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日本近代文学の森へ (37) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その6

2018-08-31 15:39:34 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (37) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その6

2018.8.31


 

 この『放浪』には、樺太での体験談のようなものがリアルに語られているわけではないが、こんな部分がある。


 一體、漁業などは、考へて見ると投機業の一種とも云ふべきで、どか儲けのある代り、一度しくじれば、もう、立てない。義雄は、樺太で、ナヤシへ行つた時、或大漁業家が失敗して逃げた跡に、給料を貰へなかつた夫婦者が、國へ歸る費用もない爲め、むしろでちひさいテントを造り、そのなかに見すぼらしく寢起きしてゐるのを見たことを思ひ出して、それを他の二人に語る。
「北海道でもそんなことは珍らしくない」と、氷峰が云ふ。
「急に出來た身代は急に倒れるのが北海道の原則らしい」と、呑牛(「高見呑牛」という記者)は平氣だ。「僕等はその間にあつて、多少のうまい汁が吸へるの、さ──丸で火事場泥棒も同樣、さ。」
「は、は、は」と、氷峰は笑つた。呑牛は目をぱちくりさせた。


 ここにちょっと書かれている夫婦のことを、泡鳴は後に『人か熊か』という短篇にしたのではなかろうか。これが、ぼくが読んだ泡鳴の最初の作品だ。最後は、奥さんが熊に喰われてしまうという何とも後味の悪い小説だったが、樺太の様子がよく描かれていた。

 平野謙が、泡鳴の自然描写もなかなかのものだと言っていたことを思い出す。

 樺太ではないが、当時の北海道の自然や、社会状況なども、生き生きと描かれている。写真などと違って、その土地の息づかいまで聞こえてきそうな気がする。たとえな、こんな箇所。



 札幌は石狩原野の大開墾地に圍まれ、六萬の人口を抱擁する都會で、古い京都のそれよりも一層正しく、東西南北に確實な井桁(ゐげた)を刻み、それがこの都會の活きた動脈であるかの樣に強い感じを與へる。そして、その脈は四方ともに林檎畑や、もろこし畑や、水田、牧草地などに這入つて、消えてしまふ。
 その間に散在して、道廳を初め、開拓記念に最も好箇な農科大學や、いつも高い煙突の煙りを以つて北地を睥睨する札幌ビール工場や、製麻會社や、石造りの宏大な拓殖銀行や、青白く日光の反射する區立病院や、停車場、中島遊園、狸小路、薄野遊廓などがある。
 一體に、大通りの南北ともに、停車場通りを中心として、西部の方が賑やかだ。賑やかで、繁榮な部分には、開拓者が切り殘した樹木はないが、それでも、他方のアカダモ、イタヤ、白楊などの下を通つて來る人の心には、至るところ、さう云ふ樹木の影がつき添つて離れない樣な氣がする。
 さういふ街々を縫つて、かの百姓馬子は青物を呼び賣りしてゐるし、また人通りのある角々には、例の燒きもろこしの店が出てゐる。
 義雄は、それが何となく嬉しく、なつかしくなり、この百姓馬子に出會ふ限り、またもろこしの香ばしいにほひがしてゐる限り、札幌は自分の心に親しみがあつて、自分の滯在地と云ふよりも、寧(むし)ろ自分の故郷であるかの樣な安心の思ひがして來た。

 


 東京のゴチャゴチャした町中に生活していた泡鳴は、ことのほか、札幌の自然が気に入ったようだ。中でも樹木には格別の興味があったようで、こんな記述を読むとその博識に驚嘆してしまう。

 

