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木洩れ日抄 39 バスが来るまで

2018-06-30 09:02:37 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 39 バスが来るまで

2018.6.30


 

 我が家から歩いて15分ぐらいのところに「汐見台3丁目」のバス停がある。ぼくは、月2回、磯子駅近くでの書画教室に通うために、このバス停を利用する。気候のいいときは、このバス停までの坂道を歩くのだが、雨が降ったり、暑い日には、このバス停まで別のバスを使う。我が家の近くのバス停から京急バスに乗ると、このバス停まで行ける。で、ここから市営バスに乗り継いで磯子駅まで行くわけである。

 もう少し詳しく書くと、京急上大岡駅を始発とする「汐見台団地循環」の京急バスと、JR磯子駅を始発とする「汐見台団地循環」の横浜市営バス(正確には、市営ではなくて、この系統は、「横浜交通開発」という会社に委託している。)とが、ちょうど、「8」の字のように、「汐見台3丁目」で交わっているのである。一日に、10本程度は、上大岡駅から磯子駅への直通の京急バスはあるが、教室の時間に都合のいいのはないので、こうした乗り継ぎをするしかないのだ。我が家から磯子駅までは、4キロ程度なのに、なかなかめんどくさいことである。

 で、昨日もあまりに暑いので、京急バスで「汐見台3丁目」のバス停まで行き、そこのベンチに座って、市営バスを待っていた。待ち時間は15分以上もある。カンカン照りで、ベンチも思わず飛び上がるほど熱い。帽子が必須である。

 帽子を被って、ベンチにうなるようにして座っているところへ、どこからか、オバアサンが現れた。80歳を超えている。時刻表に目を近づけて見ている。ふと見ると、そのオバアサン、毛糸の帽子を被っている。上着も冬物みたいなジャッケトだ。

 ああ、26分かあ、とため息。ぼくは20分だ。乗るバスが違うのである。ちなみに12時台の話。真昼である。

 暑いねえ、と、ぼくはなぜか、声を掛けた。

 ああ、暑いねえ、といって、帽子に手をやり、今日はさ、風が強いでしょ。だからこれ被ってきたのよ。夏物だとね、ヒモがついてないから飛ばされちゃうのよ。これはさ、冬ものだけどさ、しっかり被れるから飛ばないと思ってね、なんて、聞いてもいないのに、「毛糸の帽子を被っている理由」を説明する。ぼくの目が、オバアサンの帽子に向いていたのだろうか。ぼくは若いころ、電車の中で座っていただけなのに、刑事に間違われたことがある。目つきが悪いのかもしれない。

 「毛糸の帽子」のわけは分かった。確かに、かなりの強風である。しかし、暑いだろうなあ。

 上大岡まで? そう、上大岡まで行ってさ、また乗るんだけどね。どこまでいくの? 銭湯へ行くのよ。銭湯って「三浦湯」? いやそっちじゃなくてさ、港南中央のところに川があるでしょ。あの川のそばにあるのよ。今はさあ、煙突がないからね、分からないけどさ、あるのよ。今じゃ、ほら、湧かすのに薪を使わないでしょ、だから煙突がいらないんだってさ。(別に、「あるわけない」と言ったわけじゃないのに、「ある」ことをやたら強調する。これも、ぼくの目つきが「疑ってる」感をかもしだしていたのか?)

 そういえば、あった。そのあたりには、ぼくの小学校の担任の先生の家があり、数年前にも行ったことがある。(家に帰って家内にその話をすると、先生の家の前が銭湯だったじゃないの、という。そうだ、そうだった、と後で納得。)

