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「失われた時を求めて」を読む 5 冬の部屋と夏の部屋、あるいは文学の効用 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その5

2023-08-29 11:37:57 | 「失われた時を求めて」を読む

「失われた時を求めて」を読む 5 冬の部屋と夏の部屋、あるいは文学の効用 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その5

2023.8.29


 

冬の部屋では、ベッドに横になると、雑多なもので編んだ巣のなかに顔を埋(うず)める。枕の隅とか、毛布の襟(えり)とか、ショールの端とか、ベッドの縁とか、「デバ・ローズ」紙(訳注:朝刊紙「ジュルナル・デ・デバ」の夕刊、一八九三年発行開始。ローズ色の紙に印刷されていた。)の一日分とか、それらを全部いっしよくたにして、あくまで小鳥の巣づくりの技法にならって固めてしまうのだ。凍てつく寒さのときに味わう楽しみは、外界とすっかり遮断されていると感じるところにある(海鳥のアジサシが地面の奥の、地熱で温められたところに巣をつくるのと同じだ)。また、ひと晩じゅう煖炉の火が消えないようにしてあるので、暖かく煙る大きな空気のマントに包まれて眠るのに等しい。それは、ふたたび燃えあがる熾火(おきび)の薄明かりが浸みこんだマントであり、目には見えないベッド用の壁の窪み(アルコーヴ)であり、部屋のなかに穿たれた暖かい洞穴である。この熱気のこもる地帯では、暖かい外縁が揺れうごき、そこに流れこむ冷気は、窓に近かったり暖炉から離れていたりして冷えきった部屋の四隅からやってきて顔を冷やすのである。


 この一ヶ月あまりの異常な暑さに悩まされつづけている身には、郷愁さえ感じさせるほどの「冬の部屋」である。あるいは、「冬の部屋の空気」である。
冬になると、夏が恋しくなり、夏になると冬が恋しくなるということを、えんえんと繰り返してきた70数年だったが、さすがに、この夏の暑さには、心底嫌気がさしている。この先、この「南国」で暮らしていけるのだろうかと不安になる。

 寒さが好きだということではない。寒さにはめっぽう弱い。けれども、プルーストがいう「凍てつく寒さのときに味わう楽しみ」というのは確かにある。

 この場合、「ぬくぬく」というオノマトペがぴったりくる。「ぬくぬく」は、怠惰な生活態度を外側から非難する意味合いの強い言葉だが、そこに居直ってしまえば、これ以上の境地はない。

 100個もあるかと思われるぬいぐるみを、リビングの床にぶちまけて、その中で転がり廻り、「ぬいぐるみまみれ」になって喜色満面の孫を見るにつけても、それが、プルーストのいう「鳥の巣」であることが納得される。そういえば、その孫の伯父も幼いころ、ドーナツ盤のレコードを何十枚と風呂に浮かべて、「レコードまみれ」になって恍惚としていた。

 子どもは、いつも、そうした、自分の好きなものに身を埋め、そのなかで「ぬくぬく」と生きることを至上の喜びとするものだ。

 ここではプルーストは、もちろん、幼い頃の追憶を描いているわけだが、それでも、大人になっても、この「冬の部屋」の快楽を忘れてはいない。子どもの頃と同じようにその快楽を味わうことはできなかったかもしれないが、思い出は、その快楽をよみがえらせてくれただろう。

 ぼくの寝室に、「暖かい煖炉」はもちろんないが、それでも、軽くて暖かい羽毛布団はある。なんなら、昔は使ったこともなかった足温器を入れてもいい。そして、頭の中には、プルーストのこの「冬の部屋」を思い描いて、しずかに眠りたいものだ。


夏の部屋では、なま暖かい夜と一体になれるのが嬉しい。なかば開いた鎧戸に月の光が身をもたせかけ、ベッドの足元にまで投げかけてくれる魔法のハシゴの光線の先端にとまっていると、そよ風に揺れるシジュウカラよろしく戸外で寝ている趣である。


 「冬の部屋」を描いたあと、プルーストは「夏の部屋」も描くのだが、こちらは、熱帯日本に住む日本人には共感できないだろう。「なま暖かい夜」なんぞ、今の日本にはない。ただただ暑く、息もできないほどの湿度ある熱気で満たされた部屋は、エアコンの助けなしでは、1分もいられたものではない。

