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日本近代文学の森へ (79) 「作者」と「作品」──「個人」の「発見」

2019-01-13 16:18:24 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (79) 「作者」と「作品」──「個人」の「発見」

2018.1.13


 

 「作者」と「作品」ということを考えていると、大学時代だったか、さかんに「アーチスト」と「アルチザン」との対立がやかましく言われ、芸術家というのは「アルチザン」なんだというようなことが言われていたのを思い出す。今ではとんと耳にしなくなったが「アルチザン」というのは「職人」のことだ。

 職人は、自分の仕事に名を残さないのが普通だ。ぼくの祖父は、字書きでかつ絵描きだったわけだが、その字は、ペンキの看板だったし、その絵は、風呂屋の背景のペンキ絵だった。だから署名など決してせず、風呂屋で富士山の絵をみたお客も、それを描いた「山本繁吉」という名前の人間が描いたかどうかなんてことはまったく知らなかっただろうし、知っていても、だからどうだということでもなかったろう。ペンキで描かれた富士山だの、紅葉の中の滝(風呂屋のペンキ絵は、必ずしも富士山だけじゃなかった。ぼくの記憶にあるのは滝の絵だ。)だのを見て、その「作者」への思いを馳せるということはまず皆無だったし、それは、過去の職人の仕事においてもそうだろう。まあ、特に有名になった左甚五郎とか、そういう人は、「作者」として記憶されるだろうが、そうなると「アルチザン」というより「アーチスト」扱いされるのかもしれない。

 当時「アルチザン」と共によく言われたのが「無名性」ということで、要するに、自分の名前を後世に残そうなんてことを懸命に考えて制作に励む「アーチスト」は、せこいヤツで、そんなことを夢にも考えることなく制作に没頭して、いいものをつくる「アルチザン」こそが尊いのだというようなことだったらしい。

 そういうことを、真剣に考えたわけじゃなかったけれど、なんとなく当時の美学的・芸術論的(?)な流行だったような気がする。それが最近耳にしなくなったというのは、いったいあれは、どういう決着をみたのだろうか。

 その当時、つまり、1970年前後ということだが、演劇の分野でよく言われたのは、役者っていうのは「河原乞食」なんだということで、小沢昭一の『私は河原乞食・考』なんていう本も出た。読んだのか読まなかったのかよく覚えてないが、とにかく、演劇というものを「河原乞食」という、いわば原点から考えようとしたということは、やはり「アーチスト」「芸術家」への反逆という意味があったのではなかろうか。

 「アルチザン」にしても「河原乞食」にしても、結局「近代」の否定あるいは見直し、ということになるのだろう。近代というのは、「個人」の価値に目覚めた時代ということらしい。何しろ『個人の発見 1050〜1200年』(C・モリス)という本があるくらいで、これは今でも持っているけど、まだ読んでいないが、「発見」するくらいだから、それ以前には「個人」なんていう概念はなかったことになる。「個性が大事」とか「個人の尊厳」とかいったことは、人類誕生のころからあったわけじゃなくて、「発見」されたものだということだ。

 そういえば「子供」というものも「発見」されたらしくて、これはアリエスという人が『〈子供〉の誕生』という本に書いているらしい。これも持っているのに、まだ読んでないから、よくは知らないが、「子供」という概念は、近代になって生まれたということらしい。つまり、それ以前は、「子供」というのは、単なる「大人になる過程」にすぎなくて、「子供」独自の価値というものがなかった、ということなる。

 昔は「赤ちゃん」といえば、それでオシマイで、赤ちゃんのオモチャなんていうのも、実に大ざっぱなジャンルだったのに、近頃、「赤ちゃん本舗」だの「ベイビーザラス」だののオモチャ売り場にいくと、「0ヶ月〜2ヶ月用」だとか「5ヶ月〜6ヶ月用」だとか、実に細かく分類されていて、びっくりしてしまう。オモチャでさえそうなのだから、まして、オムツだの肌着だのは、もう、ことこまかで、大人向けの商品が大ざっぱに見えるほどだ。まさに「赤ちゃんの発見」ということなのかもしれない。

 いずれにもしても、「個人」とか「子供」とかいった、ごく当たり前の概念が、実は比較的新しいものであるということは面白いことだ。

 だから「作品」の背後に「作者」の存在がくっきりとあって、「作品」は「作者」の「自己表現」なのだという考え方は、あくまで「近代的思考」なのであり、「近代」の価値観が揺さぶられる時代には、「作者」なんかに拘るのはナンセンスだということにもなるわけだ。

 小さな「個人」の「自己表現」なんていうチマチマした「作品」より、縄文土器のあの荒々しく新鮮な表現を見よ、そこには「個人」「作者」の影もないじゃないか、というわけだ。

 小説においても、「作者」よりも、まず「作品」に注目せよ。その自立した作品世界をこそ徹底的に味わうべきなのだ、というのが、「分析批評」の立場だったのかもしれなくて、それは、やはり「近代批判」の一環としてあったということなのだろうか。

 などと、いくら書いても、推測、憶測の連続で、何一つ確かなことが言えないのは、まったく不勉強のゆえで、歯がゆいかぎりだが、それでも一つだけ確かなことに思えるのは、近代においてであれ何であれ、一度「発見」された個人というものは、発見されるべくして発見されたものであり、今さら、それが「発見」されなかった中世とか古代とかいった時代にぼくらは戻ることなどできやしないということだ。いわゆる「近代的自我」をどのように批判しようと、ぼくらが、その「近代的自我」から自由になれるわけじゃない。それは、一度手にした近代文明を今さらすべて手放して、縄文時代のような生活に戻ることなんてできないのと同じことだ。

 だとすれば、ぼくらとしては潔く、その「近代的自我」とやらと付き合っていかねばならないだろう。「作者」から「作品」を切り離すのではなくて、「作品」の背後にある「作者」のことを、「作者の自我」のことを考える必要がやっぱりあるのだ。

 

 

 

 

 


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