Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (211) 志賀直哉『暗夜行路』 98  「不安」の正体 「後篇第三  七」 その2

2022-02-21 14:26:04 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (211) 志賀直哉『暗夜行路』 98  「不安」の正体 「後篇第三  七」 その2

2022.2.21


 

 謙作が見た夢というのは、こんな夢だった。

 

 何でも  南洋から帰ったTを訪ねた所から始まる。雨中体操場のような雑な大きな建物の中に、丁度曲馬団の楽屋に見る猛獣を入れた檻のようなものが沢山あって、その一つに何十疋という栗鼠くらいの小さな狒々(ひひ)が、目白押しに泊り木にとまっているのが、甚(ひど)く彼には面白かった。
 急に不安な気持に襲われると、そわそわとしてTと別れ、上野の博物館の、あの大きい古風な門 、あすこへ彼は逃がれて来た。遠巻に何人かの刑事が取り捲いている事が姿は見えないが分っているのだ。で、彼自身は反逆人という事になっている。
 彼はそっと扉の陰から外を覗いていると日曜かなんぞのように兵隊が三々伍々、前を通り過ぎる。その一人に「君は脱営する気はないか」こう訊(き)いたらしい。直ぐ承知して二人は扉の陰で、急いで和服と軍服とを取りかえて着た。「これでいい」彼は思った。両方にいい事を考えたものだと思った。そしてその和服の兵隊と別かれ、彼は何食わぬ顔で、兵隊になり済まし、一人淋しい方へ歩いて行った。道幅の狭い両側が堤のようになった所へ来ると、駅長のような制服を着た男が前から来て、いきなり彼を捕えてしまった。忽ちに見破られたのである。見破られるのも道理、彼は自分で気がつくと、軍服の着方が全然いけなかった。襟のホックを一つもかけずに其所がだらしなく展(ひろ)がっている。それからズボンが、ずり下がり、誰れの眼にも借り着という事は直ぐ分かる。ひどい恰好をしているのである。彼は我れながら余りの不手際に苦笑し、同時に、捕えられた事に戦慄した。大体こんな夢だった。


 「暗夜行路」には、これ以前にも「夢」が出てきた。「夢」そのものもあるし、「夢から覚めたような」とか「夢のような」という比喩も多い。リアルな小説ではあるが、案外、「夢」が大事な役割を果たしているのかもしれない。

 この「夢」は、妙にリアルだ。いかにも夢らしく、「栗鼠くらいの小さな狒々が、目白押しに泊り木にとまっている」というなんとも珍妙なイメージもあるが、主要なテーマは「反逆」だろう。その「反逆」を隠そうとするのだが、たちまち見破られて捕まってしまう。それが謙作の「不安」の反映なのだろう。

 謙作は何に対して不安なのか。それは謙作自身にもよく分からない。その不安がはたして謙作だけのものなのか、それとも、謙作が生きる社会全体に広がっているものなのか。「檻」「捉えられた狒々」「刑事」「反逆人」「兵隊」「脱営」といったイメージは、やはり社会的な不安の反映にしか思えないが、それはまた謙作自身が抱える「落ち着かない気分」の反映でもあったわけだ。

 近くお栄と別れなければならないこと、そのお栄とまだ一緒に暮らしていること、そんな状況にいらだっていたのだろうか。朝起きたときの「落ち着かない気持ち」の原因がこの夢にあったのだと謙作は納得して、夢を思い出してよかった。そうでなければ、一日中いやな気分で過ごさねばならなかったと思うのだった

 「落ち着かない気持ち」の原因は夢であることは分かったにしても、その夢の原因が何であるかを謙作は追究しないところがおもしろい。

 謙作は、石本を訪ねた。


 石本は起きたばかりの所らしく、謙作は縁の籐椅子で石本の出て来るのを待っていた。少し秋めいた静かないい朝で、苔のついた日本風の庭に朝日が斜に差していた。軒に下げられた白い文鳥がちょっと濁ったような丸味のある声でしきりと啼き立てた。
「御機嫌よう」石本の六つばかりになる上の娘が長く畳んだ三、四枚の新聞を持って来て彼に手渡した。すると、その下の二つか三つの肥(ふと)った女の児が、一束の手紙を持ってよちよちと歩いて来て、「はい。はい」こういって同じようにそれを彼に手渡した。
「ありがとう」彼はその児の頭をなぜてやった。
上の児が駈けて行くと、下の児もよちよちと後から帰って行った。


