Yoz Art Space

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一日一書 1489 碧水忽開新鏡面

2018-09-30 15:03:21 | 一日一書

20×55cm

 

碧水忽開新鏡面

青山都是好屏風

 

碧水忽(たちまち)開く新鏡面

青山都(すべて)是れ好屏風(こうびょうぶ)

 

青い水はまさに磨きたての鏡。
周囲の青い山は屏風をたてたようだ。



作者は「俞樾」らしいです。(ネット情報)

確認できていません。

 

もう一点、同じ詩句を。

 

 

55×30cm

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (46) 田山花袋『田舎教師』 1

2018-09-30 14:25:07 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (46) 田山花袋『田舎教師』 1

2018.9.30


 

 岩野泡鳴で思わぬ足止めをくらってしまった。評判のよくない自然主義文学の中でも特に評判が悪い岩野泡鳴の「五部作」を曲がりなりにも読んだことは、思わぬ収穫もあった。自然主義の中でも、特異な地位を占める泡鳴の書きぶりとか生き方をある程度身近なものとして知った今は、それを軸にして他の自然主義文学を眺めることを可能にしてくれたような気がするのだ。

 で、次は何を読もうか。流れからすれば、田山花袋の『蒲団』ということになるだろうが、これは20年ほど前に再読して、ずいぶんと嫌な気分になった気がする。それは、必ずしも、あの有名な、女弟子が出ていった後、彼女が使っていた「蒲団」に顔を埋めて泣いたというウスギタナイ場面の「嫌な感じ」ではなくて、むしろ、当時の女性が置かれていた理不尽な社会的なプレッシャーに驚いたことからくる「嫌な感じ」だった。

 泡鳴の作品でも、ずいぶん嫌な感じを味わってきたので(それはそれで面白かったわけだが)、ちょっと雰囲気の違う作品にしたいということで、同じ田山花袋の作品でも、抒情的な雰囲気をもった『田舎教師』を読むことにした。

 これも再読である。読んだのは、確か、高校生のころ。(ぼくが持っている岩波文庫版は、昭和40年の40刷である。第1刷が昭和6年とあるから、ずいぶんと売れたのだ。このこと自体、隔世の感がある。)内容はまったく覚えていないのだが、なんだか「みじめな教師」のイメージだけがぼくの中に定着した。それが「抒情的」だというのは、後の自然主義についての評論なので仕入れた知識で、高校生のぼくがそう感じたというわけではない。

 何はともあれ、これもできるだけゆっくり読んで行きたい。


 四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家(ごうか)の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐(ねえ)さんがおりおり通った。
 羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっとう)を袴はかまの上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。


 『田舎教師』の冒頭だ。きれいな田園風景の描写から始まる。しかし、ぼくにはよく分からない言葉がある。「青縞」だ。

 「青縞」というのは、「紺色で無地の木綿織物。法被(はっぴ)・腹掛け・足袋などに用いる。」〈デジタル大辞泉〉のことで、分かりやすいものとしては、剣道着がそれらしい。

 wikiによれば、「青縞は、埼玉県羽生市など、埼玉県北部地域で江戸時代末期ごろから生産されている藍染物の伝統工芸品。武州織物、武州正藍染とも。」とされ、ここに「羽生」の地名が見える。