 中島遊園は樹木を以つて蔽はれ、なかに丸木ぶねやボートを浮けた大きな池がある。その池の周圍に二三軒の料理屋がある。市中のはづれだから、繁盛は夏分に限つてゐる。冬になれば、何か特別な目的がなければ、このはづれまで數尺の積雪を分けて來るものはないと云ふ。
 そこに、立派な西洋建ての北海道物産陳列所があつて、その附屬として、北海道林業會出品の寄せ木家屋が建つてゐる。用材はすべて同道特産の木材である。床の間は山桑のふち、ヤチダモの板、イタヤ木理(もく)の落し掛け、センの天井。書院はクルミの机、カツラ木理の天井、オンコの欄間、トチの腰板、ヤシの脇壁板。床脇はシロコの地板、サビタ瘤の地袋ばしら、ヤチダモ根の木口包み、オンコの上棚板、ブナの下げづか。縁側はトド丸太の桁、アカダモの縁(えん)ぶち、並びに板、蝦夷松及びヒノキの垂木(たるき)。座敷仕切りはクルミの欄間、ヒバ並びにガンピの釣りづか、ケンポナシの廊下の縁ぶち。鴨居並びに天井板はすべて蝦夷松。敷居は蝦夷松、五葉の松の取り合せ。西洋間の窓並びに唐戸の枠は蝦夷松、額ぶちはヌカセン、その天井板二十五種、腰羽目板二十二種は、以上に擧げた種類の外に、シナ、ナラ、シウリ、ヱンジユ、櫻、槲、朴の木、ドロ、山モミヂ、オヒヨウ楡、ハンの木、アサダ、サンチン、カタ杉、檜の木などだ。
 義雄は、樺太トマリオロの鐵道工事並びに新着手炭坑を見に行つた時、山奧の平地のセン、イタヤ、ドロ、アカダモなどの間を切り開いて、そこに大仕掛けの炭坑事務所を新築してゐる、その新木材の強いにほひを嗅ぎ、深山のオゾンに醉はせられた樣な、如何にもいい、而も健全な心地を自分の神經に受けてからと云ふもの、木材に非常な趣味を持つて來た。且、また、樺太に歸れば、見積りした計畫通り、鱒箱や鑵入れ箱の製造かた/″\、木材をも取り扱つて見ようとする考へがある。だから、氷峰と共に池のふちや陳列所の庭を散歩し、この出品家屋のなかへ這入つた時は、何よりも熱心にその用材の種類を注意して見た。



 カニ缶なんかより、材木屋か家具屋でもやったほうがよかったんじゃないかと思うほどだが、それにしても、いくら木材が好きだからといって、小説の中にこれだけの固有名詞を書き込む必要はないわけで、興味のない読者はうんざりしてしまうだろう。泡鳴は、書きたいことを書きたいだけ書いて、売れるかどうかを細かく考える人じゃなかった。それなのに、どうしてオレの小説は売れないんだろうと悩んでもいたわけで、その変がこの時代の小説家の面白いところなのかもしれない。

 話の筋としては、あまり展開はないが、樺太からお鳥に書いた義男の手紙、あるいはお鳥が樺太の義男へ書いた手紙の一部が、実は届いていなかったことがわかり、道理で話が合わないわけだと義男が愕然とする場面がある。義男はお鳥の「羽二重」のような白い肌が忘れられないし、彼女への「愛」は消えてはいない。

 一方で女房の千代子からは、もう帰ってくるな、家は処分する、というようなつっけんどんな手紙が来る。千代子への「愛」は、完全に消えているが、離縁まではなかなかこぎ着けない。

 挙げ句の果てに、幻影をみたりする。



 お鳥はどうしてゐるだらう? あすは、當地へ來たことを知らせる手紙を出さう。あんなおこつた手紙はよこしても、實際、最後の別れに誓つた通り、獨りで辛抱してゐるだらうか? それとも、再び取り返しのつかない樣に、誰れか男を拵らへただらうか? あの白い、いい羽二重肌を他人に渡してしまひたくないが──
 からだは、けふの長い散歩で、充分疲れてゐるが、神經が興奮してゐて、なか/\眠られない。そして、北海道といふところは、僅かにまだ二三日の滯在だが、その間に見聞したところだけを以て見ても、淫逸、放縱、開放的で、計畫をめぐらすにも、放浪をするにも、最も自由な天地らしい。金も容易(たやす)く儲かれば、女も直ぐ得られる樣に思ふ──北海道は若々しい!
 お鳥がこのままになつてしまふのなら、誰れか別なのをここで見つけよう──
 ゆうべで前後三囘「これでおなじみになりました、ね」と云つたその本人の姿が目の前に浮ぶ──遊女風情だと云つて、もし愛がある段になれば、女房にしてもかまはないではないか──
 すると、北海道──と云つて、札幌だらうが──に人間はひとりもゐず、内地のとは違つて樹木ばかりがあつて、それをすべて自分獨りで占有してゐる樣な氣がして來る。農科大學の廣い構内でもない。その附屬博物館の庭でもない。中島遊園でもない。
 どこかとほつたことがある樣な道の眞ン中に立つてゐる楡の樹かげから、脊の高いおほ廂(びさし)のハイカラ女が出て來る。お鳥の樣だが、然しお鳥ではない。
 相談がつくものならいいがと、何氣なく立ちどまると、かの女はこちらの心は知らないで、同じ歩調をつづけて行つた。
 ふと夢ではないかと氣がつくと、決して夢ではない。然し考へてゐたことは、すべて否定的にすべり拔けて行つた。ランプが明るい爲め、眠られないでうと/\するのだらうと思つて、それを吹き消さうとして脊を腹に轉ずると、
「まだ起きてをつたのか」と、氷峰は出しぬけに云ふ。
「うん」と云つた切り、あかりを吹き消すと、闇と無言のうちで、義雄はます/\神經のランプが照らされ、さま/″\の思ひになやんだ。