 じゃ、そこ行ってのんびりするんだ。そうよ、一時間ぐらいね。でもさ、そこ3時からなんだけどさ。え〜、じゃ、まだ2時間以上もあるじゃない。そうなんだけどさ、うちのオヤジがさ(一瞬、オヤジって誰? って思ったけど、まあ、亭主だろう。ジジイって言わないだけいいや。)、早く行けってうるさいからさ、出てきたんだけどね。まあ、ヨークマートで買い物するからいいのよ。でも、朝にはさ、OKストアで買い物したんだけどね。じゃ、お風呂から帰ったら、ご飯のしたくするの? 大変じゃん。いやあ、「したく」っていったって、ほら、缶詰とかさ、今はいろいろあるからさ、たいした料理なんかしないよ。うちのオヤジはさ、毎晩ショーチュー飲むし、ほら宝焼酎。あれにさ、氷入れて飲むんだよ。冬だってなんだって氷なんだから。それからご飯たべて、テレビ見て、寝るのさ。

 じゃ、今日はサッカー見るの? 見ない見ない。うちはさ、野球。プロ野球。見てるうちに寝ちゃうよ。あはは、ぼくも、ドラマ見て寝ちゃうなあ。

 たわいもない高齢者同士の会話である。炎天下の15分。バスが来た。

 

 


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日本近代文学の森へ (26) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その2

2018-06-29 14:53:00 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (26) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その2

2018.6.29


 

 友人から、もう少し「龍土会」のことを聞かせて欲しいという要望があったので、前回と重複するところもあるが、引用しておく。


 龍土會と云ふのは、おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる。幹事は二名づつのまはり持ちで、この月には田島秋夢と今一名渠(かれ)と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。
 義雄はこの會の最も忠實な常連の一人でもあるし、友人どもの顏も暫く見ないし、印刷を終つた自著『新自然主義』がいよ/\世間に出た當座の意氣込みもあつたことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になつてもこちらの痔が惡くなるにきまつてるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかつた。
 中の町から檜町の高臺にあがると、麻布の龍土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に龍土軒と云ふ佛蘭西料理屋がある。そこが龍土會の會場であつた。
 義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかツきり行つた。が、まだ誰れも來てゐない。
 ボーイを相手に玉を突いてゐるうちに、人がぽつり/\集つて來た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで來て、
「どうだ、久し振りで負かさうか?」かう云つて直ぐキユウを取つた。例の歌詠みから株屋の番頭に轉じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して來て、
「また電球をぶち毀すのは眞ツ平だぜ。」
「あれはどこの玉屋へ行つてもおほ評判ですぜ」と、そばにゐたそこの主人が少しおほ袈裟に笑つた。
「もう、大丈夫だよ。」まじめ腐つて答へながら、義雄も臺に向つたが、いろんなことが氣にかかつて、もろく勝負に負けた。
「よせ/\」と呼びに來たものもあつて、義雄も二階にあがつた。
 渠を見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。
「君の著書をありがたう」と挨拶するものもある。
「あんな短い紹介だが、取り敢ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云ふものもある。
「耽溺はどうなるのだらう」と、こちらが現代小説にやつた作のことを云ふものもある。
「君の女はどうした」と、ぶしつけに聽くものもある。
「顏の色が惡いが、過ぎるのだらう」と穿つたつもりでからかふものもある。
「また痔が惡くツて、ね、閉口してゐるのだ。」
「ぢやア、酒はやれまい」と、慰め顏に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云はれた言葉を度々聽き返したり、聽き落したりした。
 やがて椅子が定まつて、日本酒の徳利がまはつた。
 秋夢は幹事だから末席にゐる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外に「破戒」を書いた藤庵がゐる。「生」を書いた花村がゐる。劇場のマネジヤーを以つて任ずる内山がゐる。また外國新作物の愛讀者で、司法省の參事官をしてゐる西がゐる。その西が紹介した農商務省の山本といふ法學士がゐる。株屋の番頭がゐる。工學士の中里がゐる。麹町の詩人がゐる。琴の師匠の笛村がゐる。漫畫で知られる樣になつた杉田がゐる。或出版店の顧問、雜誌の編者等もゐる。
 かう云ふ人々の中にあつて、いつも渠等の談話を賑はすのは田邊獨歩であつたが、今年の六月に肺病で死んでしまつた。餘り出席はしなかつたが、矢張り、會員であつた眉山は、獨歩の死ぬ少し前に自殺した。
 眉山の自殺してから間もなく、茅ヶ崎海岸の獨歩の病室で、「この龍土會の會員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだらう」と云ふ話が出た。
「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑つて、「あいつが生きてるうちに、おれは死にたくない。」
 さう言はれるほど、義雄も隨分毒舌の方であるし、それをあとで聽いた渠は曾て獨歩の思想をまだ舊式だと批評したことがあるのを思ひ出したりしたが、今夜は甚だ勢ひがない。酒は平氣で人並みに飮んでゐたが、持病のむづがゆく且痛むのを頻りにこらへてゐた。
 花村は「鳥の腹」と云ふのを文藝倶樂部に出した男を捕へて、あの小説は描寫でない、下手な説明だ、きはどいところがあるのは構はないが、説明的だから、それを人に強ひるやうになつてゐる、挑發的だと云つて、發賣禁止になつたのも止むを得まい、などといぢめてゐた。
 藤庵は、或新聞記者に向つて、謙遜らしく、人生の形式的方面をどう處分してゐればいいのだらうと云ふやうなことを質問してゐた。
 西は内山や中里と共に頻りにイブセンやメタリンクやストリンドベルヒの脚本を批評し合つてゐた。
 かう云ふ別々な話がいつまでも別々になつてゐないで、互ひに相まじはり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、機(はた)の梭(ひ)が行きかふ樣になつた時、義雄はその意味を取り違へたり、ただやかましい噪音が聽えたりする瞬間もあつた。それが如何にも殘念で、この耳だけに關して云つても、もう、これ等の人々と自由に話し合ふ資格がなくなつたのかとまで思つた。
「田村が乙に澄ましてゐやアがるので、今夜は少し賑やかでない、なア」と、株屋の番頭が云ふのが聽えた。「色をんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」
「けふは、何と云はれても、しやべる氣になれないのだ。」かう云つて、義雄は笑つたが、自分のいつも特別に注意を引くから/\笑ひも、それと好一對になつてゐる麹町の詩人の羅漢笑(らかんわら)ひと云はれるのに壓倒された。
 そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘(がんじよう)な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