 ついでだから更に詳しい説明を紹介すると、「藍をもって青く染めた糸で織った縞木綿。天明年間(一七八一〜八九)武蔵国埼玉郡騎西(埼玉県北埼玉郡騎西町)付近の農家の婦人が自家栽培の綿を紡ぎ染めて農閑期に副業として製織したもの。需要の増大につれ綿糸を購入して織るようになった。文化年間(一八〇四〜一八)足立郡蕨(蕨市)の機業家高橋新五郎は青縞の江戸販売の有利を考え足利(栃木県)・青梅(東京都)の機業地を視察し、文政八年(一八二五)高機を木綿用に改良し青縞を製織した。高機は近郷に普及し青縞を製織する者が多くなった。新五郎は天保八年(一八三七)高機二百台の出機を所有したと伝えられている。このころには織元が生まれ農家は織元より糸の供給をうけて賃織した。織賃は織り払いが多く前借・内渡制も行われた。明治以後は青縞の名称は用いられなくなり、紡績綿糸を用いてからは青縞系統の木綿縞として双子縞(ふたこじま)が大正末期まで織られた。」〈国史大辞典〉となる。ただし、この中で「明治以降は青縞の名称は用いられなくなり」というのはどうも間違いのようで、現にこの『田舎教師』では「青縞」と言っている。『田舎教師』の出版は、明治42年(1909年)である。

 「青縞の市がたつ羽生」という部分を、意味不明のまま読み飛ばすと、この小説が薄っぺらなものになる。「青縞」って何? ってところからいろいろ調べると、その土地の歴史とか匂いまで感じられるようになる。それもまた小説を読む楽しみなのかもしれない。

 この「青縞」に関する記述は、この小説には結構でてきていて、最初の方に、こんな記述がある。


 校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸(ほっと)、上村君(かみむらぎみ)、下村君(したむらぎみ)などいう利根川寄りの村落では、青縞の賃機(ちんばた)〈注:機屋から糸などの原料を受け取り、賃銭を取って機を織ること。〉が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥きわまる唄などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。

 

 主人公の林清三が勤める三田ヶ谷の小学校の校長の話だが、「青縞」はこの地域の大事な産業で、それに伴う「風俗の悪化」も見られるというのである。

 清三が初めて赴任先の小学校へ行く時の描写にも「青縞」が出て来る。


 青縞を織る音がところどころに聞こえる。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。唄が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
 発戸河岸(ほっとかし)のほうにわかれる路の角には、ここらで評判だという饂飩屋があった。朝から大釜には湯がたぎって、主らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。赤い襷をかけた若い女中が馴染らしい百姓と笑って話をしていた。
 路の曲がったところに、古い石が立ててある。維新前からある境界石で、「これより羽生領」としてある。

 

 活気のある光景である。「青縞」がどういうものであるかを知って読むと、こうした描写にも深い奥行きが感じられるようになる。

 花袋は、この『田舎教師』というフィクション(モデルはいるが)を勝手に作りあげるのではなくて、その土地に対する詳しい調査のもとに作品をつくっていることが分かる。彼の小説は、少なくともこの『田舎教師』においては、主人公の生き方だけではなく、その背景となる社会の姿も描こうとする姿勢を見せている。まだそのように断定する段階ではないにせよ、泡鳴の例えば『泡鳴五部作』の第1作『発展』の冒頭と比べればそのことははっきりとする。


 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
 義雄は繼母の爲めに眞まことの父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
 が、渠が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子──殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子──をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。



 ここでは、いきなり主人公の個人的な事情に入っていってしまい、しかも、ここの人物についての説明もないから、何が何だか分からないうちに、読者はその複雑怪奇な人間関係にまっただ中に巻き込まれていく。そしていくら読んでもその人間関係のどろ沼から這い出すことはできないのである。
それに比べると、『田舎教師』は、田園の風景描写で悠然と始まり、そこにその土地の歴史と現在を鮮やかに描き出している。歌舞伎の幕開きのような感じである。

 その風景の中を、主人公が「胸をおどらせて」人力車に乗って行く。彼の前にはどんな人生が待っているのだろうか。読者も、ちょっとわくわくする。けれども、この小説はハッピーエンドではない。彼を待っているのは「みじめな教師の生活」だったのだ。その経緯をこれから読んでいくことになる。





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日本近代文学の森へ (45) 岩野泡鳴はどう見られていたか 2

2018-09-29 15:00:16 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (45) 岩野泡鳴はどう見られていたか 2

2018.9.29


 

