帰る事にしたが、その帰途(かえり)、彼は亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一卜通り町を見て廻った。
 亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから、神社の建っている城跡(しろあと)の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

 亀山というところを、ぜんぜん知らなかったので、地図で調べてみたら、鈴鹿市の東にあった。その亀山が「東海道五十三次」にあることも知らなかったので、そもそも「東海道五十三次」ってどういう道筋なのかをちゃんと把握してないことに気づいて、また調べたら、なんと(と、いまさら言うのもオロカだが)、亀山は46番目だった。ちなみに、ちょっとWikipediaから抜き出しておくと、

43.四日市(よっかいち)三重県四日市市
44.石薬師(いしやくし)三重県鈴鹿市
45.庄野(しょうの) 三重県鈴鹿市
46.亀山(かめやま) 三重県亀山市
47.関(せき) 三重県亀山市
48.坂下(さかした) 三重県亀山市
49.土山(つちやま) 滋賀県甲賀市
50.水口(みなぐち) 滋賀県甲賀市
51.石部(いしべ) 滋賀県湖南市
52.草津(くさつ) 滋賀県草津市
53.大津(おおつ) 滋賀県大津市

となっている。


 ちゃんとした人は先刻承知のことなのだろうが、ぼくなぞは、品川から神奈川を経て戸塚、藤沢あたりを通って、浜松あたりまでは、だいたい把握していたけど、桑名あたりからは、ぼんやりとしか認識してなくて、てっきり、大垣の方へ行って、それから大津へ行くコースだと思っていたのだからお話しにならない。

 地図に印をつけていくと、伊勢から大津までは、鈴鹿山脈を突っ切って、ほぼ直線でつながっていることが確認できた。だからこそ、謙作は、「室生寺より伊勢のほうが近い」と感じたわけだ。

 謙作が見たいと思った広重描くところの「大きい斜面」というのも、今回初めて見た。(下に画像があります。)広重の五十三次の絵も、ぜんぶちゃんと見てはこなかったわけだ。その点、謙作(あるいは志賀直哉)は、エライものだ。

 亀山は、「亡き母」の郷里だということが、ここで突然出てきて面食らう。今まで一度もこの地名は出てこないのだ。なんでいきなり「亀山」なのか。なにか理由があるのだろうか。この後にはもう「亀山」は出てこないから、永久にナゾであろう。

 謙作は、そこで、「亡き母を思わせる」女に出会う。

 


 俥を鳥居の前に待たし、いい加減にその辺を歩いて見た。下の方に古い幽翠(ゆうすい)な池があり、その彼方(むこう)がまた同じ位の山になっていた。彼はその方へ降り、そして、急な山路をその高台へ登って行った。上は公園のようになっていて、遊びに来ている風の人は一人もいなかったが、身なりの悪い、しかし何処(どこ)か品のいい五十余りの女が一人、其処(そこ)で掃除をしていた。彼が登って行くと、その女も掃く手を止めて此方(こっち)を見ていた。その穏やかな眼差しが、親しい気持を彼に起こさせた。そして丁度亡き母と同じ年頃である事が、そして昔の侍の家(うち)の人であろうという想像が、彼に何かその女と話してみたいという気を起こさせた。

 

 
 なにか思わせぶりな展開である。先日終わってしまった朝ドラ「カムカムエヴリバディ」だったら、これはきっと何かの伏線で、その女が亡き母の妹とか親戚とか幼なじみとかになるところだろう。しかし、さすがに「暗夜行路」ともなればそうはならない。筋の展開でひっぱる小説ではないからである。まあ、当たり前だけど。


「此所(ここ)は……」こんな事をいいながら彼は近寄って行った。「やはりお城の中ですか?」
「そうでござります。こちらは二の丸で、あちらが昔の御本丸でござります」そういって女の人は神社のある方を指(ゆびさ)した。
「昔、此所にいた人で佐伯(さえき)という人を御存知ありませんか」
「佐伯さん。御旧臣ですやろ」
「そうです」謙作はわけもなく赤い顔をしながら、「佐伯新(しん)というんですが、丁度あなた位の年です」謙作は当然「知っている」という返事を予期しながら少し焦(せ)き込んでいった。
「はあ──」とその女の人は呑込めない顔をして首を傾けた。「お新さんといわれたお方はよう覚えまへんが、お金さんとそのお妹御でお慶さんといわれるお方はよう存じとりますが」
「女同胞(きょうだい)はないのです。──多分なかったんだろうと思うんです。もっと他にありませんか、佐伯という家は……」
「さあ、どうですやろ? 私どもの覚えているのは御維新(ごいっしん)から後の事ですよって、他(ほか)土地へ出られたお方やと存じませんのやが、今申しました、佐伯さんでお訊ねやしたら、大方知れん事もござりますまい」
 結局謙作の予期に外れた。それに彼はそういう機会もなく、母の幼時の事などをまるで知らなかった。母が何時(いつ)から東京へ出て来たのか、母方の親類にどういう家があるのか、第一母の父の名さえ彼は知らなかった。「芝のお祖父様(じいさま)」で事が足りていたので、その祖父を自家(うち)の祖父よりも心から尊敬し愛していたにもかかわらず名を知らなかった。
 女の人はこの土地の佐伯という家(うち)を教えてくれたが、彼は別に行く気もなく、礼をいって別れた。彼は自分が余りにそういう事を知らなかった事を──知る機会が自分にかった事を今更に心附いた。
 夕陽が本丸の森を照らしていた。《ぬるで》だけがもう紅葉して青い中に美しく目立っていた。
「しかしそれでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ」こんな事を思いながら、彼はうるさ<折れ曲がる急な山道を、既に秋らしく澄んだ池の方へ、トントンと小刻みに馳け降りて行った。