 


 友人は、伊藤整の『日本文壇史』に、「龍土会」のことが書いてあるのだろうか? とも言っていたので、調べてみたのだが、どうも「龍土会」を取り上げていないようだった。(あくまでざっと調べただけなので、どこかに書いているかもしれない。)ついでだから、伊藤整は泡鳴をどう評価していたのかと思って、『日本文壇史』での扱いを見てみたのだが、『耽溺』と『泡鳴五部作』のざっとした粗筋を紹介しているだけで、きちんと「評価」していないことに今さらながら驚いた。伊藤整は泡鳴が苦手だったのかもしれない。「伊藤整全集」をこれもざっと見わたしたところ、やっぱり、泡鳴を正面から論じているものはなかった。

 それはそれとして、『日本文壇史』を読み返して、ハッとしたことがある。それは、『耽溺』以来、「田島秋夢」という名前で登場してくる友人を、ぼくは「秋」という字が入ってるからという理由だけで、勝手に徳田秋声だと思い込んでいたのだが、伊藤整は、はっきりと、正宗白鳥だと書いている。花袋を「花村」、藤村を「藤庵」なんて分かりやすい名前で登場させているものだから、「秋夢」は秋声だと思うのが順当だろうから、伊藤整の勘違いじゃないかと思ったが、今引用した部分をよく読むと、やっぱりぼくの勘違いだということが分かる。

 つまり、引用部分の最初の方「この月には田島秋夢と今一名渠と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。」が証拠。この時期に、正宗白鳥は確かに読売新聞社に勤めていた。徳田秋声も読売新聞社に勤めたことがあるが、それは明治33年から34年にかけてのことで、この時点ではすでに社員ではない。この時点というのは、すでに泡鳴の『耽溺』が話題になっているのだから、明治42年ごろということになるのである。