 浅見淵が丹羽文雄にインタビューした記事があったので読んでいたら、はからずも泡鳴が話題になっていた。話は、谷崎潤一郎の『鍵』から始まり、漱石の『虞美人草』に及び、泡鳴の漱石評が出て来る。

 このインタヴューは、昭和31年のものだが、『鍵』も昭和31年(1956年)の作品である。



 「潤一郎の『鍵』をどう思うかネ?」劈頭、僕は丹羽文雄に尋ねた。「みんなが避けているイヤな難かしい問題に、よくも正面切って取ッ組んでいると思う。あの年で、エライもんだとおもうネ」丹羽は甚だ好意的だった。「あれは結局、どういうことを書こうとしてるんだろう?」僕は重ねて尋ねた。「人間の表面的な虚飾的なものをスッカリ剥ぎ取ってしまって、性欲だけでギリギリの人間関係を見極めようとしてるんじゃアないかネ? 人間関係の極北点を極めるにはそこまで行かなくちゃア嘘なんだが、困難な、いやアなことを曝け出さなくてはいけない仕事なのでネ。だから、気付いていてもみんな逃げているんだョ」「つまり、性欲を中心にして男女間の心理葛藤を追及し、人間の正体を見究めようとしているというわけだネ?」「そういうことになるかネ。兎に角、まだ誰も手を着けていない世界だヨ。その意味で敬意を表するネ。それに、文章も細かい陰翳がある上になかなか味がある。たいしたもんだヨ」「そして、正確だネ」「ウム、じつに正確だヨ。尤も、世評がうるさいので、主人公を死なすことにしたりして、最初立てた筋とはだいぶ変って来ているらしいがネ」
 僕はフト胸に浮んで来たのでいった。「いつだったか必要あって漱石の『虞美人草』を読み返したのだが、アレは酷いもんだネ。通俗小説だネ。人物が一人として描かれていない。泡鳴が漱石をクサしたのも尤もだネ。また、泡鳴の小説のほうが、これから生きながらえるのではないかネ?」「そんなことはよくあるネ。むかし一応感心して読んだ作品を読み返してみて、ちっとも感心しないということが。年齢によって作品の印象は変わってくるネ」「その漱石の作品だがネ。戦後、坂口安吾が漱石の小説は性欲をオミットして書いている。さてとなると、禅の入口に走らせたりして解決しているが、それは作品の上だけの解決であって、作中人物はちッとも解決されていない。そういって、漱石の小説が性欲の面を閑却していることをひどくケナしていたが、けだし一理あるネ」「漱石の小説が今日なお人気があるのは、そんなふうに文学的解決のキレイごとで終っていることに、確かに原因しているネ。一般の人は人間の醜悪面を見たがらないからネ。しかし、これからはそれで満足しないと思うナ」「戦後、性欲方面のことが可成り自由に書けるようになったということは、悪い面も出て来てはいるが、いいことだネ」「人間生活の根源的なものだからネ。これを抹殺して小説は書けないヨ」「その点、志賀さんの作品は漱石みたいなことはないネ。『暗夜行路』の中で、謙作が直子を動き出した汽車の上から突き飛ばすところがあるが、あそこは圧巻だがネ。志賀さんの奥さんは再婚者だろう? 潔癖な志賀さんは、結婚してから相当このことに悩んだに違いないと思う。その時の実感があそこに生きているんだと思うナ」「それは分るネ」


昭和31年12月「群像」

 


 出たばかりの『鍵』についての二人の評価も面白いが、その「性欲」からの関係で、泡鳴が出て来るわけだが、それが漱石がらみであるところがまた面白い。というのは、正宗白鳥も漱石と泡鳴を比較していたからである。以前にも引用したが、白鳥は、こんなことを言っていた。