 「北海道は若々しい!」という義男の感慨は、「内地」では、たとえ夫婦でも町中で抱擁したりしていると警官がに叱責された当時を背景に考えると、納得できるものがある。「自由の天地」と思われたのだ。

 カニ缶の事業も、失敗したも同然なのだが、義男は、その「失敗」にちっとも落ち込まない。



 義雄は思想上蛇を大好きなのだ。蛇が直立すれば人間だらうとも思つてゐる。然しそれはその自然のままの状態に於いてばかり考へてゐられるのであつて、もし一たび直立しかけると、もう、自分の敵であるのが分つた。自分はいつ、どこでも、自分の自由を自在に發展するといふ考へを妨げられたくない。
 といふのは、樺太旅行中に、同行者の一人が眞蟲(まむし)に噛まれて、希望通りの同行をつづけることが出來なかつた。その時、眞蟲は横長の體を直立させて、義雄にも飛びかからうとした。渠は然しそれを、手に持つてゐた熊よけ喇叭(汽船の代用汽笛であつた)を以つてなぐり倒し、それから踏み殺して、
「敵對するものは何でもうち滅ぼして行くのが自然だ」と叫んだ。そして、その敵手の性質、勢力、惡意をも自分の物としてしまふのが自己自然の努力だと思つた。蛇も自分の内容の一部だと見られる樣になつてこそ、嫌ひでなくなるのだ。
 かう云ふ追想やら思索やらに耽りながら、義雄は建物の前の方へまはり、何とも知れない大木に行き、月光がちら/\とその繁葉(しげば)をかき分けて漏れる樹かげの石に、勇と共に腰をかける。
 渠は身づからこの夜の氣を吐いてゐる樣な心持ちになり、その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく綺麗な景の樣に、自分の世界と見える。そして、かたはらの勇が、
「何とか恢復させてやりたいもんだ、ね、その──君の──あの事業を」と云ふのを聽いて、「事業は外形によつて拘束されない」と、義雄は答へる。そして、今組みあがつてゐた刹那の現實世界をうち毀されてしまつた氣がする。
 この時、眼界の不透明な(と渠は考へられる)友人を厭な蛇だと思つた。

 


 蛇が「思想上好きだ」なんて、意味がよく分からないが、この文章の前に「ダニ」に喰われた体験が書かれていて、それに対する嫌悪との対比で「蛇」が出て来る。しかし、「蛇が直立すれば人間だらうとも思つてゐる。」なんて、独特な感性すぎて、ついていけない。

 けれども、その後の記述は、意味が取りにくいけれども、妙に心をひくものがある。

 「蛇も自分の内容の一部だと見られる樣になつてこそ、嫌ひでなくなるのだ。」という一文。自分に敵対するもの、自分が嫌悪を感じるもの、それらいっさいを、「自分の物としてしまう」ことで、自分はそれを「嫌いでなくなる」──つまりは、克服して、愛することができるようになる。

 失敗も、失恋も、すべてが「自分の世界」なのだ、という認識。「目がねでのぞく綺麗な景」のようだという認識。そんな認識を持つことができるのなら、ぼくらは、ずいぶんと大胆に自由に生きていけるはずだ。泡鳴は、まさに、そういう「自由」を生きたのだ。

 それなのに、友人の人のいい教師たる勇は、「何とか恢復させてやりたいもんだ、ね、その──君の──あの事業を」と「同情」して言う。その言葉に義男はがっくりくるのだ。「今組みあがつてゐた刹那の現實世界をうち毀されてしまつた氣がする」のだ。