 以前に書いたことを修正しなくちゃ。似たような偽名を使ったり、本名使ってみたり、全然関係ない偽名を使ってみたり、一貫性がないから困っちゃう、なんてブツブツ。

 ここに登場してくるいろんな人には、それぞれモデルがいるわけだが、分かりにくい。それでも「農商務省の山本といふ法學士」というのが柳田國男らしいとあたりはつく。彼が役人だったということは、どこかで聞きかじっていたからだ。だとすると、彼を連れてきた「西」というのは誰だろう、「歌詠みから株屋の番頭に轉じた男」って誰だっけ? なんて想像が膨らむが、まあ、このくらいにしておこう。きりがない。

 「龍土軒」の1階は、どうやら「玉突き場」になっているらしい。この頃、この玉突き(ビリヤード)が相当はやっていて、泡鳴も凝っていたらしい。『耽溺』にもその玉突きの試合の様子が具体的にエンエンと書かれているので、内容がさっぱり分からず閉口したものだ。そういえば、ぼくの子どもの頃にも、ぼくの町に「玉突き屋」があったのを思い出す。一度も入ったことはなかったが。

 自然主義の作家たちを中心にしたこの集まりの中で、義雄は耳を悪くしているために、会話がよく聞こえないことをひどく「残念」に思い、自分には彼らと自由に話をする資格もなくなったのかと落ち込む様子が印象的だ。そのうえ『耽溺』の評判があまり芳しくなく、せいぜい「耽溺はどうなるのだろう」というぐらいの反応しかない。泡鳴はたしかに、焦っていたのだ。





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一日一書 1459 菖蒲華(七十二候)

2018-06-28 20:23:46 | 一日一書

 

菖蒲華(あやめはなさく)

 

七十二候

 

6/26〜6/30頃

 

ハガキ

 

 


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日本近代文学の森へ (25) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その1

2018-06-28 09:44:19 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (25) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その1

2018.6.28


 

 女房の千代子が怒鳴り込んできて修羅場となったので、義雄はお鳥を、大工の家の二階に移し、自分もそこへ通っていくようになったのだが、千代子は、陰陽術に凝って、お鳥を呪ったり、占いで新しい居場所を突き止めようとしたりしている。その占いが、どうもあたっている節がある、てなところから『毒藥を飮む女』は始まる。初出では、この冒頭のあたりは、『発展』の最後の部分だったらしいから、話は地続きである。



「おい、あの婆アさんが靈感を得て來たやうだぜ。」
「れいかんツて──?」
「云つて見りやア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ。」
「そんな阿呆らしいことツて、ない。」
「けれど、ね、さうでも云はなけりやア、お前達のやうな者にやア分らない。──どうせ、神なんて、耶蘇教で云ふやうな存在としてはあるものぢやアない。從つて、神のお告げなどもないのだから、さう云つたところで、人間がその奧ぶかいところに持つてる一種の不思議な力だ。」
「そんなものがあるものか?」
「ないとも限らない──ぢやア、ね、お前は原田の家族にでもここにゐることをしやべつたのか?」
「あたい、しやべりやせん──云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもつて。」
「でも、あいつは、もう、知つてるぞ、森のある近所と云ふだけのことは。」
「森なら、どこにでもある。」
「さうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかつた。無論、千代子が或形式を以つて實際お鳥を呪ひ殺さうとしてゐるらしいことも、お鳥には知らしてない。たださへ神經家であるのに、その上神經を惱ましめると、面倒が殖えるばかりだと思つてゐるからだ。
 が、お鳥も段々薄氣味が惡くなつたと見え、日の經つに從つて、義雄の話を忘れるどころかありありと思ひ出すやうになつたかして、つひにはまた引ツ越しをしようと云ひ出した。もし知られると、今までにでも、云はないでいい人にまで目かけだとか、恩知らずだとか、呪ひ殺してやるだとか云つてゐるあいつのことだから、わざと近所隣りへいろんな面倒臭いことをしやべり立てるだらうからと云ふのである。
 然し、この頃お鳥はおもいかぜを引いてとこに這入つてゐた。近所の醫者を呼んで毎日見て貰ふと、非常に神經のつよい婦人だから、並み以上の熱を持ち、それがまた並み以上に引き去らないのだと説明した。その上、牛込の病院に行けないので、一方の痛みも亦大變ぶり返して來た。
 かの女は氣が氣でなくなつたと見え、獨りでもがいて、義雄にも聽えるやうに、
「何て因果な身になつたんだらう」と三疊の部屋で寢込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の廣い、然し向う側の森から投げる蔭をかぶつた室──六疊──には、憲兵が三人で自炊する樣になつてゐた。



