Yoz Art Space

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一日一書 519 釘箱の釘・尾崎放哉

2015-02-27 15:47:45 | 一日一書

 

尾崎放哉

 

釘箱の釘がみんな曲がって居る

 

半紙

 

 

放哉の句は、見たまんまのようでいて

どこか比喩的です。

そこが面白い。

 


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一日一書 518 祈・現日春季展出品作

2015-02-26 16:54:48 | 一日一書

 

 

全紙二分の一

 

 

現在、国立新美術館で開催中の、「現日春季書展」への、ぼくの出品作です。

 

本文は、自作。以下の通りです。

 

  祈

 

ぼくの体の
皮膚という皮膚が
一枚の 透明な
鼓膜であればいい

星が送る風に
ひりひりふるえる
夜の耳

ぼくの体のがらんどうを
ひびきながらのぼってゆく

ぼくの体が 一つの
水晶でできた
反響室であればいい

 

 

1984年に自費出版したぼくの唯一の詩集「夕日のように」に収録されている詩です。

 

どういうつもりでこの詩を書いたのか覚えていませんが

「教師」という仕事を、こんな風に考えていたのかもしれません。

 

 

いちおう、「自作解説」をしてみます。

 

第1連は、「自分」という存在が「一枚の鼓膜」であればいいということを言っています。
言い換えれば、「言葉を聴く」存在でありたいということでしょうか。
ですから「耳」と言ってもいいわけですが、よりイメージを明確にするために
「一枚の鼓膜」と言ったわけです。
「透明な」には、特別の意味はなく、「純粋な」ぐらいのイメージ。

 

第2連は、第1連を受けて、
何となく「詩的」にするために格好つけてる感じですね。
「星が送る風」っていうのは、よく分からないイメージですけど
「声」が「音」なら、「音」は「音波」ですから「風」のようなものだということでしょうか。
「星」は、「風=声」を送る存在ですから
他人でもいいし、本でもいいし、自然でもいいわけです。
何か、遠い存在が、「語りかけている」という感覚。
究極的には、もちろん、「神」なのかもしれません。
「ひりひりふるえる」は「敏感さ」の比喩。
「夜の耳」は、「一枚の鼓膜」の言い換えですが
やっぱり「声」がいちばんよく聞こえるのは、「夜」ですね。

 

第3連は、ちょっと哲学的。
「ぼくのからだのがらんどう」というのは
要するに「無我」のことでしょうか。
「おれが。おれが。」と自分のことで頭をいっぱいにしていれば
「声」が聞こえるどころじゃない。
おのれを「無」にして、からだの皮膚が「鼓膜」になって
そのうちがわが「がらんどう」なら、声もよくひびくはず、ということ。

 

第4連は、第3連をイメージ化して「からだ」=「反響室」としたわけです。
「水晶でできた」は美辞麗句ですが、第1連の「透明な」との関連から。

 

結局、教師としてのぼくの「つとめ」は
いろいろな「声」を鋭敏な感受性で聴き取り
己をむなしくして、その「声」を生徒に伝えることではないのか、
ということになるのでしょうか。

とても、そんな立派な教師になれたわけではありませんが
そういう殊勝な気持ちになったときもあったということでしょう。



ま、自作解説はこのぐらいにしておくとして
これを「書」にするのは、楽しくもまた苦しい作業でした。
出来映えは、ぼくには、「あ~あ」としか言えませんが
これからも、機会があれば
自作の詩を「書」にしていければと思っています。

 

 

木原光威先生が

畏れ多いことですが

ブログで取り上げてくださっています。

 

 

 


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一日一書 517 ねそべって 2・尾崎放哉

2015-02-23 17:39:48 | 一日一書

 

尾崎放哉

 

ねそべって書いて居る手紙鶏に覗かれる

 

半切三分の一

 

 

こんどは、七面鳥の羽でできた筆で。

いろいろな鳥の羽の筆を売っているんですね。

 

 


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100のエッセイ・第10期・22 よみがえる時間

2015-02-23 16:14:36 | 100のエッセイ・第10期

22 よみがえる時間

2015.2.23


 

 たぶん7~800枚のスライドが入っているボール紙の箱が昔からあって、その大部分が父が撮ったカラー写真であることは分かっていたのだが(ぼくが高校時代から大学にかけて撮った写真も混ざっている)、現役の教師をやっていたときは、ヒマな夏休みなどがあったとはいうものの、やはり今にして思えば、それなりに忙しくて心の余裕もなかったのだろう、それらのスライドに何が写っているのかを、一枚一枚確かめることもなく、何度も箱を変えたり、その置き場所を変えたりして今に至ったのだった。