 うまいものだ。朝のひとときの様子が、透明感をもって描かれている。

 「軒に下げられた白い文鳥」とあるが、もちろん軒に下げられているのは文鳥を飼う籠で、その中で文鳥が啼いているわけだ。

 漱石にも「文鳥」という小品があるが、昔はよく鳥を飼ったものだ。その趣味は、ぼくが幼いころまでずっと続いていて、ぼくの叔父などは、一時期、小鳥のブリーダーを仕事としていたことがあるくらいだ。主にジュウシマツや、セキセイインコだったが、そのほかの小鳥もたくさんいたように思う。

 小鳥の中でも文鳥は、格別に品がよくて、しかも「手乗り文鳥」としてかわいがられたものだ。その声を志賀直哉は「ちょっと濁ったような丸味のある声」と表現している。絶妙だ。小鳥の声をこんな風に表現できるひとは、そうはいないだろう。

 鳥といえば、ジュウシマツやセキセイインコなどのいわゆる「飼い鳥」だけではなくて、野鳥もずいぶん飼っている人が多かったが、メジロなどは、餌が「すり餌」で、なかなか大変だということもよく耳にした。叔父も飼っていたような気がするが、よく覚えていない。

 ヒバリを飼っている人も、近くにいた。このヒバリの籠というのは、ちょっと特殊で、ずいぶん背の高い籠だった。ヒバリは、まっすぐ空へ向かって上昇しながらさえずるので、そんな籠を使ったのだろうか。それとも、そんなのは、ぼくの記憶違いなのだろうか。

 もちろん、現在は、すべての野鳥の飼育は法律で禁じられている。

 今では、野鳥はもちろんのこと、鳥を飼っている人は少なくなった。その代わりに犬を飼う人が激増した。しかも家犬だ。ぼくが幼い頃には、犬を家に入れて飼っている人なんてまずいなかった。みんな家の外で飼っていて、番犬としていた。

 さて、元にもどって。子どもの描写も相変わらずうまい。上の児と同じように行動する下の児。よく観察している。


 彼は新聞を膝の上に置き、手を延べて、そのまだ開封してない石本への手紙を前のテーブルヘのせた。一番上になっている子爵石本道隆様としてある厚味のあるのが、S氏からのらしく、何となく彼にはそんな気がした。


 S氏からの手紙には、謙作の運命に関わることが書かれているはずだ。謙作の出生の事情まで先方に話したことを、先方はどう受け取るだろうか。それこそが謙作がずっと抱えてきた「不安」の正体だったのだと、ここで改めて気づかされるのだ。

 

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1713 寂然法門百首 61

2022-02-11 11:02:29 | 一日一書

 

繋縁法界一念法界


 
人知れず心ひとつをかけくればむなしき空に満つ思ひかな

 

半紙

 

字体:草書

 
【題出典】『摩訶止観』一・上


 
【題意】 縁を法界に繋げ、念を法界に一(ひとし)うす

全世界に心を繋ぎ、全世界と心を同じくする。


 
【歌の通釈】
人知れず心1つをあなたにかけてきたので、大空にその思いが満ちるよ。(人知れず一念を全世界にかけてきたので、三千世間にその思いが満ちるよ。)

【参考】

わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集・恋一・四八八・よみ人しらず)

【考】

右の古今歌の本歌取り。恋の思いが大空に広がり満ち溢れることと、極小の恋が極大の三千世間に満ちるという一念三千の心を重ね合わせた。恋は罪業であるどころか、大空に満ち溢れるような一念の激しい恋の思いは、一念三千という天台の根本思想に通じるという大胆な発想。恋の想いの中に全世界と我が心が一体化する感覚をとらえようとした。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


---------

▼信仰と恋愛は、キリスト教でも、いつも深い関係にあるものとして捉えられてきたように思います。恋愛歌としての「雅歌」は、旧約聖書の中で、愛されてきました。仏教でも同様なことが見られるのは、とても興味深いことです。
▼古今和歌集には、「大空」ということばがよく出てきて、どこか「近代的」な印象を与えます。
▼有名なところでは、
「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとにながめらるらむ」酒井人真 (さかゐのひとざね)
「大空を照りゆく月し清ければ雲隠せども光消なくに」尼敬信
などがあります。
新古今和歌集では、「大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月」(藤原定家)などが有名です。
               

