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一日一書 820 煩悶ならば・宮沢賢治

2016-02-29 15:11:56 | 一日一書

 

宮沢賢治「竹と楢」より

 

半紙

 

 

全文は以下の通りです。

 

 

   竹と楢

 

煩悶ですか

煩悶ならば

雨の降るとき

竹と楢の林の中がいいのです

  (おまえこそ髪を刈れ)

竹と楢の青い林の中がいいのです

  (おまえこそ髪を刈れ

   そんな髪をしてゐるから

   そんなことも考へるのだ)

 

 

(  )の中は、どういうことかよく分からないのですが

賢治の内面の激しい葛藤の表現かもしれません。

 

 

この3行だけにしてしまうと、

賢治の表現意図からは離れてしまうのでしょうが

独立した詩のようにも思えてきます。

 

どんな「煩悶」も、「竹と楢の林の中」なら自ずと静まるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 


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【劇評】『フェードル あるいは崩れゆく人々』──言葉の海の中で

2016-02-28 19:25:50 | 批評

【劇評】『フェードル あるいは崩れゆく人々』──言葉の海の中で


2016.2.28


 

 文学というものは、いや芸術というものは、結局のところ「恋」を、「恋」だけを追求するものだったのではないかと、キンダースペースの『フェードル あるいは崩れゆく人々』を2度見たあと、つらつら考えている。

 芸術の追求するものは「美」であって、「恋」は、そのひとつの題材に過ぎないという考えもあるだろう。古今の美術作品や、文学作品がすべて「恋」をめぐって展開されてきたものではないだろうという反論もあるかもしれない。けれども、「恋」を、ただ男女の間の、好きだ、嫌いだの感情として捉えるのではなく、「人間を根底から揺るがす理性を越えた狂おしいまでの情熱」というふうに置き換えて捉えてみれば、すべての芸術の根底に「それ」があることは明白のように思える。男女の「恋」は、ある意味、それがもっとも日常的に、かつ鮮明にあらわれる例だというに過ぎない。

 だからといって、昨今でも巷にあふれかえる「不倫」のひとつひとつが、語るに足りない、くだらない、下世話な話で、文学・芸術の対象たる「恋」とはほど遠い、というわけでもない。いやむしろ、そのひとつひとつの「下世話な不倫」こそが、そこを掘り下げていけば、程度の差こそあれ「人間を根底から揺るがす理性を越えた狂おしいまでの情熱」の鉱脈に触れないことはないだろう。ただ、世間の人やジャーナリズムはことの表層に好奇の目を向けるにとどまり、そこを掘り下げようとしないだけだ。

 スタンダールは、恋愛感情のもつれから実際に起きた発砲事件を素材にして恋愛文学の傑作『赤と黒』を書いた。なんでそんな馬鹿げたことを……と世間が眉をひそめる「色恋沙汰」も、実はそのマグマのような「それ」の小さな発現であることを、スタンダールは知っていたのだ。

 『フェードル』のあらすじは演出の原田一樹のまとめによれば、「古代アテナイの王妃が、王の半年にわたる不在に続く死の知らせに、かつて隠していた恋心を義理の息子に打ち明け、拒否され、王の帰還もあり、自殺を遂げるという話」ということになる。「義理の息子への恋」というのは、それほどありふれた話ではないが、今だって絶対にないというほど稀な話でもなさそうだ。そういう意味では、ありふれた恋にすぎないのだが、戯曲『フェードル』にあふれる言葉は、みな凜として潔く、王女フェードルは言うまでもなく、運命を呪うテゼーの言葉も、「恋敵」たるアリシーの言葉も、奸計をめぐらすエノーヌの言葉も、そしてフェードルの恋を拒絶しながらも父の誤解を解けぬまま死んでいくイポリットの言葉も、それぞれに美しい。

 それは言葉が、人間個人の内部からのみ発せられる薄っぺらな言葉ではなく、神々の支配のもとで「宿命」として発せざるを得ない言葉だからだ。「個人」はそこにはなく、まるで神々の操る人形のように、人間は翻弄され、苦しみ、悩み、絶望し、時に希望する。だからこそ、発せられた言葉は、勝手に人間が更新できない。自分の発した言葉が、神々の「託宣」であるのなら、それを更新することができるのはただ神々だけだからだ。