 義男は「現実世界」というけれど、むしろ一般的に言えば「観念世界」だろう。「何、夢みたいなこと言ってやがるんだ。」と一蹴される世界である。けれども、義男にはそれこそが「現実世界」であり、その世界を、義男は一生懸命「組み上げて」いるのだ。そのことを、世俗にどっぷりつかってしまって、そこから出るすべもない勇は理解しない。理解できない。だから、義男は、「眼界の不透明な(と渠は考へられる)友人を厭な蛇だと思つた。」のだ。

 「限界の不透明な友人」というのも分かりにくいが、「どこまでも自分の信念にそって突き進んでいこうとしない友人」ほどの意味だろう。

 義男は、そんな勇と次第に距離をおくようになり、新聞記者の氷峰のほうに居着くことなっていく。





 

 


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一日一書 1476 綿柎開(七十二候)

2018-08-31 09:44:42 | 一日一書

 

綿柎開(わたのはなしべひらく)

 

七十二候

 

8/23〜8/27頃

 

ハガキ

 

 

うかうかしているうちに

季節に追い越されてしまいました。

 

う〜ん、それにしても、暑い。暑すぎる。

 

 

 


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木洩れ日抄 42 「語り」の極限へ!──夏目幾世『父亡き後、母に守られて』・小林もと果(キンダースペース)

2018-08-29 19:46:10 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 42 「語り」の極限へ!──夏目幾世『父亡き後、母に守られて』・小林もと果(キンダースペース)

2018.8.29


 

 新宿の「平和祈念資料館」での今年の「一人芝居」は、キンダースペースの小林もと果だった。これまで、瀬田ひろ美、森下高志、が演じてきたが、今年は満を持して小林もと果の登場となった。

 今回の手記、夏目幾世『父亡き後、母に守られて』は、八歳の子供の視点から書かれており、身長の低い小林もと果が適役だったということもあったようだが、これまで、キンダースペースで数々の役をこなしてきた、中心的な女優としての演技力の高さからも、この役はまさに適役だった。

 戦争体験は、これまでさまざまな形で本人から語られてきたわけだが、なかなか、生身の本人が自らの体験を語るということは難しい。どうしても、当時の思いが蘇り、言葉につまったり、言葉にならなかったり、そして、涙してしまう、ということになるだろう。何度も何度も語っているうちに、慣れてくるということもあるのだろうが、それでも、語り慣れた言葉の隙間に語り手が思わずすくんでしまうということもあるだろう。

 岸政彦は、大学での戦争体験者の話を聞く会の体験を書いた文章の中で、語り手が戦友の死を語るところにさしかかり、思わず涙を流しながらも、力を振り絞って語り続けている最中に、会場係の学生が出した「あと二十分」というカンペを目にして、話が途切れた、と書く。


 完全に話が途切れた。男性は目をむいて大きく驚き、小さなかすれ声で、「もうそんなに時間が。」とだけつぶやいた。それまで全身をつかって熱っぽく語っていた彼の語りは、そこで中断され、十秒か二十秒か、かなり長い間、聴衆が静かに見守るなか、一言も出せなくなり、ただ狼狽して、黙り込んでしまった。
 やがて男性は、すぐに語りの「軌道」を立て直すと、何もなかったかのように、それまで通りはっきりと大きな声で、迫力のある語りを続けた。


 こう記述した後、岸は、この「沈黙」をこんなふうに分析する。


 ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。
 物語というのは生きていて、切れば血が出る。語りをとつぜん中断されたあの男性の沈黙は、切られた物語の静かな悲鳴だった。
 あるいは彼は、その一瞬のあいだで、一九四五年の南洋の小さな島と、二〇一三年の大学のキャンパスとを往復したのだろう。その時間と空間の距離を飛び越える数十秒のあいだ、沈黙が彼を支配していたのだ。


『断片的なものの社会学』2015



 自分自身の体験を語るとき、この男性のような「悲鳴」が、実はその語りの言葉の背後にある。物語が、「語りの乗り物」であっても、乗っているのが自分自身だとすれば、いつでも、自分はその「語られないこと」の深淵をのぞき込んでいるのだ。だから、突然の「中断」があったとき、自分自身はその「乗り物」から放り出されてしまう。そして「語れないこと」=「沈黙」の中に沈んでいってしまう。

