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日本近代文学の森へ 257 志賀直哉『暗夜行路』 144  直子の「不安」 「後篇第四 五」 その1

2024-03-17 13:45:05 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 257 志賀直哉『暗夜行路』 144  直子の「不安」 「後篇第四 五」 その1

2024.3.17


 

 「第四─四」の章は、突然泣き出した直子を見て、「とにかく自分たちの上に恐しい事が降りかかって来た事を明らかに意識した。」という文で終わり、「五」章へと入る。

 「四」では、ずっと謙作の視点から描かれていたのだが、「五」へ入ると、突然、視点は謙作を離れ、いわゆる第三人称の記述となる。そして、直子と謙作の間に何があったのかを、客観的に語ることとなる。

 この経緯は、直子から直接聞いたことが主となっているのだろうが、一種の錯乱状態にあった直子が、こんなに整然とことの経緯を語ることはできるはずはない。もし、直接に会話として語らせたら、意味不明のところや、感情の発作やらを書き込まないわけにはいかず、非常にややこしいことになるだろう。これがドラマや映画だったら、そのややこしいところをどう描くかが、脚本家や演出家や役者の腕のみせどころとなる。

 しかし、小説は、そこをすっと避けて、「客観的叙述」をすることができる。ある意味、これが小説の最大の強みと言えるのかもしれない。

 作者は、この小説ならではの強みを生かし、ここでいったん第三者の視点をとることで、直子のしてしまったことを、その遠い原因まで遡って描くことにしたわけだ。


 直子と要(かなめ)との関係は最初から全く無邪気なものとはいえなかった。それはそれほど深入りした関係ではなく、単に子供の好奇心と衝動からした或る卑猥(ひわい)な遊戯だが、それを二人は忘れなかった。色々な記憶の中で、それだけがむしろ甘い感じで直子には憶い出されるのだ。


 直子の「あやまち」の遠因が、直子と要の子ども時代にあることが語られる。

 子どもの頃の記憶というのは、不思議なもので、ほとんどがぼんやりしている中で、ある一点だけが、まるでスポットを浴びたように鮮明に残っているものだ。その子ども時代の不思議にも鮮明な記憶のありかたを、ここでは実にうまく使っている。

 と同時に、この小説の当初に描かれた、謙作と母親とのある思い出のことも、読者は思い出すだろう。

 謙作が尾道で一人暮らしを始めたころ、自伝的な小説を書こうとして、幼児期を思い出すところがある。様々な断片的な思い出の中に、こんな思い出が語られる。


 まだ若荷谷にいた頃に、母と一緒に寝ていて、母のよく寝入ったのを幸い、床の中に深くもぐって行ったという記憶があった。間もなく彼は眠っていると思った母から烈しく手をつねられた。そして、邪慳(じゃけん)に枕まで引き上げられた。しかし母はそれなり全く眠った人のように眼も開かず、口もきかなかった。彼は自分のした事を恥じ、自分のした事の意味が大人と変らずに解った。この憶い出は、彼に不思議な気をさした。恥ずべき記憶でもあったが、不思議な気のする記憶だった。何が彼にそういう事をさせたか、好奇心か、衝動か、好奇心なら何故それほどに恥じたか、衝動とすれば誰にも既にその頃からそれが現われるものか、彼には見当がつかなかった。恥じた所に何かしらそうばかりいいきれない所もあったが、三つか四つの子供に対し、それを道徳的に批判する気はしなかった。前の人のそういう惰性、そんな気も彼はした。こんな事でも因果が子に報いる、と思うと、彼はちょっと悲惨な気がした。  「暗夜行路 前編 第二─三」

 


 ここは、母との思い出なのだが、ここで語られるのは、明らかに自分の中の「性的衝動」だ。子どものそうした衝動に「道徳的に批判する気はしなかった」と言うが、謙作の中には、深い「傷」として残っていたに違いない。自分の中にある闇、それが「因果が子に報いる」という形で継承されていることに謙作は「悲惨」を感じていたのだ。

 直子においては、それが「傷」として、あるいは「悲惨」として残ったわけではないが、「不安」として残っていて、それが要との再会において、意識されていたのだ。

 では、その直子の「不安」はどういう経緯で生まれたのか見ていこう。

 