 「総ては自分から始まる。俺が先祖だ」という謙作の言葉は、これまでの物語の流れの中での「画期」となるだろう。

 旅の途中で、自分の祖先のことを急に知りたくなって、母の郷里に立ち寄り、実家のことを尋ねてみるが、期待外れに終わるという展開は、この「俺が先祖だ」を導き出すためのものだったと言えるだろう。

 自らの出生にさんざん苦しめられ、最初の結婚話も訳の分からぬ拒絶にあい、挙げ句の果ての放蕩三昧。不自然とは知りつつ、やるせないお栄への愛による苦悩とその挫折。すべては、自分の出生のあまりに非常識なあり方ゆえだった。それにもかかわらず、自分が尊敬してやまなかった母方の祖父、その血筋を知ろうともしなかったのは、どうしてなのか。そちらに「救い」をどうして求めなかったのか、それはよく分からない。しかし、そんなことを知ったところで、果たしてなんの「救い」になっただろうか。「過去」は、もう、謙作にとっては、どうでもよいことなのだ。まして、どのような家に生まれたのかなぞ、これから生きるうえでは何の役にもたたないのだ。俺は俺の考えで生けばいい。謙作はやっとそのように思えるようになったのだった。


 

 

「東海道五十三次之内 亀山」 副題「雪晴」

 

 


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一日一書 1715 寂然法門百首 63

2022-04-03 10:33:33 | 一日一書

 

住忍辱地


みちのくの忍ぶもぢずり忍びつゝ色には出でゝ乱れもぞする
 

半紙

 

【題出典】『法華経』安楽行品


【題意】 住忍辱地

忍辱の地に住し


 
【歌の通釈】
陸奥の信夫の摺り模様ではないが、忍び耐えながらいよう。あなたへの思いが表に出てしまい、乱れもしようから。


【考】

うぶな若者が、恋に耐え忍ぶ心も、苦楽に惑わされない心を目指す初心の菩薩の修行にかなう。この歌は、『千載集』に、第三句を「色には出でじ」として、釈教部ではなく、恋部に採られている。これは、法文題を取り除いても歌として自立するものが多いという、当百首の歌風を象徴する現象である。恋と忍びと仏道の忍耐を重ね合わせたものとして、慈円の「御法こそ忍ぶ中にもうれしけれなむあみだ仏もてかへしつつ」(拾玉集・治承題百首・恋・校本二〇六五)も影響下にあるものだろう。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


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日本近代文学の森へ (214) 志賀直哉『暗夜行路』 101 小さな変化 「後篇第三  八」 その2

2022-04-02 14:43:30 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (214) 志賀直哉『暗夜行路』 101 小さな変化 「後篇第三  八」 その2

2022.4.2


 

 N老人たちは、翌々日、敦賀へ帰った。急にヒマになった謙作は、一週間先に来るお栄が待ち遠しく思い、それまでの無為な日が落ち着かない気がしたので、友人の高井を誘って、伊勢参りでもしようかと考える。


 翌日、それは気持よく晴れた日だった。彼は高井が何処かへ出掛けぬ内に行くつもりで京都を早く出た。そして奈良の浅茅ヶ原の茶店の離れにいるはずのその友を訪ねたが、高井は既に二、三日前、郷里へ引上げて、いなかった。謙作はちょっとがっかりした。彼は室生寺へでも行こうかと考えた。ただ、室生寺が何処で汽車を下り、どう行くのか、そういう事は精しく知らず、それを調べるのも億劫な気がし、で、やはり一番近い伊勢参りをする事にして、奈良では博物館だけを見て、直ぐ停車場へ引きかえした。

 

 室生寺へでも行こうかと思ったが、どういくのかよく分からないし、調べるのも億劫だというところが面白い。当時の奈良の交通事情はどうなっていたのだろうか。今なら、近鉄線を使えば、一度の乗り換えでいけるが、そんなに便利でなかったことは確かだろう。

 それにしても、室生寺より伊勢のほうが「近い」というのにはびっくりする。距離的にいえば、おそらく伊勢のほうが、室生寺より二倍は遠い。京都から伊勢まで、どのようなルートで行ったのか、調べてみたい誘惑に駆られるが、まあ、やめておこう。