 

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木洩れ日抄 86 うるさいオバサン、あるいはクイナのこと

2022-02-08 10:44:14 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 86 うるさいオバサン、あるいはクイナのこと

2022.2.8


 

 どうも、なんでもかんでも「子」をつける人が苦手だ。ペットなら致し方ない。今時、ペットの犬を連れて歩いているオバサン(オジサンとかジイサンでもかまわないけど)に向かって、「その犬、オスですか?」なんて聞こうものなら、下手をすれば、ひっぱたかれかねない。どうしても聞きたい場合は(まあ、そんな場合は、ぜったいないけど)、「そのワンちゃん、男の子ですか?」とか言わねばならないのだろう。そんな口のききかたはしたくないので、なおさら聞く気にはなれない。

 鳥の写真は、もうとっくにやめたつもりでいたのに、またぞろ撮りたくなってしまって、それでも、100万円を超すような超望遠レズンに三脚なんてイデタチは、金もなければ体力もないのでとっくに諦めていて、なるべく軽いカメラになるべく軽い望遠レンズをつけて、手持ちという安直なイデタチで撮ることにしているのだが、いつも行く舞岡公園には、必ず、数名から十数名の「鳥やさん」(この言葉、普及してないけど、どこかで聞いた覚えがある)がいて、ずらりと「大砲」(超望遠レンズのこと)を並べている。それを見るたびに、我が機材の貧弱さに地団駄踏んできたものだが、まあ、最近では達観してきた。そんなところで競争して何になるんだ? って思えるようになったからだ。ずいぶん成長したものである。

 「大砲」かまえたオジサンとかオジイサン(といっても明確な区別はないだろうが)は、ちっとも尊大なところはなくて、むしろ親切だ。何がいるんですか? って聞いても、「うっせえ、自分で調べろ。」とか、「誰がいるんですか? って聞け!」なんことはぜったいに言わないし、「あ、ヤマシギが今日は出てましてね。」とか、「モズですよ。」とか、ちゃんと教えてくれる。中には、ほら見てみてください、と、自分のカメラのモニターを見せてくれる人までいる。(もっとも、それは、かなり自慢めいているわけだが。)

 ぼくが実に苦手なのは、オバサンないしはオバアサン(これも明確な区別は分からないし、昨今はマスクしているので、よけい分からないわけだが)だ。とにかく、しゃべる。しゃべりまくる。それがウルサイ。

 今日も、舞岡公園へ出かけたのだが、いつも「ヤマシギ」目当てで人だかりがしている所へ行く前に、そっちから帰ってくるオジイサンに、「何か収穫ありましたか?」と聞いたら、ニコニコして、「そうですね、クイナがいましたよ。」という。「どこですか?」と聞くと「ほら、いつも皆さんが集まっているあたりです。」といいながら、カメラのモニターを見せてくれた。カメラはニコンで、一眼レフでも、ミラーレスでもないが、ズーム比率のやたら大きいカメラである。ぼくのカメラよりはずっと安いので、なんだか嬉しい。(なんだ、達観してねえじゃないか。ズーム比では負けてるのに、値段で勝ったなんて。)

 クイナというのは珍しい。この舞岡公園ではクイナの噂すら聞いたことがない。もちろん、ぼくはまだ一度もカメラにおさめたことがない。

 しかも、クイナといえば、かの伊東静雄の「秧鶏(くいな)は飛ばずに全路を歩いて来る」という大好きな詩があって、好きが高じて、とある会議でこの詩を絶讃したら、エライ大学教授に「この詩のどこがいいの?!」って強い調子で詰問され、返事にこまったぼくは、「だって、カッコいいじゃないですか!」などと幼稚きわまりないことを口走り、何の説得力もなかったから、その場が妙にしらけてしまったことがある。しかし、この詩が好きなことには変わりはなくて、この全文を書にして展覧会に出品したこともあるのだ。それなのに、このクイナ、写真を撮るどころか、実物をまだ見たこともなかったのだ。なんという幸運!