当時漱石は官立大学の教師であり、泡鳴は月給二十五円ぐらいの大倉商業学校の教師であったことが、作品に対する世俗の信用を異にした所以(ゆえん)で、さながら、書画骨董の売立に於て大々名の所蔵であるか、一平民の所蔵であるかが、買ひ手の心持に影響するのと同様である。


 泡鳴は漱石より6歳年下だが、ほぼ同時に作品を発表していると言っていい。泡鳴の出世作『耽溺』は1909(明治42年)、『放浪』は1910年(明治43年)、一方、漱石の『虞美人草』は1907年(明治40年)、『三四郎』は1908年(明治41年)であり、泡鳴としては、当然対抗意識があったわけである。しかも、自分のほうはさっぱり売れず、漱石がバカ売れしたのだから、悔しがって批判したのも当然であろう。

 それを正宗白鳥は、大学教授が書いたのと貧乏教師が書いたのじゃ、所詮勝負になるわけないよと、意地悪く言ったわけだが、それはまた「大衆」というものが、どういう「評価」をするのかということに対しての痛烈な皮肉でもあるわけで、白鳥とて、泡鳴を認めることにやぶさかではなかったのである。

 この浅見・丹羽の対談でも、浅見は、「泡鳴の小説のほうが、これから生きながらえるのではないかネ?」と水を向けている。それに対して、丹羽文雄は、「そういうことはよくあるネ」と、曖昧化・普遍化してしまっていて、浅見ほどの熱心さは示していないが、それにしても、今日からみると、将来「泡鳴のほうが漱石より読まれるかもしれない」という推測があったことは驚きである。同時代のものを「正しく」評価することは至難のわざだ。「正しく」と括弧付きにしたのは、もちろん、文学の評価の「正しさ」なんて、あてにならないからに他ならない。

 漱石の文学が、坂口安吾が批判したように、「性欲の面を閑却している」のかどうかは、詳しく検証してみる必要はあるが、確かに、漱石の今に至る異様なまでの人気の一因は、確かに「文学的解決のキレイごとで終っている」ことにあるだろう。

 そうかといって、『それから』とか、『門』とかに、泡鳴ばりの男女関係のドロドロが描かれていたら、やっぱり読む気にならないだろうから、難しいところだが。

 そういえば、最近どこぞの「文学研究者」が、日本の伝統は「包む」ことで、例えば『源氏物語』にはセックスの描写など一切ありません、なんて言って威張っていたが、冗談言って貰ってはこまる。『源氏物語』には、確かに性器と性器の結合の場面こそ描かれていないが、性的関係はそれこそ至るところにあって(というか、そればかりで)、「包まれて」などいない。

 しかし、漱石となると、そうした「性的関係」を『源氏物語』的手法で描いているようにも思えない。(これも検証が必要)そうするとやっぱり「文学的キレイごと」で終わっていると言われてもしかたのないところなのかもしれない。

 漱石を尊敬していたらしい「白樺派」の作家たちは、その傾向をさらに発展させて、武者小路実篤のような、「文学的キレイごと」ですらない男女関係を描いたのではなかろうか。少なくとも、『友情』とか『愛と死』とかに、性的な匂いは、どこにもなかったような気がする。(これも検証が必要)

 しかしまた同じ「白樺派」と言っても、志賀直哉となると全然違っていて、浅見も、「その点、志賀さんの作品は漱石みたいなことはないネ。」と言って、『暗夜行路』のワンシーンを挙げている。この場面の記憶がないので、いつか読み返してみよう。

 話を戻せば、結局小説において、もっとも大事なのは、「人間を描く」ということに尽きるのではなかろうか。どんなに波瀾万丈のストーリーが展開されようとも、そこに「人間」がきちんと描けていなければ、「通俗小説」でしかない。別に「通俗小説」が悪いというわけではないが、やはり「文学的価値」の基準というものはなければならない。その基準が「人間が描けている」という一点なのだ。





 


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一日一書 1484 蟄虫培戸(七十二候)