 だから、もし、ぼくらが、体験者からの話を聞くとすれば、いつも、その語られる言葉の背後にある、その人の沈黙にこそ耳を傾けなければならないだろう。言葉だけではなく、その語る口元、表情、皮膚のシワ、声、体のこまかな震えなどに目を凝らし、感じとらねばならない。そこにある肉体が体験したことは、その肉体の中にあるのだから。

 こう考えてくると、他者の「体験手記」を「一人芝居」として演じることが、いかに困難なことかが深く納得される。

 体験者が抱える「沈黙」、その「沈黙」を深い井戸のように湛えている肉体を、役者は持たない。役者に与えられているのは、体験者が「手記」として書いた言葉だけだ。けれども、「手記」は、その体験の「すべて」ではない。書かれていないこと、書けなかったことが、山ほど言葉の背後にあるに違いないのだ。

 それだけではない。八歳の少女を演じるといっても、役者の肉体は、その後の数十年の歳月を刻んだ女性の八歳の時の肉体を演じなければならないのだ。こんな絶望的に困難なことがあるだろうか。

 芝居の中に、こんな言葉があった。


ある開拓団では、足手まといになる八歳以下の子供を焼き殺して、大人と大きい子供だけで引き揚げたところがあると聞いて、とても恐ろしく身の毛がよだちました。当時八歳だった私には他人ごとではなかったのでしょう。ちょうどそのころ、優しかった祖母が亡くなったのです。土葬はできないので野草を積んで火葬にされました。「お祖母ちゃん熱かろうなあ」と心に焼き付いて離れません。それからは、いつも子供が並んで焼かれるのを待っている、「怖いよう、嫌だ、嫌だ」と言いながら自分が焼かれて骨になるまでの夢を見るのです。同じような夢を何度も見るのです。


 子供を焼き殺したという開拓団がほんとうにあったのかは定かではないにしても、このこと自体が「悪夢」だ。しかも、自分が八歳という当事者である。その恐怖。そして何度も見る同じ夢。

 こんな言葉の数々を、舞台の上で、いったいどう演じればいいのか。たんなる「かわいそうな話」で終わってはいけない。役者の叫びが、その少女の叫びそのものでなければならない。そんなことはベテラン女優小林もと果には難なくできるだろう。けれども、この叫びが、もし「中断」されたとき、小林もと果の肉体から、声から、言葉から、「血が吹き出る」だろうか。そんなことはどだい不可能なことだが、小林もと果は、そこまで「演じきる」ことができただろうか。

 この芝居を見てすでに3日が経っているが、この舞台の余韻はまだぼくの中に色濃く残っている。あの舞台に、八歳の夏目幾世さんが確かに「いた」という実感がある。そうだとすれば、小林もと果は、「切れば血が出る」芝居をした、あるいはそれが褒めすぎだというなら、少なくともそういう芝居を目指して渾身の努力をしたと言えるだろう。

 狭い空間の中に、十字の形に作られた舞台を小林もと果は縦横に使う。それによって、舞台は何倍にも広く感じられる。前に出る。後ろに退く。右へ、左へと走る。それは、八歳の少女の世界のすべてだ。

 その十字架のような舞台の上での「惨劇」。そしてその十字架の真ん中で平和を祈るラストシーン。舞台がうしろからせり上がり、小林もと果が十字架にかかっているような、人間の受難を象徴しているかのような幻想がわいた。実に見事な、感動的な芝居だった。

 この手記を書かれた夏目幾世さんは、現在もご健在であるばかりか、なんと、会場に来てくださり、この芝居を見てくださったということも感動的だった。夏目さんは、涙を流してご覧になっていたということだが、その思いは計り知ることはできない。できないけれど、この芝居が演じられた8月25日が、奇しくも、その夏目さんのお父様の命日(父は、満州で殺されたと芝居の中で語られたのだった。)だと語られたことに、強い印象を受けた。会場も一瞬おどろきでどよめいたが、同時に、深い沈黙が会場を包んだように思われた。


 



★夏目幾世『父亡き後、母に守られて』の本文は、こちらです。

★「平和祈念展示資料館」のホームページはこちらです。






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一日一書 1475 鴨図と船図(水墨画)・「横浜國際書画交流展」出品作

2018-08-29 09:28:55 | 一日一書

 

