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木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023-12-28 21:13:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023.12.28


 

 姚小全先生(ぼくが、6年ほど前から師事している中国書画の先生)曰く、「上手な絵ではなく、おもしろい絵を描きなさい」。字もまた同じ。上手な字は「お習字」で、決して「芸術」ではない、とも。「手が震える老人のような線で、字も、絵もかけ。」と中国ではよく言われるそうだ。

 先生自身が目指しているのは、とにかく「趣ある絵」であり、字だ。それで、いつも先生は悩んでいる。悩んでいる姿をいつも生徒の前にさらしている。これは、最高の教育だ。何に悩んでいるのか、それが分かれば、生徒の目標が自ずとできる。

 人物の顔に色をつけるとき、少量の絵の具を筆につけて、「塗る」のはダメで、水分たっぷりの絵の具をつけて「染める」こと。そうする絵が「うるうるしく」なるという。先生は日本語がかなり上手だが、なかなか覚えられない言葉もある。それが「みずみずしい」という言葉で、何度かお教えしたがダメで、いつも「うるうるしい」と言う。分かるからそれでいいんだけど、初めて習う人は面食らう。

 「すぐろい線を描きなさい」という言葉を、習い始めて数年間、どういう意味だろうとずっと考えていたが、ある日、「すぐろい=するどい」だと気づいて、そう伝えたら、そうそう、そうだよということで、長年の胸のつかえがおりたこともある。しかし、言葉が分からないということは、そう悪いことでもなくて、分からないからその言葉が気になり、忘れっぽいぼくでも、いつでも覚えている。「すぐろい線を描かなくちゃ」って思うわけだ。そう思うと、先生の声まで聞こえる気がする。

 賛を描くときも、上手に書いてはダメ。そうすると、字が目立ってしまって絵を台無しにしてしまう。枯れ木が描かれている絵なら、その枯れ木のような線で、字も書くこと。字と絵が調和するようにすること。落款も、読めなくたっていい。趣深く、おもしろく書くことが大事なんだ。

 あるとき、高齢の(といっても、ぼくより少し年上にすぎなわけだが)生徒さんが描いた絵に、その方の奥さんが賛を書いてきたことがあった。その奥さんというのは、個展をするほど書歴の長い人で、とても上手に書いてあったのだが、それを見て、先生の言う意味がはっきり分かった。絵と書が完全に分離してしまっていていたのだ。旦那さんの絵を、奥さんの達筆が、「台無し」にしてしまっていた。つまり、書と絵の雰囲気があまりに違いすぎたのだ。

 ことほどさように、絵と書は、むずかしい。ぼくは書が決して上手ではないのだが、それでも、先生は、あなたの書は「慣れすぎている」から、そこから抜け出さなければダメだと言う。

 じゃあ、下手にかけばいいのかと思って、いい加減にかくと、「もっと気をいれろ」とおっしゃる。「気を入れて」しかも「下手にかく」なんて、どうやったらできるの? 

 あなたは教師だったから真面目。だからダメなんだ、と言われてこともある。これじゃ身も蓋もない。教師としては決して真面目じゃなかったのだけれど、「根が真面目」なことは確かだ。家内に頼まれたことなど片っ端から忘れまくって、年中叱られているような男のどこが「真面目」なのかという話だが、「真面目」の方向性が違うのだろう。

 むずかしいなあ。絵を描くにしても、字を書くにしても、あるいは写真を写すにしても、どこか枠にはまっていて、自由になれない。奔放になれない。これはぼくの生まれつきの性格というよりは、中高時代の「悪しき教育」のせいだとしかいいようがない。

 なにしろ、徹底的な規則づくめの生活指導で、そこから逸脱することなんか許されなかった。といっても、平気で逸脱するヤツも当然いたわけだが、小心者のぼくには懸命に規則に従うしか生きる道はなかったのだ。そのくせ、昆虫採集に熱中しだした中3のころからは、「勉強すべし」という規則を破りまくったわけだが、それでも心の中に染みついた「規則を守るきまじめさ」は、拭いようもなく、成人してからも、そこからなんとか自由になろうとして絶望的な「努力」をしたものだ。しかし、そんな「努力」をすること自体、矛盾してるとしかいいようがない。まあ、それでも、卒業して50年以上も経った今では、長年のボケにも磨きがかかって、すっかり「いい加減なジジイ」に成り果てているけれど、それでもなお、紙に向かって字や絵をかくとなると、その「まじめさ」がフツフツと指先からよみがえってくるというアンバイだ。

 今更うらんでもしょうがないが、そういう「教育」を教師として極力しないようにしてきたことも確かなので(ほんとか?)、それがせめてもの救いであろうか。「救い」かどうかは別としても、ぼくは人に「押しつけること」が大嫌いだったので、そうなるしかなかったのだ。ということは、結局、教師失格だったということであろう。

 とにかく、来年は、「芸術方面」では、自由・奔放を心掛けたい。「生活方面」では、真面目であろうとするしか道はない。なんだかどっちも無理な気がしてしかたがないのだが。

 

 


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日本近代文学の森へ 252 志賀直哉『暗夜行路』 139  彫り込まれた思い 「後篇第四  一〜二」 その3

2023-12-14 10:13:38 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 252 志賀直哉『暗夜行路』 139  彫り込まれた思い 「後篇第四  一〜二」 その3

2023.12.14


 

 お栄の話は、一端途切れて、謙作の朝鮮での観光(?)の様子が描かれる。あっさりした記述だが、気楽な旅の様子が短い言葉で綴られる。

 