 けれども、古代の日本では──たとえば平安時代──こんな「夏の夜」は確かにあったはずだ。枕草子のあの有名な「夏は夜。蛍の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。」の一節。ここに流れる空気は、今のような息も詰まるような熱気ではない。プルーストの描く、フランスの空気とはまた違うが、どこか透明な水気を含んだ風がながれている。こんな夜が日本にもあったのだ。
「ベッドの足元にまで投げかけてくれる魔法のハシゴの光線」という表現はまた、李白の「静夜思」を思わせる。


牀前 月光を看る
疑うらくは是 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低れて 故鄕を思う


 この詩の季節は、夏ではなくて秋のようだが、寝台(牀)の前の床にくっきりと映る月の光は、あくまで透明な空気を感じさせて爽やかだ。

 プルーストも、清少納言も、李白も、みなその時代の(あるいは、その時代の「地球」の)空気を、言葉で定着してくれた。そのことのありがたみをもう一度確認しておかなければなるまい。ぼくらは、もう二度とそういう「空気」を吸い、味わうことはできないかもしれないけれど、彼らの「言葉」によって、心の中に、頭の中に、よみがえらせることができる。それが、文学の持つ「効用」の一つかもしれない。

 

 


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木洩れ日抄 106 締めくくり

2023-08-28 13:09:23 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 106 締めくくり

2023.8.28


 

 平野謙は、「わが戦後文学史」の「はしがき」をこんな風に書いている。これを平野が書いたのは、昭和41年(1966年)のことだ。ちなみに、平野謙は、昭和53年(1978年)に亡くなっている。70歳だった。 


 戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。ほとんど戦慄的な事実だ。まだ一カ月にならぬから、つい先だってといってもいいわけだが、私は五十八回の誕生日を迎えた。もう二年たつと、私は還暦を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。二十年前のいまごろ、私は故郷にあって島崎藤村論の原稿を書きついでいたか、書き終えていたはずだが、《近代文学》創刊号のために執筆していた自分のすがたを思うと、つい昨日のような気がする。しかし、あれから確実に二十年の歳月がすぎさったのである。そして、私自身も確実に変ってしまった。思いもよらぬ変りかたともいえるが、また、かくなり果つるは理の当然ともいえる。その歳月の意味をもう一度私なりに追体験することは、わが貧しい生涯の締めくくりとして、まんざら無意味でもあるまい。これからあとどれだけ生きられるか、とにかく死がそんなに遠くない地点までやってきている今日ともなれば、そんなことでもするより、私一個としてはもはや締めくくりようもないのである。
 わが貧しい生涯と書いたが、単なる修辞として、私は書いたのではない。ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである。昨今、しきりに思うことだが、小人珠をいだいて罪ありというような言葉にひっかけていえば、小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする。これだけでは他人に通じにくかろうが、私のうぬぼれもこめて、そんな気がする。無念である。そこで、せめて我流戦後文学史でも書きのこしておこうか、ということにならざるを得ない。では、どんなふうに書くか。小説でいえば私小説ふうに書く。それよりない。つまり、この私が主人公となるわけである。自己中心の戦後文学史。江見水蔭にもそんな文学史があったはずだが、私もあのテでゆくしかない。ただし、私自身を主人公にするといっても、この貧弱な私をことごとく正面に押したてるという意味ではない。私の興味のある、私の関心をひく戦後文学の現象を、もう一度追体験してゆく、というほどの意味である。すべての文学現象にまんべんなくつきあって、客観的に精確な戦後文学史を書きあげるのではない、というくらいの意味である。それ以外に、目下のところ具体的なプログラムはない。


 この文章をつい最近、つまり、73歳も残りわずかとなった最近読んで、「戦慄した」わけではないが、いたく共感した。といっても、戦後を代表する文芸評論家の述懐にぼくのごとき者が「共感した」というのもおこがましいが、共感したんだからしょうがない。

 平野は、「戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」というが、ぼくの場合は、「生誕73年の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」としかいいようがない。そして、「もう4年経つと、喜寿を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。」といったアンバイである。

 平野の場合は、これはもうれっきとした文芸評論家であり、名をなした人であるから、いくら「貧しい生涯」だと言っても、彼がそう思っているというだけのことで、ハタではそうは見ないから、ヘタをすれば、嫌みになってしまうところだが、案外素直に読めてしまうというのも、ことの「大小」はともかくとして、人間が自分の生涯を振り返ってみて、「貧しい生涯だった」と思わないほうがよほど変わっているからであって、それゆえ、平野の思いには普遍性があるのである。