 「あなたを愛しています」と言ってしまった以上、それを口にした者は、その言葉を生きなければならない。それを人間の側からいえば「覚悟」ということになる。神々の託宣と知りつつ、それを自らの「覚悟」として言葉を発し、それによって傷つき、滅び崩れてゆく。それは「悲劇」だが、そこにあらわれるのは、人間の尊厳であり、高貴さである。立派で非の打ち所のない行為や生き方だけが、人間の尊厳を証しするわけではない。いっけんどうしようもない卑俗な行為でさえ、そこに「覚悟」があるのなら、人間はどこまでも気高い存在として自らを証しすることができるのだ。

 登場人物が何度も口にする言葉。それは「神々も照覧あれ!」だ。この芝居の中の「現代の場面」以外では、どんな行為も「相手の顔を見て」のものではない。「相手の顔色を伺い、世間の評価を気にした」行為こそ、卑俗な行為だ。そうではなくて、「神々の照覧」を意識しての行為こそが「覚悟」のうえの行為であり、それがあれば、どんな行為でも卑俗なものとはならないのだ。

 今回の舞台では、下手よりに「現代の空間」が設置され、そこでは、現代の男女の「卑俗な恋愛」あるいは「恋」ともいえないほどやるせなく退廃した「恋」の様相が生々しくリアルに演じられた。古代の王妃の高貴なる「道ならぬ恋」の対極にあるような、救いのない卑小な世界である。けれども、最後にフェードルが毒をあおいで死んでいく傍らで、金属の容器に睡眠薬を落とし続ける「現代の女」の姿を重ねるとき、そこに永遠に変わらない「恋する人間」の姿をやはり見る思いがしたのだった。

 フェードルは神々の胸に抱きとられたのだろうか。それは分からないが、そこには「絶望の果ての希望」がたぶんある。それは、「罪」はフェードルにあるのではなく、神々の意志によるものだからだ。神々の意志を「宿命」として受け入れ、それを迷うことなく生きることがどうして「罪」でありえよう。考えてみれば、現代に生きるぼくらの「生」も、どこかでそうした「宿命」の影を帯びているのではなかろうか。ただ、それをぼくらが感じるには現代はあまりにも「薄っぺらな言葉」があふれている。神々は死んだ、のではなく、ぼくらのその軽薄な言葉の背後に追いやられているだけなのかもしれない。

 しかし、そのように考えたとしても、ぼくら現代人が、神々を生き生きと肌で感じることはもはやできないことも事実だ。「神々も照覧あれ!」と現代の空に向かって叫ぶことのできる者はいないだろう。そういう意味では、ぼくらはやはり神々を失ったのだ。それなら神々を失った「現代の女」に、果たして「希望」はあるのだろうか。

 あるとすれば、神々を失った現代の我々が、どこに言葉の「根拠」を求めるかということにかかってくるだろう。「根拠」は、もはや人間を越える大きな存在たる「神々」に求めることはできない。「覚悟」は、個々の人間の心の中でしか生まれない。その「覚悟」によってこそ、言葉はほんとうの力を再び持つことになるのかもしれない。

 現代ほど困難に満ちた時代はないけれど、いつの日か、そのようにして生き返った言葉が、言葉のはるか向こうにある「なにか」を指し示し、その「なにか」に到達することがあるかもしれない。それをこそ、演劇はいつも求めているのではないだろうか。

 『フェードル あるいは崩れゆく人々』を見終わってから、ずっとこころに漂う思いはこうしたことだ。実にとりともめないけれど、ぼくもまた、「なにか」を求めて、言葉の海に溺れそうになりながら、手探りしつつ言葉を紡いでみることしかできない。


 今回の『フェードル あるいは崩れゆく人々』の舞台は、まさに言葉の大海だった。幕開きの暗闇に流れる波の音は、その言葉の海への誘いであり、それが導くままに、およそ2時間あまりの時間、その言葉の海に首まで浸かるという稀にみる幸福な時間を味わったのだった。

 「詩劇」という上演しにくいジャンルの芝居を、「言葉の海」として舞台に現出させることに成功したのは、原田一樹の傑出した構成・演出のゆえであったことは言うまでもないことだが、言葉を舞台空間に解き放ち、観客に届かせる技倆を、確実に我がものにしたキンダーの俳優たちに負うところも非常に大きい。幾度となく繰り返し真摯に上演を続けてきた「モノドラマ」での修練の結果ともいえるだろう。それに加えて、客演の伊藤勉(文化座)、渡辺聡(俳優座)の好演があいまって、稀にみる上質な舞台となったことを喜びたい。更に、見事な照明と音響効果もこの舞台の成功には欠かせなかった。この舞台にかかわったすべての方々に、心からの感謝をこめて、惜しみない拍手を送りたい。