 興奮したぼくは、期待に胸をふくらませて、彼の地へ急いだ。

 「いつもの人たち」は、今日はまばらで、いつもの場所で、いつもとは違って退屈している。ヤマシギは、今日はぜんぜん出てこないらしい。ちなみに、このヤマシギというのは、夜間に行動することが多く、昼間に姿を現してもほとんど動かないので見つけにくいのだが、ここ舞岡公園では、昼間でもヤマシギがほぼ同じ場所に出てくることで、「鳥やさん」の中では有名らしく、遠く埼玉あたりからわざわざやってくる人もいるらしい。別にきれいな鳥じゃないけど、これを撮ると、仲間に自慢できるのだろう。まあ、何に限らず、趣味というのは、「自慢」するためにやってるようなもんである。本当は、そうじゃない趣味がいちばん高尚なんだろうけど。

 さて、ヤマシギはいないらしいのに、それでも、熱心に望遠レンズを向けている人たちが何人かいる。何だろうと思って、一人のオジサンに「何がいるんですか?」と聞くと、「ああ、クイナですよ。今は隠れちゃってますけど、そのうち、また出てきますよ、きっと。」なんて気さくに答えてくれる。そうか、やっぱりここか、ここで粘ればいんだ、とワクワクしながら、カメラをかまえていると、オバサン(あるいはオバアサン。しつこいので、オバサンにしておきます。)が、連れのジイサン(これはあきらかにジイサン)に、「今日はダメねえ。ジョビ子ちゃんは?」って聞く。

 「ああ、ジョビ子はあっち。ここにはいねえよ。」「そう、メジ子もいないし。」「ガビ子はいたよ。」「ガビ子なんて言っちゃあだめよお〜。あんなのはガビでいいのよ〜。」「あ、そうかあ。」「あのさ、この前、スーパーで、冷凍食品のチャーハン買って食べたんだけどさ、おいしかったわよ。わたし、冷凍食品なんて今まで食べたことなかったんだけど、中華街のチャーハンよりおいしかった。帰ったら奥さんに教えてあげなさいよ。」

 あれ、夫婦じゃないのか。「鳥やさん」仲間なのか、と思いつつ、その「ジョビ子」とか「メジ子」とか「ガビ子」なんて言い方やめろ! と思わず叫びたくなった。しかも「ガビ子なんて言うな」というのは、ガビチョウが中国から持ち込まれた鳥だからで、そんな「外鳥」には「子」なんて付けるななんて、イジメじゃないか。ガビチョウだって遠く故郷を離れて一生懸命生きているんだ。なんて、心の中がざわついた。

 このオバサンが、いったいいつから「鳥やさん」になったのかはおおよそ見当はつく。昔からの野鳥愛好者ではないはずだ。いつだったか、ヨドバシの店頭で、店のオニイサンに、「あたしさあ、これ買ったんだけど、何を撮ろうかなあ。鳥でも撮ろうかなあ。」なんて言ってるオバサンがいた。そのオバサンが指した「これ」というのが、400ミリほどの超望遠レンズなのだ。目的になしに、100万近くの大枚をぽんとはたくのか、このオバサンは、と喫驚したものだ。

 きっとその手合いである。しかし、話を聞いていると、鳥の雑誌かなんかを買って勉強しているらしい。それはそれで殊勝な心がけで、歳をとってから新しいことに挑戦するのはとてもよいことだ。おおいに褒めてやってもいい。

 しかしだ。ジョウビタキのことを「ジョビ子」と呼ぶその姿勢に、なんともいえない「嫌み」を感じるのだ。私はもう、鳥のことならなんでも知ってるの、写真だっていっぱい撮ったわよ、鳥はもう私にとって家族の一員なの、みたいなその心のうちが、なにやら下卑ている。自然にたいする畏敬の念、謙虚さといったものが感じられない。

 それでも、とにかく鳥を撮ることに熱中して、友達とも熱心に情報交換をするならいい。それが、いきなり冷凍食品情報だ。そんなことはバスの中でやれ。(それも大声だと迷惑だけど。)オレは、鳥に、クイナに、今、集中しているんだ! ウルサイ! あっちへ行け!