 フェイスブックを始めてから、昔描いた水彩画やら、新しく撮った写真やらを「投稿」(自分のフェイスブックに掲載すること)していたが、手元にあったぼくの幼い頃の古いモノク写真を「懐かし写真館」などと称して投稿したら、案外「うけた」ので、そうだ、あの写真はどこへ行ったんだろう、と探し始めた。まだ、歯の生え始めた頃、ぼくが木製の回転椅子の上に「まっぱだか」で座ってニコニコと笑っている写真である。

 その写真は、昔、ぼくのアルバムに貼ってあったのだが、都立高校の文化祭の催し物で、教師の「おもしろ写真」みたいな企画があって、その時アルバムから剥がして、それを複写して四つ切りぐらいに引き伸ばして展示したような記憶がかすかにあるのだが、その引き伸ばした写真も、また元になったアルバムから剥がした小さな写真も、どちらも行方不明になっていたのだ。

 そこで、モノクロのネガフィルムが大量に入った箱から、ブローニー版(35ミリフィルムより大きいフィルム)のフィルムを数日がかりで丹念にチェックしていったところ、遂に発見したのである。久しぶりの「対面」である。しかし、まだネガであるから、これをちゃんとした白黒の写真にしなければならない。ネットで探せば、そういうことをやってくれる業者はいるだろうが、それよりも自分でフィルムをスキャンすればいい。しかし、フィルムをスキャンできるスキャナーを実は持っていない。

 昔は持っていたのだが、古いもので、時間もかかるので、たしか息子にやってしまい、その後は、プリンターの複合機(スキャナーもついているもの)で間に合わせていたのだ。複合機のスキャナーはチャチなもので、フィルムをスキャンできる機能などなかったが、どうせやることもないだろうと思っていたのだった。

 そういうわけで、大げさにいうと、この「まっぱだか」の写真をデジタル化するために、新しいスキャナーを買ったのである。値段は、約27000円。これを高いとみるのか、安いとみるのかは考え方次第だが、しかし、実際に使ってみると、昔のスキャナーより格段に解像度が高いのに、スキャンスピードが桁違いに速い。しかも値段は昔のスキャナーの半分以下なのである。こういう面から見れば、ものすごく安いとしかいいようがない。

 で、見事に、ぼくの「まっぱだか」の写真は、全容をあらわし、フェイスブックで「絶賛の嵐?」となった次第だが、さて、その後にぼくが目をつけたのは、あの大量の「スライド」だった。

 プリントしてある写真なら、手にとれば何の写真だかすぐに分かるが、スライド(ポジフィルム)となると、小さい上に、光を透かしてみないと何が写っているのやら分からない。昔は家にスライド映写機というのがあって、暗くした部屋で、家族が集まって「スライド上映会」をしたことがあるが、そうでもしないかぎり、ちゃんと見る機会はなかったわけで、だとすると、ここにあるスライドをもしスキャンしたら、それこそ、まったく見たこともない写真ばかりではないのか、という期待に胸が膨らんだわけである。

 そして、それがまさに現実になった。まだ、数枚しかスキャンしていないが、その1枚は、我が家の前から撮った1960年の第31回メーデーのデモ行進の写真、そしてもう1枚が、これもほぼ同時期、我が家の前で撮った、お三の宮のお祭りで大神輿を牛が引いている写真である。いずれも父が撮影したことは間違いない。これらの写真は、ぼくが初めて目にするものだった。懐かしさを通り越して、驚きである。そこに、「時代」というものが、「歴史」というものが、はっきりと形として定着していることへの驚きであり、またこんなにも鮮明にカラー映像が残っていることへに驚きである。

 ここまで来ると、新しく買ったスキャナーは、どうだといわんばかりで部屋の隅で威張っている。これからしばらく、少しずつ、昔の映像の発掘にいそしむことになるだろう。定年後の生活も、結構忙しい。


 


 

 

 

 



★蔵出しエッセイ★ 豆まきの風景

ここにも「昔の時間」があります。

 

 


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一日一書 516 ねそべって・尾崎放哉

2015-02-22 17:30:40 | 一日一書

 

尾崎放哉

 

ねそべって書いて居る手紙鶏に覗かれる

 

半切三分の一

 

 

このところ、友人で児童文学作家の松原秀行君が

フェイスブックで、放哉の句を紹介してくれます。

この句については

「なんだかすごい句だよね。もしかして鶏は、放哉の分身みたいなものだったのか。。。 」

とのコメントがついていました。

 

俳句は、短いだけに

いろいろと想像できて面白いですね。

鶏が、書いて居る手紙を覗きこんでいる、というイメージを想像すると

たしかに「なんだかすごい」。

鶏が放哉の「分身」なのかもしれないし

あるいは、静かに分かり合える友、なのかもしれない。

この前の「ほん気で鶏を叱って居る」(これが正しい表記でした)にも

似たようなことを感じます。

 

 

今回は、確かタヌキの毛の筆だと思います。

 

 

 

 


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