 室生寺には何回か行っているが、「室生口大野」からは、バスで行かねばならず、今でも行きやすいところではない。それよりずっと「近い」伊勢に、ぼくは一度も行っていないというのも皮肉な話である。

 


 伊勢参りは思ったより面白かった。神馬(しんめ)という白い馬にお辞儀をさせられるという話を聴いていたが、まさかにそれは嘘だった。五十鈴川の清い流れ、完全に育った杉の大木など見てみなければわからぬ気持のいい所があった。それから古市(ふるいち)の伊勢音頭も面白く思った。
 芝居で馴染の油屋という宿屋に泊り、その伊勢音頭を見に行く事にしていると隣室の客が一緒に行きたいといい、食事も一緒にしたいからと境の唐紙(からかみ)を開け放さした。「丁度県会の方が暇になったものですから」こんな風に、その人はいいたがる人だった。鳥取県の人で彼より三つ四つ年上の人だったが、県会議員が、どの程度に自慢の種になる事か全く知らない謙作は県会が出るたび、気の毒なような軽い当惑を感じた。
 山陰に温泉の多い事、それから、何とかいう高い山が、叡山に次ぐ天台での霊場で、非常に大きなそして立派な景色の所だというような話をした。

 


 「伊勢参りは思ったより面白かった。」というのは、行く前は、お伊勢参りで有名だって、どうせたいしたことはないだろうと謙作が思っていたということだ。そうしたどこか突き放したような態度は、謙作には、そしておそらく志賀直哉にはある。

 それはまた人間に対してもそうなのであって、鳥取の県会議員に対する、ひややかな観察にもそれが表れている。田舎の県会議員なんて、自慢になるものかという侮蔑的な気分が、「県会議員が、どの程度に自慢の種になる事か全く知らない謙作は県会が出るたび、気の毒なような軽い当惑を感じた。」という皮肉な表現となっている。

 だからその県会議員が口にした山も、「なんとかいう高い山」としか記憶に残らない。しかし、「叡山に次ぐ天台での霊場」であるということは、それがこの小説のクライマックスの場面として夙に有名な大山であることは明らかだ。

 その大事な「大山」の登場を、こんなささいな場面で、卑俗な県会議員の口から出た「なんとかいう高い山」という形で示すという、見事な伏線であろう。

 伊勢について述べられている「見てみなければわからぬ気持のいい所」というのが、やがて「大山」にも適用されるのだろうが、考えてみれば、ぼくらは、こうした「どうせたいしたことはないだろう」という先入観をいろいろな場所や、人に対して持っているものだ。現にぼくなども、その典型で、伊勢も、「どうせたいしたことはないだろう」ぐらいにしか思っていない。もし今後行ったとして「伊勢参りは思ったより面白かった。」と思うのだろうか。

 その県会議員や下座敷の客などと一緒に、「伊勢音頭」を見にいくことになった。


 染めたのか、くすぶったのか、とにかく、黒ずんだ、ひどく古風な座敷へ通された。深い大きな床を背にして、皆が段通(だんつう)へ直かに坐っていると、その前の三宝に番組ようの刷物と他に菓子か何かが積んであって、前三方は御簾をへだてて、やがて舞台となるべき花道ほどの廊下に向っている。
 「あなたは偉い、一人でこれを見ようとされたのだから」と鳥取県の人が謙作を顧みて笑った。謙作は別にそういう事は考えずにいたが、なるほどそういえばこの広い座敷に一人ぽつ然(ねん)としていて、十何人かの女が出て来たら、ちょっと具合の悪い事だったかも知れないと思った。
 下方(したかた)が四、五人坐り、太悼とも細悼ともつかぬ三味線を弾き出すと、木が入り、三方の御簾が上がり、電気がつき、廊下が一尺ばかりせり上り、それに低い欄干がつき、そして両方から四人ずつの女が出て来て、至極単調な踊りを、至極虚心に踊るのである。十五分位で済んだ。その単調な調子も、その余りに虚心な処も、それから、太とも細ともつかぬ三味線の悠長な音色も面白かった。それに時代離れのした座敷の様子も、総てが謙作にはよかった。これを一人でぽつ然と見ていたらなお面白かったかも知れないと考えた。


 なんとも面白くなさそうな「伊勢音頭」なのに、謙作は、「面白い」という。「鳥取県の人」がエライというけれど、それもそうかもしれないけど、これを「一人ぽつ然」と見るのも「なお面白かったかもしれない」と思う謙作。

 どこか対象を突き放した見方をする謙作の心に、どうやら、わずかながら、変化が生じているようだ。自尊心の塊で、なにかといえば、すぐに「不快」を連発していた謙作が、こんな、わけもわからない「伊勢音頭」に「面白み」を感じている。これは「小さな」変化だが、やがて「大きな」変化へと発展していくのだろう。

 

 


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