 とそのとき、カメラを向けた方向の、水際の草むらから、鳥が現れた。お! っと思ってよく見ると、「ヒヨ子」じゃない、ヒヨドリだ。なんだ、それじゃしょうがない。(この心の動きも、自然への敬意が欠けている。ヒヨドリじゃしょうがないなんて思っちゃいけないのである。反省である。)がっかりして、しばらく待っていたが、時間もたったことだし、もういいかと、諦めて立ち去ろうとしたその瞬間、そのオバサンが小さく叫んだ。「あ、クイナだ。出てきたよ!」

 ほんとか? って思いつつ、ファインダーを覗くと、あきらかにヒヨドリじゃない、何か別の鳥が、動いている。あれがクイナなのか? しかし、実際に見たことがないので、本当にクイナかどうかの確証がない。なにしろ、鳥は遠くて、しかも日陰にいて、ちっともはかばかしく動かないから、シギみたいにも見える。

 伊東静雄の「秧鶏は飛ばずに全路を歩いてくる」では、力強くスタスタ歩くイメージなので、このほとんど動かずに、水の中の餌をあさっているのがクイナとは思えなくなってきた。それでも、シャッターを切り続けた。後で拡大して確かめればいいからだ。でも、その時、タシギだったりしたら、がっかりするだろうなあ、このオバサンじゃ信用できないしなあ、と思って、そのオバサンがそこを離れたすきに、熱心に超望遠レンズで撮ってるオジサンに「あれは、何ですか?」と聞いてみた。すると、「クイナです。あっち側にもいますから、行ってみるといいですよ。光も順光ですし。」と丁寧に教えてくれた。「あっち側」にも行ってみたが、もう、クイナは隠れてしまって見えなかった。「この前は、何羽もいたんだけどなあ。」という声がどこからか聞こえた。そうか、それなら、これからときどきここに来れば、もっといい写真が撮れるんだ、とぼくはほくそえんだ。

 それにしても、「あ、クイナだ。」というオバサンの言葉がなかったら、この先ずっとクイナに出会えなかったかもしれない。こうなっては、うるさいオバサンには感謝するしかない。このオバサンは、ひょっとしたら、昔からの野鳥マニアのオバサンなのかもしれない。少なくとも、ぼくよりはずっと知識が豊富である、なんて、このオバサンに対する評価がだんだんぼくの中で高まってきた。まあ、半端な知識しなかいぼくと比べたってしょうもないのだが。

 それにクイナのことを「クイ子」って言わなかったし。

 


 

 

やっと撮れたクイナ

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学の森へ (210) 志賀直哉『暗夜行路』 97  「汽車」と「電車」 「後篇第三  七」 その1

2022-02-06 12:09:21 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (210) 志賀直哉『暗夜行路』 97  「汽車」と「電車」 「後篇第三  七」 その1

2022.2.6


 

 お才は、翌朝、故郷の岐阜へ用があるらしく出かけていった。

 その日の午後、謙作は、鎌倉に住んでいる兄の信行を訪ねた。そこには、石本がいて、信行は風邪をひいていた。信行は熱があるらしく、目がとろんとしているので、謙作は心配になって、「本郷」へ連絡してみたらと聞いてみたが、二三日こうしていれば治るというので、「吸入器」だけ買ってきて、大家のおかみさんに後を頼み、石本と東京へ向かう汽車に乗った。

 

 汽車の中では、謙作は一人ぼんやりと薄暮の景色を眺めていたが、気が沈んで仕方がなかった。やはりお栄と別れる事が淋しかったのだ。 自身のためにも淋しかったが、お栄のためにも淋しい気がした。窓外の薄暮が彼を一層そういう気持に誘っていた。

 

「後篇第三  六」は、これで終わり、「七」へと進む。

 

 謙作は近く別れねばならぬお栄と一緒にいながら、今までにない一種の気づまりを感じた。こうしている事もそう長くないと思うと、彼はなるべく外出もひかえるようにしているのだが、それが不思議に気づまりで、かつ退屈でかなわなかった。第一、一緒にいて、話の種が急になくなったような気がした。お栄の方は、しかし忙しかった。その忙しさからそういう気持には遠いらしく見えた。
 お栄は女らしい心持で、謙作の着物は一つでも汚れたものを残したくなかった。それらを洗張りにやり、縫直し、それに余念なかった。

 


