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一日一書 898 奥の細道(卯の花をかざしに関の晴着かな)・曾良

2016-05-31 16:16:09 | 一日一書

 

芭蕉「奥の細道」より

 

卯の花をかざしに関の晴着かな(曾良)

 

 

この部分の本文は以下の通りです。

 

心許なき日かず重ぬるままに、白川の関にかゝりて、旅心定まりぬ。

「いかで都へ」と便求めしも理(ことはり)也。

中にも此の関は三関の一(いつ)にして、風騒の人、心をとどむ。

秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶(はほ)あはれ也。

卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にも越ゆる心地ぞする。

古人冠を正し、衣装を改(あらため)し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良

 

【口語訳】

待ち遠しく心落ち着かない旅の毎日を続けているうちに、

白河の関までやって来て、やっと旅に徹する心に落ち着いてきた。

むかし、平兼盛が白河の関まで来て、

「なんとかつてを求めて、この関越えの感慨を都へ告げたい」

と願ったのも、もっともである。

数多い関の中でも、この関は三関の一つにあげられ、

風雅に志す人々の関心が向けられている。

能因法師の「秋風ぞ吹く」の歌の「秋風」の響きや、

頼政の「紅葉散りしく」の歌の「紅葉」を思い浮べながら、

いまは秋ではないから、青葉の梢を仰ぎ見るのだが、

この青葉の梢のさまも、やはり深い趣がある。

卯の花の白いところに、さらに白い茨の花が咲き添って、

雪の折にでも関を越えているような気がする。

むかし、竹田大夫国行が、この関を越える時、

冠をかぶり直し、衣服を整えて通ったということなどが、

清輔の『袋草紙』に、書きとめてあるとかいうことだ。


卯の花をかざしに関の晴着かな

(古人は冠を正し、装束を改めて、この関を越えたというが、

自分には改めるべき衣服もないことだから、

道のほとりに咲いている卯の花を折り取って挿頭(かざし)とし、

これを晴着にして関を越すことだ) 曾良

〈小学館「日本古典全集」による〉

 

 

いま眼前に見ている白川の関は、初夏の青葉がしげり、卯の花が咲いているのだが、

この関にまつわる様々な歌や、故事が、眼前のイメージを変容させています。

「旅」のありかたも、芭蕉の時代のほうが、今よりもずっと豊かだったような気がします。

 

 


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一日一書 897 奥の細道(卯の花)・芭蕉

2016-05-30 16:38:50 | 一日一書

 

芭蕉「奥の細道」より

 

卯の花は白妙に茨の花も咲そひて、雪にも越ゆる心地ぞする。

 

 

久しぶりの「コラ書」です。

 

この初夏、ぼくは生まれて初めて「卯の花」を知りました。

今まで何度となく耳にしてきた「卯の花」でしたが、それがどういう花か

確かめようともしてこなかったわけです。

 

有名な「夏は来ぬ」の「卯の花の匂う垣根に」の歌詞。

そしてこの「奥の細道」の白川の関での記述。

この部分は、古文の教科書にとられることも多く

何度か授業でやってきたにもかかわらず、「卯の花」の実物を生徒に示すことはおろか

写真すら見せることなく「通過」してきたというわけです。

何という怠慢な教師だったのでしょう。

 

今年、舞岡公園での花の撮影をしていて、この真っ白に、こぼれるように咲いている花こそ

ウツギの花、つまり「卯の花」であることを知ったというわけです。

 

芭蕉が、白川の関で、この花の中を歩き、「雪にも越ゆる心地ぞする」と書いたのは

何も誇張した表現ではなくて、まさに実感だったのだと、今更ながら

わが身の不明を恥じるとともに、深い感慨を味わったのでした。

 

文学の鑑賞において、そこに出てくる土地や風俗を知っていることは重要なことですが

植物もまた、とても重要です。

学校に「庭」には、こうした文学に登場するような植物をつとめて植えるべきだなあと

学校をやめてしまった後で、痛感しています。

 

 

卯の花と一緒に咲いていた「茨」はこの「ノイバラ」だったのだろうと思います。

これも白くてカワイイ花です。

 

 

 


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一日一書 896 奥の細道(五月雨)・芭蕉

2016-05-29 09:50:54 | 一日一書

 

芭蕉「奥の細道」より

 

五月雨をあつめて早し最上川

 

半紙

 

 

この前の部分の文章は名文。

全部書いてみたのですが、うまくいかず、とりあえず句のみ。

 

 


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一日一書 895 奥の細道(大石田)・芭蕉

2016-05-28 20:08:32 | 一日一書

 

芭蕉「奥の細道」より

 

半紙

 

 

 

最上川のらんと大石田と云(いふ)所に日和を待(まつ)。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、

忘れぬ花のむかしをしたひ、蘆角(ろかく)一声の心をやはらげ、此(この)道にさぐりあしして、

新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければ、

わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰(ここ)に至れり。

 

【口語訳】

 最上川を船に乗って下ろうと、大石田という所で、舟行に都合のよい日和を待っていた。

するとこの地の人々が「この土地には古く俳諧の種がまかれて、

いまでも俳諧をやっております。その華やかに行われたころがなつかしく、

かつまた、片田舎の素朴な風流とはいえ、それなりに風雅の趣を解するようになって、

手さぐり足さぐりで俳諧をやっております。しかし近ごろは、新しい句風がよいのか、

古い句風が正しいのか、わからずに迷っているしだいです。

それも適当な指導者がいないからなのです。ついては……」

と頼みこまれていたし方なく、この地の人たちと俳諧連句一巻を巻いた。

この俳諧修行の旅も、ここに蕉風の種をまくようなことにまで及んだのである。

 

 

この「大石田」という所は、後に晩年の斎藤茂吉がしばらく住んだことでも有名です。

茂吉が住んだのは、昭和21年2月から翌22年11月まで。

昭和42年発行の、「日本詩人全集」(新潮社刊)の年譜では、こう記述しています。

 

「昭和21年(64歳)二月金瓶を去って山形県大石田の二藤部(にとべ)方の離家へ移る。

握飯をもち、つまごをはき、敷物用のさんだわらを抱えて最上川のほとりを歩く。

最上川は茂吉の少年の日からの忘れがたい故郷の川であった。老いた茂吉の心に

再び創作意欲が燃え立った。」

 

茂吉が山形に移り住んだのは、疎開のためだったのですが、

この年譜で、64歳の茂吉のことを

「老いた茂吉」と書いてあるのを数年前に見て衝撃を受けたものです。

昭和42年ごろには、

64歳という年齢は「老いた」と形容されることになんら不思議はなかったのでしょう。

今なら絶対こうは書かないだろうと思いますけどね。

 

それはともかく、芭蕉が地元の俳諧愛好者から頼まれて指導をしたのが、

この大石田だということを茂吉はどこかに書いているのでしょうか。

ちょっと調べたくなります。

 

 

 


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一日一書 894 盲目の秋 3・中原中也

2016-05-27 16:08:20 | 一日一書

 

中原中也「盲目の秋」より

 

半切

 

 

いつもはだいたい半紙に書いてアップしているのですが

たまには、半切を書こうと思って。

ただ、さすがにスキャナーは使えず

インチキな照明環境でカメラで撮ったので、画像はダメです。

均等に光があたる照明を考えねば。

 

 

 

 


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