 千代子は藁人形を作って、お鳥を呪い殺そうとしているらしい。恐ろしい。

 お鳥は、重い風邪をひき、しかも淋病の痛みもぶり返す。義雄のほうも、甲府で痛めた耳の具合がよくなく、その上、持病の痔が悪化して痛くてたまらない。義雄は「病気の問屋」だ。

 そんなとき、「龍土会」の忘年会があった。この「龍土会」というのは、「おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる」と説明されているが、これは実在したもので、詳しくは以下のとおり。

 


明治時代の文学者の集会名。東京麻布竜土町(港区六本木七丁目)にあったフランス料理店竜土軒(現在は同区西麻布一丁目に移転)で会合をもつようになった明治三十七年(一九〇四)十一月以後この名が決まったが、会そのものは、三十年代前半に柳田国男が牛込加賀町の自宅に文学仲間を招いて文学談を楽しんだのがはじまり。柳田邸を離れて諸処の料亭を会場にするように発展したのは三十五年以後で、原則的には月例で、会員は特定しなかった。参会者は柳田国男・国木田独歩・田山花袋・島崎藤村・蒲原有明・岩野泡鳴・徳田秋声・正宗白鳥など自然主義系の作家が多かったが、小栗風葉・川上眉山なども参加し、ジャーナリスト・画家なども集まるようになり、次第に社交場化したので、初期の仲間は柳田国男を中心に四十年二月から別に研究会としてのイプセン会を派生させることになった。以後断続、大正二年(一九一三)三月二十一日柳橋の柳光亭で行われた島崎藤村渡仏送別会が事実上最後で、その後は復活の試みも成功せず、自然主義運動の母胎として終った。


(「国史大辞典」和田謹吾執筆)


 引用はしないが、この「龍土会」の様子が、ここでは生き生きと描かれていて実に興味深い。

 田島秋夢(徳田秋声)(注)、田邊独歩(国木田独歩)、花村(田山花袋)、藤庵(島崎藤村)などはすぐに分かるが、何度も出てくる「麹町の詩人」って誰なんだろうと思っていたら、「国史大辞典」で、ああ、蒲原有明かあと分かった。蒲原有明と「自然主義」の作家との交流は意外だった。文学史の授業だけじゃ、分からないことがいっぱいあるね。

 「病気の問屋」だった泡鳴にしてみれば、健康に恵まれた田山花袋がよほど羨ましかったらしく、こんな記述がある。

 


そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘(がんじよう)な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

 


 現に、独歩は明治41年に36歳で没し、泡鳴は大正9年に47歳で没しているが、花袋は昭和5年に58歳で没している。それでも長生きとはいえないけれど、泡鳴の「予言」も少しはあたっているわけだ。「少しは」というのは、蒲原有明は昭和27年に77歳で没し、島崎藤村は、昭和18年に71歳で没し、徳田秋声は昭和18年に71歳で没しているからだ。(ここを調べて書きながら、スゴイ発見をしたぞ。藤村と秋声は、生まれた年も、死んだ年もまったく同じだ!)また、そこにいたかどうかしらないが、正宗白鳥に至っては昭和37年に83歳で没している。しぶとい人だ。