 それでも、平野の場合は、「自己中心の文学史」なんぞを書けるだけ、「貧しさ」も「ちゅうくらい」なのであって、それと比較するのもおろかなことだが、ぼくの場合は、何にも書くことがない。「自己中心の○○」の○○にあたるものが何にもない。あるとすれば「自己中心のぼく」だけであって、それじゃ意味がない。ぜんぜん意味がないわけじゃないけれど、限りなく意味がない。

 しかし、お前のこれまで書いてきた「エッセイ」とかいうヤツは、まさに、「自己中心のぼく」でしかなかったじゃないかと突っ込まれれば、ハイと答えてしょんぼりするしかないわけである。

 だから、ここだけは平野と同列に、「ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである」し、「小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする」わけである。「小人珠をいだいて罪あり」というのは、「身分不相応なものを持ったために災いを招いてしまうというたとえ。」ということであって、したがって、「小人珠をいだいて罪なし」というのは、「せっかく身分不相応なものを持っていたのに、災いも招くまでもなく無駄に過ごしてしまった」というほどの意味になるだろうか。

 昨今の、さまざまな実業家や政治家の「不祥事」を見るにつけても、「小人珠をいだいて罪あり」の感を免れないが、それでも、せっかくの才能を「有意義に」使ったからこその「不祥事」であるわけで、まあ、「罪なし」で、出世したり、金持ちになるヤツなんてそうそういないだろうから、それはそれとして、「貧しい己」を顧みるにつけても、自分が「小人」であることは間違いないとしても、果たして抱いていたのは「珠」と呼ぶにふさわしいものであったかは、はなはだ疑わしい。平野流に「うぬぼれをこめた」としても、「何か珠らしきものはもっていたはずだ」と思うのが精一杯で、その精一杯をもってしても、「罪なし」であることは疑えない。平野にならって言えば「無念である」。

 平野謙は、「わが戦後文学史」を書いて、人生の「締めくくり」としたわけだが、さて、ぼくの場合、何をもって「締めくくり」とすればいいのだろうか。見当もつかない。見当もつかないということは、結局「締めくくる」ほどの人生でもないということだろう。あるいは、「締めくくる」ことができないほど、バラバラでとりとめもない人生であったということだろう。まあ、人生、終わったわけじゃないから、いそいで「締めくくる」ことなどないのだが。

 

 


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木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023-08-19 20:52:08 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023.8.19


 

 書道の師匠、越智麗川先生とその仲間の先生のグループ展が今日から開幕。

 ぼくは、作品集を毎回作っているので、作品の撮影をしていた。書作品の撮影というのは、案外難しく、露出の設定やらなにやらが野外で撮るときとは全然違う。会場は野外よりは暗いし、照明も、ムラがある。おまけに、蛍光灯やLEDライトによるフリッカー(撮影ムラ)が生じやすいのでその対策も必要。さらに、なるべく、四角い作品を四角のまま撮りたい。といっても、それはたとえ三脚を据えて撮ったとしても(ぼくは、三脚は使わない)、撮ったままで、ゆがまず四角い写真はまず撮れない。で、どうするかというと、現像ソフト(ぼくの場合は、lightroom)での補正機能を使う。これは超便利で、ほぼボタン一つで、平行四辺形やら台形やらに写った写真が、四角くなる。魔法のようだ。

 撮影にあたっては、どのカメラにするかは、ちょっと迷う。なるべく高画質で撮るということなら、フルサイズのZ6がいいわけだが、小型の作品集なので、DX(APS-C)でも十分な画質が得られる。今回は、ちょっと迷ったが、Nikon Zfcにした。会場でこのカメラで撮るのは、ちょっとオシャレだと思ったからだ。

 撮り始めて間もなく、一人の紳士が「カメラは何をお使いですか?」と声を掛けてきた。「あ、これです。Zfcです。」と答えると、「ああ、Nikonですか。Nikonは最近、大型の一眼レフは撤退したんじゃなかったですか?」と言うので、「いいえ、まだ一眼レフは作っていますよ。」「あ、製産は、日本ではやめた、ということでしたね。」などと、思いがけず話がつながる。これは、相当「デキる人」だと思って、話し続けたら、話題が尽きず、カメラ、レンズ、写真雑誌、写真の思想など、かれこれ1時間ほど話し込んでしまった。横須賀に住んでおられるとのことで、田浦時代の栄光学園のこと(というか長浦湾のこと。彼は、ずっと長浦湾をとり続けているとのこと。)、はては大学紛争のことにまで話が及び、興味が尽ず、楽しい時間だった。なんでも、年齢は、ぼくより2歳年上とのことだった。