 春、まだ地面に雪の残っている頃だった。小学校から一度帰った要は父の使(つかい)で直子の母を呼びに来た。直子は近所の年下の女の児(こ)を対手(あいて)に日あたりの縁で飯事(ままごと)をしていた。それが面白く、「お前も要さんとこへ行かんか」と母に誘われたが、断って、遊びに余念なかった。
 少時(しばらく)すると、もう帰ったと思った要が庭口から入って来て、二人の仲間に入り、金盥(かなだらい)に雪を積んで来ては飯にして遊んだ。
 縁が解けた雪で水だらけになり、皆の手はすっかりかじかんでしまった。三人はその遊びをやめ、部屋に入り、矩撻にあたった。
 要は近所の児を邪魔者にし、「あんた、もうお帰り」こんな事を切(しき)りにいい出した。しかし女の児は帰らなかった。
 すると、要は「亀と鼈(すっぽん)」という遊びをしようといい、直子に赤間関(あかまがせき)の円硯(まるすずり)を出して来さし、その遊びを二人に教えた。それは硯を庭に隠しておき、子供になった女の児が硯を探して来る。そして障子の外から「お母さん亀を捕りました」という。直子のお母さんが「それは亀ではありません」と答える。その時、要が大きな声で、「鼈」と怒鳴るという遊びだ。二人には何の事かさっぱり解らなかったが、それをする事にした。
 女の児が要の隠した硯を探している間、二人は炬燵(こたつ)に寝ころんでいた。そして漸(ようや)く見つけ出し、それを持って来た時、要はいきなり、「鼈」と怒嶋って飛起き、一人ではしゃぎ、跳り上ったり、でんぐりがえしをしたりした。
 この遊びは下男から教えられた。そして、その卑猥な意味は要だけにはいくらか分っていたが、直子には何の事か全く分らなかった。ただ、炬燵で抱合っている間に直子はかつて経験しなかった不思議な気持から、頭のぼんやりして来るのを感じた。三人は幾度かこの遊びを繰返した。暫(しばら)くして、直子の兄が学校から帰って来て、二人は驚き、飛起きたが、直子は兄の顔をまともに見られぬような、わけの解らぬ恥かしさを覚えた。
 要と直子との間では二度とこういう事はなかった、しかしこの事は不思議に色々な記憶の中で、はっきりと直子の頭に残った。

 

 「赤間関」というのは、「日本の硯を代表する一つに挙げらる硯。山口県の特産品。」(詳しくはこちらを見てください。ぼくは知りませんでした。)

 ここで要が言い出した「亀と鼈」という遊びがどういうものだったかの概要は分かるが、それがどういう「卑猥」な意味を持っていたのかは、ぼくにもよく分からない。「亀」も「鼈」も、どこか卑猥なイメージがあることは分かるが、遊びのどこが卑猥なのかはイマイチ、ピンとこない。

 とはいえ、この遊びの「肝」は、いわゆる「お医者さんごっこ」といった露骨なものではなくて、「二人で隠れる」という部分にあるのだろう。「かくれんぼ」は、大抵ひとりで隠れるけれど、これが二人で隠れるとなったら、どういうことになるか分からない。まして、日頃好きな子と二人で隠れるとなれば。

 ぼくには幼稚園での思い出がたったひとつある。それは、鬼ごっこで、逃げているとき、女の子の鬼につかまりたい、と思った、というそれだけのことだ。なぜか、切なくそう思った、ような気がする。

 炬燵というのも、また隠微なもので、小学低学年のころ、近くの女の子に家に遊びにいったことがあるのだが、冬で炬燵があった。それも大きな掘炬燵だった。そこに座ってお菓子かなんかを食べていたのだが、なにかの拍子にお菓子が炬燵の中に落ちた。それをとろうと、ぼくは炬燵の中に潜り込んだ。中は意外にひろくて、座れるほどだった。ただ、それだけのことで、そこに女の子の足が見えたとか、それを触ったとかいうことでは全然なくて、まったくただそれだけのことだったのだが、なぜか、今でもその炬燵のなかの空間というか空気というか、そんなものが記憶にくっきりと刻まれている。

 たったそれだけのことが、記憶に残っているくらいだから、直子の記憶は鮮明だったことだろう。遊びの意味は分からなくても、「炬燵で抱合っている間に直子はかつて経験しなかった不思議な気持から、頭のぼんやりして来るのを感じた。」というのは、なかなか強烈だ。意味が分からなくても、「わけの解らぬ恥かしさ」は、直子の「性的体験」としての生々しさを語っている。


それ故、直子は謙作の留守に要が不意に訪ねて来た時、かすかな不安を感じたが、感じる自身が不純なのだとも考え、殊更(ことさら)、従兄妹(いとこ)らしい明かるい気持で対するよう努めた。翌日、水谷や久世が来て、花を始めた時にも、こういう第三者がいてくれる事はかえっていいと思い、人妻として不都合だというような事は少しも考えず、自分も仲間になって夜明かしをしたが、夜が明け、陽の光になお、遊び続けていると、さすがに体力で堪えられなくなり、食事の事など総て仙に頼んで、自分だけ裏の四畳半に引き下がり、ぐっすりと寝込んでしまったのである。

 

 直子の感じた「かすかな不安」も、「不安」を感じること自体が「不純」ではないかとも考え、そのうえ、第三者がいるということで、かき消され、直子は、疲れで寝込んでしまったのだというのだ。

 この「かすかな不安」は、ひょっとして昔のあのときの要は、自分と同じような気分を感じ、あるいは、そういう気分を感じるためにあんな遊びを提案したのではないか──とすれば、今でもあのときのような気持ちをまだ自分に対して持ち続けているのではないかという要に対する「不安」であると同時に、自分はあのときのような気分をまだ忘れていないのだとすれば、要がなにかしてきたときに、抵抗できないのではないかという、自分自身に対する「不安」でもあっただろう。

 そしてその直子の不安は、現実のものとなってしまったのだった。

 

 

 

 

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