鴨図

 

67×34cm

 

8月23日から28日まで、桜木町のゴールデンギャラリーにて開催した

「横浜國際書画交流展」に出品した2作をご紹介します。

 

自分で染めた紙に、三渓園で撮影した鴨の様子を書き込んでみました。

 

色合いがいい、雰囲気がいい、など

褒めてくださるかたがいました。

自分でも、この絵は、かなり気にいっています。

 

 

 

船図

 

70×34cm

 

 

こちらも、自分で染めた紙を使っています。

 

この紙を眺めながら、

さて何を描いたらいいのかとずいぶん考えましたが

結局、船を描いてみました。

中国風の船です。

 

最初は手前の2艘を描いたのですが

先生は、もうちょっと多く、しかも奇数でとおっしゃるので

合計5艘にしてみました。

 

船を描くと、染めた模様が海に見えてきて

これはこれで、いい雰囲気が出たなあと自己満足。

鴨図よりも地味なせいか、評判は鴨図ほどではありませんでした。

 

見た方の感想が直接聞けるというのが展覧会の最大のメリットですね。

 

おいでいただき、ありがとうございました。

 

 

 


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詩歌の森へ (14) 三好達治・雪

2018-08-28 12:04:52 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (14) 三好達治・雪

2018.8.28


 

   雪

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

        

            三好達治

 

 三好達治の『測量船』という詩集は、高校時代から大好きだった。ぼくみたいな、もともと理系志望の人間にとっては、国語の授業だけが、ただ一つの文学への入口だったわけで、理系(生物系)進学を諦めた後、途方にくれたぼくを文学部へと誘ってくれた国語の先生たち(「お前、文学部へ行け!」と言ったというのではなくて、授業を通して文学へと導いてくださったという意味で)には、ほんとうに感謝している。もちろん、文学に目覚めかけたぼくの前には、根っからの文学好きの友人がたくさんいて、ぼくは、彼らを文字通り目標にしてぼくなりにケナゲに頑張ったものだ。

 「頑張る」というのもなんか変だけど、こんな本を読んだよ、とだけ言うにも、彼らを前にしては、非常に勇気が必要だった。いつでも、けなされるんじゃないか、バカにされるんじゃないかという不安なしに、彼らと文学の、あるいは映画の話を出来たためしがなかった。そして、実は、それは今もまったく同じなのであって、ぼくは、何についても、「自信をもって」モノを言えたためしがない。

 なんだ、自信たっぷりに書いているエッセイだってあるじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、それはあくまで「演技」である。いつも語尾が「ではないかと思う。」「ではないだろうか。」「そうではないとはいいきれない。」などといった自信なさげな、後で言い訳できそうな、そんな言い方ばかりのエッセイなんて、役人の答弁みたいでイライラするではないか。といいつつ、そんな自信なさげな、逃げ道ばっかり用意している言い方をけっこうしているのが実態なのだが、それでも、時には、「である。」「なのである。」などとキッパリ断定してみることもあるのだ。

 そう「キッパリ断定」したからといって、そのことをぼくが信じて疑わないというわけではない。いちおうそう断定してみることで、自分の意見もはっきりと見えてきて、もし、後で読むようなことがあれば、その時、その断定が間違いだったら、間違いだと、はっきり分かるという寸法だ。

 現役のころに、小論文の指導をしたことがあるが、そのときも、どっちみち君たちの知識や経験では、何一つ断定できはしないんだ。だけど、今、そう思うなら、思い切って断定してみようよ。そうしなきゃ、いつまでたっても意見なんて書けないよ、みたいなことを言ったような気がする。(こういう「気がする」は、記憶に自信がないからで、断定をさけているわけではありません。)

 前置きが長くなったが、この三好達治の詩である。かつてはこの詩がよく中学校あたりの教科書によく載っていたわけだが、これを授業で扱おうとすると、大変なのだ。

 大分前に書いたぼくのエッセイだが、ここに引用してみたい。題は「眠らせたのは誰か」。書いたのは2002年6月。


 国語の教師になって三十年近くになるが、「国語教育」の専門書というものは、どうも恐ろしくてあまり覗いたことがない。ところが先日、国語科の研究室に、ある国語教育学者らしい人の著作集がドサッと置かれていた。若い教師が興味を持って注文したらしい。せっかくなので、何冊かを手にとってページを繰ってみた。
 「○○論文の誤りは、○○なところにある。」「○○氏は引用もせずに私の論文を批判しているがけしからん。」などといった穏やかでない言葉が、チカチカと目に入ってくる。やっぱりこわそうなトコロである。国語の授業の方法論や、教材の是非などをめぐって口角泡をとばすような激論が「国語教育界」では日々闘わされているのだろう。
 中には目を疑うような議論もある。
 目次に「眠らせたのはだれか。」というヤクザ映画みたいなタイトル。何ごとかと思えば、三好達治の有名な『雪』という題の詩についての論争である。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