 この偶然の出会いのきっかけは、Zfcという、デジカメにしては珍しいレトロな外観を持ったカメラだった。これが当たり前のカメラだったら、きっと声を掛けられなかっただろう。Zfcを持って行ったのは正解だった。

 ほとんどカメラや写真の話で終わってしまい、その人が何を専門としている人なのか分からずじまいで、きっと写真家で、書にも興味があって来られたのだろうぐらいに思っていたが、別れたあと、あの方はいったいどういう方ですかと、師匠に聞いたところ、(師匠も、その仲間も、ぼくが親しく話しているので、その人と知り合いなのか? って不思議に思っていたらしい。)、なんと、偉い書の先生だということだった。ああ、知らなくてよかった。知っていたら、緊張してしまって、あんなに親しくお話しなんかできなかっただろう。でも、なんか、ため口まではいかないけど、ずいぶんと失礼な話ぶりだったかもしれないなあと反省である。

 写真についても「デキる人」だったが、書道に関しては「デキる人」どころじゃなかったわけである。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 247 志賀直哉『暗夜行路』 134 BGMとしての「魔王」 「後篇第三  十九」 その2

2023-08-17 10:46:59 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 247 志賀直哉『暗夜行路』 134 BGMとしての「魔王」 「後篇第三  十九」 その2

2023.8.17


 

 国から出て来た直子の母が台所口の柳を鬼門の柳だといって、切(しき)りに植替えたがった。謙作は母と一緒にそういう御幣を担ぎたくなかったが、たびたびいわれ、それを植替えさした。
 彼がそれより何となく気になっていたのは、赤児の誕生の日の夜、前からの約束で末松らと三条の青年会館に演奏会を聴きに行った、其所で彼はシューバートのエールケー二ヒを聴いた、その事だった。彼は前から曲目をもっとよく見ていたら、この演奏会ヘ行かなかったろう。この嵐の夜に子供を死神にとられる曲は今の場合、聴きたくなかった。しかし彼は何気なく行って、誕生の日に聴くには如何にも縁起の悪い曲を聴くものだと思った。彼はちょっと厭な気持になった。

 

 赤ん坊の丹毒は、蜂窩織炎を起こすに至り、事態はいよいよ切迫してきた。

 こういうとき、やっぱり、色々迷信めいたことが気になるもので、直子の母の「鬼門の柳」もその一端だろうが、一説によると、鬼門に柳を植えるのは、むしろ鬼門除けとしてということもあり、地方によって異なるのかもしれない。

 問題は、謙作の聴いた「シューバートのエールケー二ヒ」つまり「シューベルトの魔王」である。このあたりの数ページが、高校時代の現代国語の教科書に載っていたのだ。たぶん、角川書店の教科書だったように思う。それを読んで、どう思ったのか記憶にないが、ただ、「シューベルトの魔王」のイメージだけが強烈に残った。そのとき、その曲を聴いたという覚えもないし、「暗夜行路」を読破した覚えもないが、しかし、「志賀直哉の書いた『暗夜行路』には、『シューベルトの魔王』が出てくる。」という「知識」だけは、数十年経っても失われていなかった。

 知識偏重の教育というのが批判されて久しいけれど、そして、もちろん「偏重」はいけないに決まっているけれど、「教育」あるいは「学校教育」でなければなしえないことに、「知識を与える」があることも間違いない。高校の授業がなければ、ぼくは、生涯、志賀直哉も、「暗夜行路」も、シューベルトも、「魔王」も、なにもかも知らないままであったかもしれない。