2018-09-29 10:14:16 | 一日一書

 

蟄虫培戸(むしかくれてとをふさぐ)

 

七十二候

 

9/28〜10/2頃

 

ハガキ

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (44) 岩野泡鳴はどう見られていたか

2018-09-26 09:57:36 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (44) 岩野泡鳴はどう見られていたか

2018.9.26


 

 今ではすっかり忘れさられている岩野泡鳴だが、同時代的にはどう見られていたのかは、非常に興味深い。

 「平野謙全集」に入っている追悼文を読んでいて、たまたま知った浅見淵(あさみ・ふかし 1899〜1973)に興味を持ち、その著作集を買ったのだが、そこにも泡鳴論が入っていた。彼は、泡鳴の欠点を指摘しながらも、高く評価している。


 泡鳴の自伝小説を一読して、何よりも気附<ことは、センチメンタリズムの些かも無いことである。時によれば涙さえ零している直情径行な性格、立ちどころに溺れて了う女性に対するナイーヴテは、自伝小説のどれにも躍如としているが、それでいてセンチメンタリズムは皆無なのだ。
 その点、同じ自然主義の作家でも、田山花袋、島崎藤村などとは趣きを異にしている。花袋の作品には一種の甘さが附纏っているが、又、藤村の作品には、現実を余りに詩情の中に溺れさしているものが多いが、泡鳴は「人間を離れて自然もない。」或いは「自分の悲痛な思索は自分の直接経験だ。」(「放浪」)と誇らかに宣言し、告白しているように、ひたむきに現実を追求しているだけ、刳出(注:こしゅつ=えぐり出す)的で、単なる写実に陥らずリアリスティックで、年代が経ってもそう古臭い感じは抱かせない。生々しさが残っている。
 尤も、一方この傾向は、正宗白鳥も指摘していたように、花鳥風月趣味の極端な排斥となり、引いては余情を喪い、余りに露骨になり過ぎて、読者の支持を勘なからず無くしていることも事実である。気品、それから情緒的なものに於て、全く欠けているのだ。

浅見淵『泡鳴の自伝小説』昭和8年7月



 泡鳴には「センチメンタリズムは皆無」だという指摘に注目したい。主人公の義男は、そのまま泡鳴ではないと泡鳴自身が言っているにもかかわらず、作品を読めば、義男が「客観的」に描かれていないことはすぐに分かる。といって、作者べったりでもない。時として、やや「客観視」しているような書きぶりも見られるのだが、すぐに義男は泡鳴その人になって、突然演説を始めたりする。

 泡鳴は、主人公を外側から冷静に書くという作業をしていないのだ。だから、時には「私小説」そのものと言ってもいい様相を呈するわけだが、それでも、その筆致は「センチメンタリズム」からは遠い。どうしてなのか。

 センチメンタリズムというのは、感情に流れ、感情に溺れる様をいうのだろう。そういう意味では、泡鳴ほど「感情的」な人も珍しい。感情のままに行動し、感情をそのまま言葉にしてしまう。けれども、「感情に流れている自分」を泡鳴は決して美化したり、甘やかしたりしない。

 たとえば、浅見が言う花袋の「一種の甘さ」は、その『田舎教師』の最初の方を読んだだけでもすぐに感得される。


 村役場の一夜はさびしかった。小使の室にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁(かなしみ)がそれとなく心をおそって来る。父母のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は一兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激しく胸に迫ってきて、涙がおのずと押すように出る。


田山花袋『田舎教師』(三)

 

 風景も思い出も、ことごとく涙に濡れている「甘い」文章である。「人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。」という表現には、そういうわが身を自ら哀れみ、その哀れみの感情の中に、ただただ涙を流し、そういう「薄倖」の自分を感情的に肯定している様がはっきりと伺えるわけである。