 



 








 

 

 

 

 


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一日一書 819 今生は美し・名取里美

2016-02-27 11:33:53 | 一日一書

 

今生は美し生れ来よ蕗の薹

 

名取里美

 

半紙

 

鶏毛筆

 

 

「今生は美し」と言い切り、

蕗の薹(フキノトウ)に向かって「生れ来よ」と呼びかける。

ほんとうに、このように自信を持って子どもに

「さあ生まれて来い」と呼びかけることのできる

世界にしたいですね。

 

清々しく、また勇気づけられる名句です。

 

 

 

 


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一日一書 818 飛行機雲

2016-02-26 11:45:17 | 一日一書

 

飛行機雲

 

山本洋三の詩

 

全紙二分の一(70×70cm)

 

 

現在開催中(29日まで)の現日春季書展に出品している作品です。

今回、思いがけず、同人格奨励賞を受賞しました。

これからも、これを励みに頑張っていきたいと思います。

 

 

詩の全文は以下のとおり。

 

  

 

  飛行機雲

 

君はいつも高い靴をはいて

キリンのように歩く

人波から首一つ抜き出た

君の瞳には

街路樹の梢にかたむく

飛行機雲が浮かんでいる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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一日一書 817 寸前家族(ポスター)

2016-02-25 10:15:17 | 一日一書

 

「寸前家族」ポスター

 

A3版

 

 

栄光学園では、高1で、「高1ゼミ」と称して、週に1時間だけの特別の講座をひらいています。

担当教師が、自分の好きなこと、得意なことで講座を設置し、生徒はそこから自由に選ぶのです。

成績もつけませんので、気楽に、楽しんで学ぶことができます。

中には、ぼくも一時「生徒」として参加していた「落語ゼミ」などというユニークなものがありました。

これは、落語研究の第一人者、山本進先生を講師にお招きし、しかも1学期に1度は、

落語家さんを招いて、直接落語を聞かせていただくというもの。

来ていただいた落語家さんは、柳家喜多八、柳家三三、柳家ろべえ、春風亭昇吉など

豪華絢爛たるものでした。

 

ちなみに、もう、20年以上も前ですが

ぼくは、無謀にも「水彩画ゼミ」というのをやったことがあります。

そのとき、絵を描くということを

「まったく教えることができない」、ことに愕然とした覚えがあります。

 

今年度、そのゼミで「演劇ゼミ」をやりたいのだが、どうしたものかと

英語科のH先生から相談を受け、部外者ながら、いろいろとアドバイスなどをしたのですが

H先生の努力と人望のおかげで、生徒も13名も集まり、1年かけて練習をしてきました。

といっても、脚本が決まるまでに大分時間がかかり、練習時間はそれほど多くとれたわけではないようです。

今の高1の生徒は、中1の時に教えているので、

芝居の練習が始まってから、2回程「指導」に訪れたりして楽しい時間を過ごしました。

 

栄光の演劇部は、ぼくが再興して20年続けましたが

最後の公演が2005年でした。

それから10年を経て、ゼミという形ではあれ、復活したのは嬉しい限りです。

 

 

で、このポスターの件。

H先生が、去年のキンダースペースの『赤い鳥の居る風景』のポスターを見て

是非、ポスターを作って欲しいと言うので、頑張って作ったというわけです。

これがそのポスターです。

今、学校に貼り出されているようです。

ポスターの真ん中の女性は、当たり前ですが、生徒ではありません。

担当のH先生です。

生徒の写真は、H先生が

恥ずかしがる生徒を追いかけて撮ったものだということで

なかなかいい表情です。

また、もうひとり「ふけた顔」がありますが

これは、指導に協力してくださったA先生です。

 

キンダーの時は、題字だけ提供して、あとのデザインは、キンダーの古木杏子さんが制作したのですが、

今回は、題字、デザインをすべて手掛けました。

 

 

題字の「原型?」はこれ。

かずら筆で書いたものです。

(半切三分の一)

 

 

 

また、キンダーのポスターはこれです。

この古木さんのデザインをマネして、今回のポスターも、題字を少し傾けてみました。

そればかりではなく、そもそも字で全面を覆うというコンセプト自体

古木さんのマネです。

いろいろ学んでいます。

 

 

 

 

 


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