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一日一書 922 ほんとに欲しと思ふもの・石川啄木

2016-06-30 11:32:04 | 一日一書

 

石川啄木

 

考へればほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し煙管をみがく

 

半紙

 

 

確かに「有るやうで無し」だなあ。

あるいは「無いやうで有り」かも。

 

昔だと、こういう時「煙管をみがく」ということになるのでしょうが

今だと、何をみがくのでしょうか。

 

 

 

 

 


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一日一書 921 芳名帳に署名する

2016-06-29 16:27:57 | 一日一書

 

7月の書道教室の課題。

 

 

芳名帳に署名する機会はけっこう多いもの。

立ったまま、ささっと書いて、かっこいい人っていますが

いいなあとあこがれていました。

けれども、練習次第で、できるようになるらしい。

そういえば、そんなこと、本気で練習したことなかった。

で、立ったまま、筆の上の方を持って練習開始。

思ったように書けないけど、だんだんおもしろくなってきました。

 

 


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一日一書 920 不来方のお城の草に・石川啄木

2016-06-28 10:59:20 | 一日一書

 

石川啄木

 

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

 

半紙

 

 

啄木の歌は、素朴で、いいですね。

心に直接、しみ通ります。

 

 


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一日一書 919 路地にまだ子供ら遊び冷奴・名取里美

2016-06-27 17:18:59 | 一日一書

 

 

名取里美

 

路地にまだ子供ら遊び冷奴

 

 

 

冷奴のおいしい季節。

子供たちはまだ路地で遊んでいるが

食卓の上には、涼しげに冷奴が子供たちを待っている。

つるんとした真っ白な冷奴は

まるで子供の肌のよう。

幸福なひとときです。

 

最近めっきり子供が減って

子供たちの遊ぶ声も聞こえてきません。

 

冷酒で、奴といきますか。

 

 

 

 

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・90 何のための学校?

2016-06-26 10:14:26 | 100のエッセイ・第10期

90 何のための学校?


206.6.26


 

 それほどまでに大事な「集団」とは何か。その「集団」と「軍隊」にどれほどの違いがあるか。それを考えて慄然とするのだ。

 と、前回書いて、それでオシマイになってしまったが、「どれほどの違いがあるか」と問うて、「あんまり違わないじゃないか!」って思って「慄然とする」ということだが、これだけじゃ意味がわからない。そもそも「集団=学校」と「集団=軍隊」とを比べて、「あんまり違わない」か、「すごく違う」かは、その観点によるわけで、総体として「似てる」のか「違う」のかは、細かく検証する必要があるのは当然のことである。

 しかし、「細かく検証する」ことは、ぼくの任でもなければ、趣味でもないので、結論だけ先に言ってしまうと、「学校」と「軍隊」は、似ているところもあるけれど、違うところもある、というはなはだつまらないことになる。

 前回は「似ている」ことのみを、『神聖喜劇』を読み進めている影響もあって、ことさらあげつらったわけだが、本当は、「違う」ところが大事だとぼくは思っている。どこが違うのか(あるいは違うべきなのか)というと、軍隊というのは、ある「目的」があって形成された集団であり、その成員たる個人(兵士)は、その「目的」の「道具」として扱われる組織であるのに対して、「学校」は、断じてその成員たる個人(生徒)は、集団のための「道具」として扱われてはならない、というところにある。

 形式上、あるいは外面上、どんなに学校が軍隊に似ていようとも、本質においては、まったく正反対のものであるということだ。学校という集団あるいは組織のために、生徒が犠牲になってはならない。生徒は、生徒として、純粋に大事にされなければならない、ということだ。そうでなければ、何のために学校があるのかわからなくなってしまう。

 こんなことは当たり前のことのように思われるが、実際には、必ずしもこれが当たり前とは思われていないと思われるようなことが横行しているのが、学校というところである。

 昨日は、昔勤めていた都立青山高校の同窓会があった。全体の同窓会というのは、知っている生徒も少ないので、以前は出席したことがなかったのだが、去年出席したら、思いがけない教え子たちと会うことができ、昔の同僚の先生たちにも久しぶりに会えたので、やはりこういう会はいいなあと思って今年もでかけたのだった。

 今年もまた意外な再会もあり、とても楽しかったのだが、会の中で、現校長の挨拶があり、その中で、今年も「難関国公立大学」に○○名の合格者があって、「進学重点校」となっております、というような話があった。「難関国公立大学」に規定数以上の合格者がないと、「進学重点校」の指定を取り消され、予算も削られるのである。こういうことは、以前の都立高校では考えられなかったことだが、いまでは普通になり、校長も、こういう発言を、恥ずかしげもなく、むしろ嬉々として行うわけである。というか、こういうことに疑問を感じない人でないと都立高校の校長にはなれない(らしい)。

 余談だが、ぼくが青山高校をやめてからずいぶんたってから、いわゆる「民間校長」が青山高校に赴任したと新聞でも話題になったことがある。その校長は、職員会議で先生たちに、「入ってくる生徒にどれだけ付加価値をつけて送り出すかが大事だ。」と訓示して、おおくの心ある先生たちの失笑(あるはい大反発)をかったという話を人づてに聞いた。別に、その民間校長に悪気があったわけではないだろうが、生徒に「付加価値」をつけるのが「教育」だとする思考の浅薄さ(あるいは傲慢さ)には、目を覆いたくなるものがある。「教育」は英語では「education」だが、その「educate」の原義は「能力を導き出す」の意であるぐらい、いやしくも教育に携わるものの常識ではないか。

 それはさておき、「進学重点校」に指定されることが、きわめて重大な目標になった場合、そこで、個々の生徒はどう扱われることになるだろうか。「難関国公立大学」にたとえば10名入れるという目標を、本気で公然と掲げ、それを手っ取り早く実現しようとすれば、生徒の中で「見込みのある者」を選んで、彼らを徹底的に鍛えればよろしい。現にそういう方法をとっている私学はいくらでもあるだろう。私学はそうでもしなければ、つぶれてしまうという切実な事情もあるから、背に腹はかえられぬというわけだろうが、公立は、そこまでしなくてもいいはずだ。そこまでしなくていいから「公立」なのではないか。

 つまり、「難関国立大学」へ何名入れるという目標が学校の目標として明確に掲げられたとき、学校は、軍隊に近づいてゆくのである。

 学校は何のためにあるのか。それは、個々の生徒のシアワセのためにある。それ以外にはない。まかり間違っても、「人材育成」のために学校があるわけではない。生徒を「人材」としてとらえることほど「教育」から遠いことはないとぼくは堅く信じているのだが、今の世には「グローバル人材育成」こそが学校の目的だとして憚らない論調があふれかえっている。

 世も末だと、ぼくのような反時代的なジジイはうそぶいていればすむが、当の生徒にとってはそんな悠長なことは言ってられまい。まさに生徒受難の時代。大人の勝手な価値観に振り回されずに、何が自分にとってのシアワセなのかを、自分自身で考えていかなければならないだろう。

  

 


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