 たった二行のこの詩は、中学校の教科書などによくとられてきたので、どこかで誰もが読んでいるのではないかと思う。静かに雪が降り積もる中、スヤスヤと眠る子どもの姿が印象的な詩で、谷内六郎の絵のような趣がある。そんな静けさとか、子どものあどけなさが感じ取れればいい詩なのだが、これを教室で扱うと、大混乱。
 それは教師の「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という心ない質問から始まる。しなくてもいい質問である。やれ雪だ、母親だ、いや父親だ、違う、作者だと、収拾がつかないことになる。収拾をつけようとすると、一編の論文ができるというわけである。
 驚くべきことに、この本で初めて知ったのだが、教室では「眠らせたのは母親である。」と教える先生が多いというのだ。そばにいた若い国語教師も、そう言えば昔そんなふうに習った記憶があるという。
 冗談じゃない、雪に決まってるじゃないかとぼくは思うのだが、中には文法的にこの詩を解析して、主語は母親以外に考えられないと結論づける学者もいるらしい。しかし谷内六郎なら、その絵の中にわざわざ母親の姿を描くだろうか。そんな野暮なことはしないよ、と彼はいうだろう。どうしても母親のイメージが必要なら、母親の形をした小さい雪をたくさん描くだろうなと、彼は言うだろう。
 詩の授業はむずかしい。せめて生徒の詩の心を眠らせないようにしたいものだ。



 これを書いてから既に16年経っていて、国語教育もずいぶんと変化した。最近では、テーマを決めて話し合うというような、いわゆるアクティブラーニングが盛んだから、さしずめこの詩などは、討論の材料にはもってこいなのかもしれない。

 「誰が太郎と次郎を眠らせたのか?」どころではない、「太郎と次郎は兄弟なのか?」「兄弟だとして、何歳ぐらい違うのか?」「なぜ『太郎の屋根』『次郎の屋根』というように区別するのか。」「『太郎の家の屋根』とどうして言わないのか?」「区別している以上、二人は隣同士の子どもなのではないか。」「それならどうして太郎と次郎というような名前なのか。」などと、きりもなく討論の材料は出て来る。

 実際には、こんなテーマで討論やらディベートなんかをするわけはないが、少なくとも、16年以上前に、「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という教師が問いかける現場というのはあって、そこで恐ろしいことだが、なんらかの「結論」が出たらしいのである。

 その結論の一つが「眠らせたのは母親である」というヤツだ。

 解釈に「正解」はないが、それにしても「眠らせたのは母親である」というのは、16年経った今でも、間違いだと確信している。

 文法的にどうこういうまえに、どうして子どもを寝かしつけるのが「母親」なのか、という問題もある。父親かもしれないじゃないか。両親がのっぴきならない用事で海外に出かけたためにその子どもを預かった叔父夫婦かもしれないじゃないか、なんて言い出したらきりがない。

 つまり、「誰が眠らせたのか」という問いそのものが間違いなのだ。

 詩は「理由を問う」ものではない。あくまで味わうものだ。秋の虫が鳴いているのを聞いて、「あの虫はなぜ鳴いているのか?」と問うのは、科学の問題で、そう問うことで、すでに「詩」から離れている。(もちろん、その科学の答えから、「詩」が生まれるということもありうるけれど。)この詩を「味わう」ということは、この詩が描いている情景、それも視覚だけでなく、あたりの「静けさ」といった聴覚から、野外の「寒さ」といった触覚までを含めての「情景」の「中」に「わが身」を置いてみる、ということだ。そこで何を感じるかは、それぞれの自由である。「なぜ?」を封じて、この詩の中で「生きる」こと。それ以外に、詩を味わう手立てはないのだ。と断定しておく。

 

 

 

 

 

 


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