 一方、泡鳴はどうか。『泡鳴五部作』の最後の『憑き物』で、義男とお鳥の「心中未遂」はこんなふうに書かれる。厳寒の豊平川に二人が飛び込む場面だ。

 


 「あぶない!」かう叫んで、義雄はかの女に抱き附いた時は、然し、もう、どうせ死ぬんだと覺悟してゐた。
 二人は、抱き合つて薄やみの中を落ちた。
 義雄はこの場に、自分の一生涯にあつたことをすべて今一度、一度期に、一閃光と輝やかせて見た。然しそれは下に落ちるまでの間のことで、──落ちて見ると、溺れる水もなかつた。怪我する岩石もなかつた。この冬中の寢雪(ねゆき)として川床に積み重なつた雪のうへだ。

 二人は抱き合つた手を放した。そして、別々に起きあがつた。
 お鳥が自分の肩から下の雪を兩手でふり拂つてゐると、義雄はまた鳥打ち帽をかぶり直し、自分の洋服のをふり拂つてゐる。然し、月はもうその光りを見せる隈がないほど、そらは一面にかき曇つて、風がおほひらの雪をぽたり/\と二人の顏に投げ打つのである。
 川床を札幌の方へ出るにはどうしても一つの細い流れを渡らなければならない。お鳥を脊中に負ぶつて、義雄は編みあげ靴のままその流れをざぶ/\渡つた。
 川を出てからも、矢ツ張り、無言で、歸途を急いだが、お鳥は、ふと、降る雪の中に立ちどまつて、手を前髮の上へやつて見た。そして、動かない。
「どうした?」義雄が先づ聲をかける。
「櫛がないぢやないか?」かの女は泣き聲だ。きのふ、東京から屆いた蒔繪の櫛を云ふのだ。
「身代りになつたのだらう、さ──また買へばいい。」
「金がないのに、買へやせんぢやないか?」
「そんなこともないだらう。」
「買へやせん! 買へやせん!」からだをゆすぶりながら、「探して來い!」
「馬鹿を云ふな!」かう、義雄は叱りつけた。そして、さくり/\と積つた雪の中をさきに立つて急ぐ。
 餘りひどく降つて來たので、渠はインバネスを脱いで、かの女にかけてやつた。



 川へ飛び込んで死のうとしたのに、間抜けなことに根雪の上に落ちて怪我ひとつしない。二人は、「別々に」起き上がり、家に帰ろうとする。そのとき、二人は何をどう感じていたのかまるで書かれていない。義男をお鳥を背負って冷たい川を渡り家路を辿るが、お鳥は「櫛がない」と相も変わらぬだだをこねる。こんなふうに書ける作家はそういるものではない。

 花袋のような文章は、そこそこの作家ならいくらでも書ける。けれど、どんな作家でも、泡鳴のようには一行だって書けはしない。

 根雪の上に落ちて死ねなかったことにたいして、泣きもしなければ、笑いもしない。そんなことまでしなければならないほど追い詰められて自分たちに対する哀れみの情のカケラもない。花袋だったら、「私たち二人は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。」とでも書くところだろう。それを泡鳴は絶対にしない。「センチメンタリズムは皆無」な所以である。

 浅見淵は更にこんなふうに記す。

 


 自伝小説に現われた泡嗚の人生観、恋愛観などには、現代から観て不満があるし、見解の相違も勘なからずあるが、所謂自然主義作家としては、最もその主義に忠実な作家であったように思える。そうして、痴情を描いてこれ程深く達した作家は、明治、大正に掛けて、そう沢山は無いであろう。いや、泡鳴が第一人者では無かったろうか。徳田秋聲は彼が一流の作家であったことを述べ、今に再吟味される時が遣って来るに違い無いと断言していたが、筆者も全く同感である。

浅見淵『泡鳴の自伝小説』昭和8年7月

 


このように、浅見は述べるのだが、それから85年も(!)経った今、泡鳴が「再吟味」されている気配はどこにもないように思われる。




 


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