 人の生き死になんて、分からないものだ。同窓会で旧友と会うたびに、誰が最後まで残るかなあなんて話題になるが、そんなこと誰にもわかりはしない。先に逝こうが後に残ろうが、結局は、みんないなくなる。いなくなって、それっきりなのか、それとも、どこかで「再会」するのか、それも分からない。「再会」できればそれにこしたことはないけれど、果たして話題が持つかなあと思うと、めんどくさい気もするし、まあ、人生って、よく分からない。


 



(注)この記述は間違いでした。「田島秋夢」のモデルは、「正宗白鳥」です。(2018.6.29記)





 


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木洩れ日抄 38 「パラパラ」が大事

2018-06-27 11:01:40 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 38 「パラパラ」が大事

2018.6.27


 

 2010年ごろ、ぼくは狂ったように本の「自炊」に熱中し、およそ1年かけて約3000冊の本を電子書籍にした。一時的に本棚には、かなりの空間ができたが、あっという間に、そのあいた空間を本が占拠しはじめ、今では、またぞろ収拾がつかなくなっている。

 といって、もういちど、狂ったように自炊に励む気力も体力もさらさらなくて、かといって、古書店にさっさと売り払う勇気もなく、それどころか、読みたい本は増えるばかりで、昨今の古書市場の低迷もあいまって、むしろ「買ってしまう」ことの方が多くなった。

 そしてついに、予想していたこととはいえ、「自炊した本を買い戻す」という反時代的事態まで発生したのである。

 「自炊」というのは、今さら説明するまでもないとは思うが、本をバラバラに分解して、専用のスキャナーで読み取る(電子化する=PDFファイル化する)ことで、スキャナーで読み取ったあとのバラバラになった本は、資源ゴミに出してしまうという、悪逆非道な所業である。

 だから、一端自炊した本は、「電子書籍」として、ハードディスクには残るが、実体は残らない。だから、本棚も空く、というわけだ。

 自炊した「電子書籍」は、パソコン画面でも読めるが、便利なのはiPadなどの端末で、これで読むと、文庫本などは格段に字が大きいし、iPadに何百冊でも入るから、いちいち本棚から探さなくていいし、さらには、画面が発光するわけだから暗いところでも電気なしで読める、などの利点がたくさんある。

 長年読み通すことができなかったプルーストの『失われた時を求めて』全巻を、めでたく読み切ることができたのも、こうした「電子書籍化」のおかげだった。

 ところが、最近、岩野泡鳴の小説を読みはじめ、引用やら感想やらを書くということをやっているうちに、あれ、この人、どこに出てきたんだっけ? とか、このエピソードはどこからどうつながっているんだっけ? などと疑問がわくたんびに、iPadでページをめくるという動作がどうにもめんどくさくなってきた。

 これが紙の本なら、パラパラとページをめくって、おめあての場所にいきつくことは容易だ。パラパラとページをめくると、瞬間的に、それぞれのページの内容が案外分かるもので、実に効率的なのだ。極端なことをいうと、一度読んだ小説なら、最初から最後のページまでパラパラやりながら見るだけで、その小説のだいたいの粗筋が分かる。そんなことは、昔から分かり切ったことだったはずなのに、電子書籍を使っているうちに、あらためて紙の本の便利さに気づいたというわけである。

 もちろん、電子書籍のビューワでも、いろいろな工夫があり、「パラパラめくる」ようなしかけもあるが、それは、あくまで「紙の本を読んでいるような感じ」を演出するだけのもので、ちっとも実用的ではない。

 そんなわけで、自炊して元の本がない『岩野泡鳴五部作上・下』二巻を、古書店から買い戻したのである。やっぱり、紙の本を読んでいるほうが、「読書している」という実感があるなあ、なんて思ったりする日々で、いつまでたっても落ち着かないことである。





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