 そういうものを「教養」というつもりはないが、「教養」の大半を占めるのは、やはり「知識」だろうと思う。

 教科書での「暗夜行路」のきわめて「不十分」な読書が、今の、「暗夜行路」の精読のきっかけになっていることも、また確かなことだ。

 さて、その「魔王」を聴いた場面はこうだ。


 若いコントラルトの唄で、その晩の呼び物だったが、謙作には最初から知らず知らずの悪意、反感が働いていた。彼にはその曲を少しも面白いとは感ぜられなかった。総て表現が露骨過ぎ、如何にも安っぽい感じで来た。それはただ、芝居がかりに刺激して来るだけで、これだけの感じなら、文学のままで沢山だと思った。シューバートのこの音楽は文学を文学のまま、より露骨に、より刺激的に強調しただけで、それは音楽の与えられた本統の使命には達していない曲だと彼は考えた。
 ゲーテの詩までが彼には気に入らなかった。それは本統に死を扱った深味のある作ではなく、芸術上の一つの思いつきだという気がした。比較的若い時の作に違いないと思った。この点メーテルリンクの「タンタジイルの死」の方が彼には好意が持てた。
 寺町を帰って来る時、水谷が充奮しながら、
 「エールケーニヒは素敵でしたね」といった。
 「あれはやはりいいね」末松が答えた。末松は自身では何もやらなかったが、好きで、音楽の事は精しかった。末松は黙っている謙作の方を向いて、
 「あの曲はシューバートの中でも最もいいものだと思うよ」といった。
 謙作は返事をしなかった。彼は音楽の事では余り明瞭(はっきり)した事をいいたくなかった。いうだけの自信がなかった。そして、彼は二重廻しのポケットの中で丸めていたプログラムを何気なく道へ落した。厄落し、そんな気持で……。
 彼はこんな事を気にしたくなかった。気にしても仕方なく、気にするほどの事ではないと思った。勿論それは直子にも話さなかった。そして自分でも忘れていたが、今、赤児にこんな病気になられると、誕生日にエールケーニヒを聴いた事が讖(しん)をなしたというような気もされるのだ。

(注:「讖をなす」= 予言をする。未来の吉凶・運不運などを説く。)

 

 「シューベルトの魔王」を子どもの誕生の日の夜に聴いたことが、すでに子どもの死を「予言」していたという感じ方は、ばかばかしいことだが、しかし、「鬼門の柳」を気にする直子の母とまた同じレベルの迷信深さに謙作もまた捉えられていたということだろう。

 ここには一種の音楽批評があるわけだが、印象批評に終始している。「音楽の与えられた本統の使命」とは何なのかについての言及がまったくない。ゲーテに対する批評のほうが、まだ、芯がある。これは、謙作が(たぶん、志賀直哉自身も)音楽についての理解に自信がないということだ。それを率直に書いているのが面白い。

 こういった志賀直哉の率直さに、共感する。ぼく自身、文学への理解には自信がないが、音楽については、さらにそれを上回る自信のなさを自覚しいてるからだ。

 それはそれとしても、この「厄落とし」を最後に、もう、「魔王」は出てこない。それが不思議だ。

 というのも、ぼくが高校時代に読んだかすかな記憶のなかでは、謙作は子どもが死にそうだという不安のなかを、夜の道に出て、医者の元へと急ぐのだが、その謙作の頭の中に「シューベルトの魔王」の歌が、鳴り響くというシーンが確かにあるからだ。そこがすごく劇的だった。映画みたいだった。

 けれども、今回読んでみると、そんなことはぜんぜんなくて、子どもが生まれた日に、「魔王」を聴いたことが、「縁起が悪い」という印象を持って不快だったというだけのことだったのだ。

 文学というものは、実に勝手なイメージを読者のなかに生み出すものだ。しかし、ほんとうにそれが「勝手なイメージ」であろうか。

 子どもが重病になったとき、その子の誕生の日に、「魔王」を聴いたことを思い出し、「縁起が悪い」と思ったということだけが書かれているが、しかし、「思い出した」のは、「魔王」を聴いたという「事実」だけではなくて、当然、その時「魔王」の音楽そのもが、謙作の頭のなかによみがえったはずだ。とすれば、子どもの死に直面しかかっている謙作の頭のなかには、ずっと「魔王」の音楽が鳴り響いていたのではなかろうか。あるいは、子どもが泣き止まなかったその日から、いやな予感とともに、この「魔王」がかすかに流れていたのかもしれない。そして、それがここに来て、一挙にクライマックスに達したとみることもできる。そう考えると、ぼくが頭の中に描いていたイメージは、あながち「勝手な」ものでもなく、志賀直哉の意図したものであったのかもしれない。

 小説には、BGMはないが、ここにはBGM的効果がたしかにある。

 


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一日一書 1735 寂然法門百首 83

2023-08-13 14:37:36 | 一日一書

 

此日已過命即衰滅

今日すぎぬ命もしかとおどろかす入逢の鐘の声ぞ悲しき
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』大文一

 

【題意】 此の日已(すで)に過ぎぬれば、命即ち衰滅す

今日の一日が終わったので、命は減少する。


【歌の通釈】
今日は過ぎ去った。命もやがて終わるのだと目を覚まさせる入相の鐘の声は悲しいよ。

【考】
入相の鐘に命のはかなさを悟るという歌の発想は、『栄華物語』(巻一八・一九三・片野の尼君)の歌、「今日暮れて明日もありとな頼みそと撞きおどろかす鐘の声かな」に倣っている。(一部略)

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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