 謙作は朝鮮では余り歩かなかった。開城から平壌ヘ一泊で出かけた以外は、或る晴れた日、お栄と清涼里の尼寺に精進料理を食いに行った位のものだった。途中山の清水の湧いている所で朝鮮人の家族がピクニックをしているのを見かけた。白髯(はくぜん)の老人が何か話している、囲りの人々が静かにそれに聴入っている、長い物語でもしているらしかった。昔ながらの風俗らしく、見る者に何か親しい感じを与えた。
 南山から北漢山を望んだ景色が好きで、彼は二度其所へ出かけて行った。景福宮、昌徳宮、それから夜は一人で鐘路(しょうろ)の夜店あさりをした。古い螺釧の鏡台があり、欲しかったが、毀れている割りに値が高かった。彼は美しい華革張(かかくば)りの文函(ぶんこ)を直子のために求めた。これも今出来でなく、いい味があった。
 平壌への汽車の中で、彼は高麗焼の窯跡を廻っているその方の研究家と一緒になり、色々そういう話を聴いた。謙作とはほとんど同年輩の人だったが、話しぶりにも老成した所があり、朝鮮統治などにも一卜かどの意見を持っていた。


 謙作は、この「同年配の人」からある「不逞鮮人」となっていった若者の話を聞く。鉄道敷設にからんで、土地の買い占めを役人(日本人ということになる)から依頼されて土地を買い占めるが、やがて、土地の人々から裏切り者と言われるようになった。しかも、鉄道敷設の計画はいつの間にか変更され、その若者が買い占めた土地は、実際の敷設される土地からは3、4里も離れたところで、若者は破産する。彼は、計画変更を自分に知らせなかった日本人の役人を恨んで、やがて、「札付きの不逞鮮人」となり、日本への復讐を誓ったが、悪事に手を染め、結局死刑になってしまったという話だ。

 

「多分この間死刑になったはずですが、四、五年前例の窯跡探しで、案内してもらった時など、何だか非常に静かでそんなになろうとは夢にも思えないような若者でした」

 

 こういう言葉で、このエピソードは終わるが、謙作のそれに対する感想は書かれていない。日本統治下の朝鮮での出来事だけに、なぜ志賀はこのエピソードを書いたのか、そして、なぜ、それに対する感想を書かなかったのだろうか。

 「暗夜行路」には社会情勢がちっとも描かれていないという批判があるが、志賀がそれに無関心だったとは思えない。無関心なら、こういったエピソードを書き込むはずもない。関心はあるが、深入りは避けたといったところだろうか。

 「非常に静かな若者」が、日本の役人の不誠実によって破産に追い込まれ、その責任をとろうともしない日本人を恨み、日本への「絶望的な復讐」を誓うが、「不逞鮮人」のレッテルをはられ、結局は破滅するというエピソード自体、統治する日本への批判を含んでいることは明らかで、わざわざそれに対する「感想」など要らぬというのが志賀の考えだったのかもしれない。

 このエピソードの後、章を変えて、お栄の話に戻っていく。


 謙作は十日目にお栄を連れ、帰って来た。蒸々(むしむし)暑い日中の長旅で、汽車の中は苦しかった。
 下関から電報を打ったので、直子が大阪あたりまで出迎えているかも知れないと謙作は思った。「お帰りの時は何所かまでお迎いに出ようかしら」そんな事を直子がいっていたのを彼は想い出していた。で、彼は神戸でも、三ノ宮でも、汽車の止まるたび、プラットフォームに下り立って見た。大阪では列車が駅へ入る前から首を出していたが、此所(ここ)まで来ると、その賑わしさが彼にやっと帰って来たという気をさした。
 彼はプラットフォームの人込みの中に直子の姿を探したが、見えなかった。彼は何か軽い失望を感じながら、いっそ、はっきり出て来るよう、いってやればよかったと思った。


 「軽い失望」──嫌な予感がすでにある。直子のちょっとした言葉に期待したのだが、それが「軽い失望」に変わる。「いっそ、はっきり出て来るよう、いってやればよかった」と思う謙作の感情は微妙だ。迎えに来てくれとはっきり言っては、「そうか、やっぱり来てくれたのか」という思いは味わうことができない。謙作は、直子の心遣いを期待して、それが報われた喜びを味わいたかったのだ。

 

 お栄は腰掛に横向きに坐って、うつらうつらしていた。一年半、──一年半にしては多事だった、そして漸く帰って来たという事は何人にも感慨深くありそうな事だが、お栄はもうそれさえ想わないほど、疲れて見えた。謙作にはお栄の感情がそれほど乾いたように思われた。
 「いらっしゃいませんか」居ずまいを直しながらお栄は物憂そうに袂(たもと)から敷島の袋を出し、マッチを擦った。お栄は久しく止めていた煙草をこの一年半の間にまた吸い始めた。謙作の方は僅(わず)か十日の旅でも、帰って来た事がいやに意識された。今乗込んで来た連中(れんじゅう)は何れも見知らぬ顔だったが、それが皆、知人(しりびと)かのよう思われるのだ。彼は今度は間違いなく出ている直子の晴れやかな顔を想い浮べ、汽車の遅い速力を歯がゆく思った。

 

 見事だなあと思う。お栄の「疲弊」が、こんな僅かな言葉で浮き彫りになっている。長い間やめていたタバコを、また吸い始めたお栄の物憂いたたずまいは、この一年半の労苦を自然と物語っている。そしてそのお栄をいたわりの目で見つめる謙作の心も身にしみて感じられる。

 謙作は典型的な「自己中」人間のように言われるが、それは大きな間違いだろう。女を快楽と癒やしの道具としか考えていないと、声高に「暗夜行路」を批判する論文もあるが、こういう細かいところを読まずして、なんの文学研究かと思う。

 文学の本質は、細部に彫り込まれた作家の思いを丹念に辿ることによってしか把握することはできない、とぼくは思っている。

 

 

 

 

 


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