 謙作とお栄との関係は、「恋人」でもなければ「親子」でもない。実に不思議な関係だ。鎌倉から東京へ向かう汽車の中で謙作が感じた「淋しさ」は、親しい人との別れの淋しさには違いないが、かといって、その人とずっと一緒に暮らしたいという気持ちでもない。

 現に、こうして残りわずかな同居生活は、なんともいえない「きづまり」を感じさせる。急に話の種がなくなり、気づまりのうえに、退屈でもある。まあ、そういうことってあるんだろうなあとは思う。「恋愛」とは明らかに違う、「親愛の情」、それも、「肉親」に限りなく近い情愛。そんなものなのだろうか。

 


 ある朝、謙作はいつになく早く眼を覚ました。彼は理(わけ)もなく変に落ちつかない気持になって、朝の食事もせずにそのまま自家(うち)を出た。停車場へ来たが汽車までは時間があるので、京浜電車の方へいって乗った。そして品川まで行くその間に彼はふと、明け方夢を見ていたという事を憶い出した。そしてその夢が彼の落ちつかない気持の原因だった事は分ったが、それを思い出そうとすると、不安な気持だけが、はっきりしていて、どういう夢だったか、その事実の方はかえってぼんやりしていた。

 


 ここに出てくる「京浜電車」というのは、今の京浜急行のことだ。1898年に設立された「大師電気鉄道株式会社」は、1899(明治32)年に、川崎駅(後の六郷橋駅)から大師駅(現在の川崎大師駅)の営業を開始し、社名を「京浜電気鉄道株式会社」に変えた。これが現在の京急の始まりである。その後、1901(明治34)年には、「大森停車場前駅(現在の大森駅)」から、現在の「大森海岸駅」を経て、川崎駅までが開業している。「品川駅(現在の北品川駅)」が開業したのは1904(明治37)年。志賀がこの小説を書いていたころ(大正10年から断続的に、昭和12年まで。「後編」の前のほうは、大正11年ごろ)は、「京浜電車」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉へは「汽車」で行っていたが、こっちは「電車」なのだ。

 ここでふと思うのだが、志賀直哉の小説には、「鉄道」がよく登場する。この「暗夜行路」にしても、尾道までの汽車とか、鎌倉までの汽車や、京浜電車などが頻繁に出てくるわけだが、有名な「城の崎にて」は、「電車にはねられた」話である。その冒頭からして、「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。」である。初期の名作「網走まで」も、宇都宮へ行こうとして乗った、青森行きの「汽車」の中の出来事だ。また、「出来事」は、東京の路面電車に子どもが跳ねられた話。「正義派」の冒頭も、「或る夕方、日本橋の方から永代を渡って来た電車が橋を渡ると直ぐの処で、湯の帰りらしい二十一二の母親に連れられた五つばかりの女の児を轢き殺した。」だ。また「真鶴」では、弟を連れて夜の道をえんえんと歩いていく子どもの脇を「列車」が走っていくさまが印象的に描かれている。ちょっと引用しよう。

 

 夜が迫つて来た。沖には漁火が点々と見え始めた。高く掛つて居た半かけの白つぽい月が何時か光を増して来た。が、真鶴までは未だ一里あつた。丁度熱海行きの小さい軌道列車が大粒な火の粉を散らしながら、息せき彼等を追い抜いて行つた。二台連結した客車の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照して行つた。


 この「軌道列車」が散らす「大粒な火の粉」の印象は、初めてよんだ若い頃から今に至るまで、鮮烈さを失わない。

 「文学と鉄道」ということで言えば、ドストエフスキーの「白痴」の冒頭は列車の中。トルストイの「アンナ・カレーニナ」では、アンナは鉄道自殺をする。プルーストは眠れぬ夜に、遠くの汽笛を聞いている。岩野泡鳴の樺太への旅も鉄道がふんだんに出てくるし(しかも北海道の鉄道だ!)、萩原朔太郎は、汽車にのって、フランスを夢見、絶望の魂を抱えて汽車で故郷に帰る。啄木は、故郷の言葉を聴きに上野駅に行く。池澤夏樹の芥川賞受賞作「スティル・ライフ」には、京急が出てくる。

 「まあ、きりのないことだが、「鉄道と文学」なんて、アンソロジーがどこかにきっとあるんだろうな。

 

 

 

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする