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日本近代文学の森へ (222) 志賀直哉『暗夜行路』 109 謙作の涙 「後篇第三  十一」 その2

2022-07-26 10:33:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (222) 志賀直哉『暗夜行路』 109 謙作の涙 「後篇第三  十一」 その2

2022.7.26


 

 さて、西御門の家に着いた謙作は、妙子から思いがけないプレゼントをもらう。


 間もなく二人が西御門の家についた時には妙子は座敷の真中に大きい風呂敷包みを解いている所だった。菓子折りのような物、缶詰、果物、その他シャツや襦袢の類まであった。その他にもう一つ新聞紙で包み、うえを紐で厳重に結わえた函ようのものがあって、妙子は想わせぶりな顔つきをしながら、それを別にし、
 「これは謙様の……」といった。「今お開けになっちゃあ、いけない事よ、京都へお帰りになってから見て頂戴」
 「どら、ちょっと見せろ」信行が傍から手を出していった。
 「いけない事よ」
 「俺にだけ見せろ」こういって取ろうとすると、妙子は怒ったように、
 「いやよ」といった。
 「お祝いか?」
 「お祝いはまた別に差上げるのよ」
 「お祝いの手つけか」
 「いい事よ、お兄様には関係のない事よ。黙っていらっしゃい」妙子は起ってそれを違い棚に載せた。
 「意地悪! そんなら口でいえ。何だ」信行は故(わざ)とこう乱暴にいった。
 「妙ちゃんのお手製の物よ」と傍から咲子が口を出した。
 「姉さん余計な事をいって……」妙子は姉をにらんだ。そして京都へ帰るまでは決して開けないという堅い約束を謙作にさせ、漸く満足した。
 「そんなに勿体をつけちゃって、かえっておかしいわ。それこそ、開けて口惜しき玉手箱になってよ」こういって咲子はクスクスと笑い出した。
 「まあ、ひどい!」妙子は眼を丸くして、昵(じ)っと姉の顔を見凝(みつ)めていた。涙が出かかっていた。
 「おい、もう直きひるだが、お前たちがやるんだよ」こんな事を信行がいっても怒った妙子は知らん顔をしていた。

 


 このころの、いいとこのお嬢様の会話というのは、こんな感じだったのだろうか。「いけない事よ。」といった、語尾に「ことよ」をつける女性言葉は、他の小説でもよく見かけるのだが、いったいこれは、いつごろから、どんなところで使われてきたのだろうか、と気になって調べてみたところ、「日本国語大辞典」に、こんな説明と用例があった。

 

終助詞のように使われる。
(イ)明治後期から昭和前期にかけての、若い女性の用語。ですわ。わよ。
*青春〔1905~06〕〈小栗風葉〉春・二「兄さんに嫌はれたって、誰も困りゃしない事よ」
*或る女〔1919〕〈有島武郎〉前・五「明日は屹度(きっと)入らしって下さいましね〈略〉お待ち申しますことよ」
*雪国〔1935~47〕〈川端康成〉「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」
(ロ)(助詞「て」に付けて)勢いよく、また、やや投げやりな気持で言いすてるときの男性の用語。
*窮死〔1907〕〈国木田独歩〉「もう一本飲(や)れ、私が引受るから何でも元気を加(つけ)るにゃアこれに限(かぎる)って事(コト)よ!」

 

 そうか、明治後期から昭和前期だったのか。つまりは、戦後はあまり使われなくなったってことだろう。これだけの用例ではよく分からないが、必ずしも上流階級の女性の言葉とも限らないようだ。戦後生まれのぼくは、この言葉を生で聞いたことはない。

 それに比べると、(ロ)のほうは、自分では使わないにせよ、テレビなんかでは頻繁に耳にしてきたような気がする。特に時代劇だったのだろうか。

 同じ「ことよ」が、一方では若い女性のカワイイ系の言葉として使われる一方で、「て」がつくにせよ、男性のヤクザっぽい(というほどでもないか)言葉として使われたということは興味深い。

 ともあれ、この一連の、兄弟姉妹のやりとり、とくに、信行のぞんざいな口ぶりやからかいは、謙作からすれば、どこか羨ましいような気分にさせるものだっただろう。そういう謙作の複雑な心中を志賀はまったく書かないけれど、それがなんとなく伝わってくるような気がする。

 

 午後皆(みんな)で円覚寺へ行った。その帰途(かえり)建長寺の半僧坊の山へ登った。
 謙作は二人を東京まで送り、直ぐその晩の夜行で京都へ帰る事にした。
 帰り支度で妙子が便所へ入った時、信行は串戯(じょうだん)らしい、ちょっといたずらな様子をしながら、
 「何だ、見てやろうかな」といって違い棚の函を持ち出して来た。
 「まあまあ」謙作も串戯らしくそれを取上げてしまった。咲子は笑っていた。
 信行とは鎌倉の停車場で別れ、三人で東京へ帰った。そして其所でまた妹たちに送られて謙作は京都へ帰って来た。
 妙子の贈物はリボン刺繍をした写真立てと、宝石入れの手箱だった。「玉手箱」で怒ったわけだと彼は一人微笑した。手箱に小さい洋封筒の手紙が入っていた。
 謙兄様。おめでとうございます。先達(せんだって)お兄様からお話伺いまして泣きそうになりました。私は一人直ぐ御洋室に逃げてしまいましたが、何だか、あんまり想いがけないのと、嬉しいのとで変になったのです。
 この箱は未知の姉上様に。この写真たては姉上様の御写真か、御新婚の御写真のために。
 ピアノを習いに行くB さんの奥様に教えて頂いて私が作りました。
 こんな事が書いてあった。謙作は会った時何にもいわず、ただ気楽そうにしていた妙子が、自分の結婚をそれほどに喜んでくれた事を意外に思い、嬉しく思った。彼は涙ぐんだ。

 


 ここで謙作の行程を整理してみる。

 「西御門の家」→「円覚寺」(今なら鎌倉駅から北鎌倉駅まで横須賀線でいけば、数分だが、この当時はまだ北鎌倉駅はなかったはず。北鎌倉駅が本格開業したのは、1930年・昭和5年。したがって、歩いていくか、人力車で行くかである。)→「建長寺」→半僧坊(当然徒歩だろう)→「西御門の家」(ここまでは、謙作・信行・咲子・妙子の4人)→「鎌倉駅」(信行は鎌倉に残り、3人で横須賀線で)→東京駅→(ここから、本郷の家には戻らずに、謙作は、そのまま東海道線に乗って)→京都駅

 こうしてみると、謙作は若いなあと思う。当たり前のことだが、こんな行程は、今のぼくなら疲れちゃってとても無理。登場人物の若さということもあるだろうが、当時の人たちというのは、平気でどこまでも歩いていく。基礎的な体力があったということだろうか。それとも、今の人間が、堕落したということだろうか。

 京都に帰った謙作は、妙子のプレゼントをあけてみる。そこに入っていた手紙の可憐な文章に、謙作はおもわず涙ぐんだ。

 「彼は涙ぐんだ。」の短い一文がきいている。そして、この章(十一)は終わる。

 そして、いよいよ謙作の結婚へと話は進んでいく。

 

 


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一日一書 1721 寂然法門百首 69

2022-07-22 14:07:27 | 一日一書

 

但念寂滅不念余事

 

いづくにか心を寄せん浮波のあるかなきかに思ひ沈めば

 

半紙

 

【題出典】『摩訶止観』四・下


【題意】 但念寂滅不念余事

但だ(涅槃)寂滅を念じて余事を念ぜず


 
【歌の通釈】
どこに心を寄せようか、漂う波の底に沈むように、有るのか無いのかも分からないくらい思い込んでしまったので。

【参考】ことわりやかつわすられぬ我だにもあるかなきかに思ふ身なれば(和泉式部集・人の久しう音せぬに・二一〇)

 

【考】
我が身が消え入りそうなほど恋の思いに沈潜する心と、ただ安らかな悟りの境地に心を沈めることを重ね合わせた。
悟りの境地にいる心境は、恋に一心に沈む心境に通じていく。「あるかなきか」という句は、『法華経』随喜功徳品の、「世智不牢固、如水沫泡焔」を詠んだ「かげろふのあるかなきかの世の中にわれあるものと誰たのみけむ」(発心和歌集・四二)や、維摩経十喩を詠んだ「夏の日のてらしもはてぬかげろふのあるかなきかの身とはしらずや」(公任集・此身かげろうふのごとし・二九一)のように、世の中や我が身のはかなさを表す句として多く詠まれてきたが、左注のいうように、中道の理に思いを沈めるという、むしろ肯定的な意を持たせているのが新しい発想。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

▼恋人への思いに駆られていると、自分の存在が「あるかなきか」という感じになってしまうというわけですが、このように「自分」というものが、案外はかないもので、恋などするとどこかに消えてしまうような存在として考えられているということは、ヨーロッパ文学や哲学では、普通のことなのだろうかと、ふと思います。
▼西欧の思考では、デカルトの「我思う、故に我あり」といったふうにどこまでいっても「自分」は、疑い得ないそんざいだということを懸命になって証明しようとしてきたのではないでしょうか。「我が身のはかなさ」を、西欧の人は、どう考え、どう表現してきたのだろうと、改めて思います。

 

 


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日本近代文学の森へ (221) 志賀直哉『暗夜行路』 108 「リアル」のありか 「後篇第三  十一」 その1 

2022-07-17 13:49:54 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (221) 志賀直哉『暗夜行路』 108 「リアル」のありか 「後篇第三  十一」 その1 

2022.7.17


 

 謙作は二、三泊で上京する事にした。わざわざ出るほどの事もなかったが、久しぶりでちょっと帰って見たいような気もしたし、それにこれまで石本が二度そのために来てくれた、それに対し、今度は自分の方から一度出て行こうと考えたのである。
 鎌倉へ寄り、信行と一緒に上京し、その夜石本を訪ねたが、相談というほどの事もなく、雑談に夜を更かし、二人は其所へ泊る事にして、並んで床に就いた。その時信行は、
 「本郷へ寄る気はないね」といった。
 「そうだね。本郷は何か億劫な気がするが、……咲子や妙子には久しぶりで会いたいようにも思う」
 「この間お前の話をしてやったら、大変喜んでいたよ」
 「そう。何所かで会って行くかな」
 「明日は日曜じゃないか?」
 「土曜だろう」
 「そんなら明後日鎌倉へ呼ぼうか」
 「そうしてくれ給え」
 「そうか、それじゃあ、そう明日電話で話して見よう。きっと喜ぶだろう」
 翌日午後二人が鎌倉へ帰る前にその事を電話で話した。妹たちは心からそれを喜び、翌日の汽車の時間なども打合わせた。
 汽車へ乗ると、信行は不意に、
 「例の写真は持って来ないんだね。……気が利かないなあ」とこんな事をいった。
 「それも考えたには考えたんだが……」
 「考えて止める所がお前だよ」と信行は何と思ったかそう鋭くいって笑い出した。謙作はちょっといやな気がした。
 「しかし君は大森で見たんだし、……そして咲子たちとは今度会うとは思わなかったもの」
 「それはそうだ」と信行は自分のいい過ぎを取消すように二、三度点頭(うなず)いていた。
 その夜二人は早く寝た。そして翌朝謙作は信行を残し、その時間に一人停車場へ出掛けて行った。

 

 舞台が京都から、東京、鎌倉へと移る。

 信行の言葉は、ほんの小さなことでも、トゲのように謙作に刺さる。「気が合わない」というのは、こういうものだろうか。信行は、最大限、謙作を理解しようと努め、心使いをしている。にもかかわらず、謙作は、その信行の些細な言葉使いに、「いやな気」がする。

 謙作が、婚約者の写真を持ってこなかったことを、信行は「気が利かない」という。謙作は、もともと本郷に行くつもりはなかったし、それなら、咲子たちにも会うこともないだろうと思って写真を持ってこなかった。そのことを信行は「気が利かない」といって咎める。謙作にしてみれば心外なことだ。むしろ自慢たらしく写真なんぞ持ってくることのほうが、みっともない、ぐらいの気持ちであったろう。だから、「考えた」けれども「やめた」。つまりは、いったんは写真を持っていこうかと考えたのだ。けれども、いろいろそういうことを考えて、「やめた」のだ。

 そのことを捕らえて、信行は「考えて止める所がお前だよ」と「鋭くいって笑いだした」。この「鋭くいって」が効いている。謙作の性質をとことん知り尽くしていて、その弱点を「鋭く」──つまりは、「冷たく」指摘する。それが謙作は不愉快なのだ。

 写真を持って行くなんてことを思いつかなかったのならまだしも、写真を持っていこうかなと考えたのなら、無駄を承知で、持って行けばいい。見せずに終わっても、それはそれでいいじゃないか。それなのに、どうしてそういうふうに物事を処理しようとしないのだろう、というのが、信行の気持ちだろう。たった1枚の写真じゃないか。荷物になるわけじゃなし。そういう対処の仕方が「気が利く」ということなのだ。

 それはそうだろうとぼくも思う。けれども、謙作は、なぜかそうした気の利かせ方をしない。というか、できない。それは、たぶん謙作にも分からないのだろう。そして、もしかしたら、謙作自身、しまった、持ってくればよかった、と思っているのかもしれない。それなのに、そういう自分に対して、いちいちトゲのある言葉を投げかける信行に、謙作は、いらつくわけだ。

 その夜、「二人は早く寝た」。仲のよい兄弟なら、久しぶりのゆっくりした時間だ、つもる話に花を咲かせて夜更かししてもいいはずだ。それなのに、「早く寝た」。そして翌朝は、信行を残して、一人で停車場に出かける。昨晩の「いやな気」の余韻である。

 謙作と信行の間には、深くて超えられない溝があるのだ。こういうところ、リアルだなあと思う。リアルは、さりげないところに存在する。

 


 彼がプラットフォームに立っている所に汽車が着いた。二人は大きな荷物を持って降りて来た。
 「お兄様は?」と妙子が訊いた。
 「自家(うち)で待っている」
 「まあ、ひどいわ。こんなに御馳走を持って来て上げたのに……」妙子ははち切れそうに元気に見えた。そして暫く見ない間に大きくなっていた。
 荷だけ俥に乗せて、先にやり、三人はぶらぶらと八幡前から学校の横を歩いて行った。長閑(のどか)ないい日で三人とも晴れやかないい気持になっていた。
 京都の家(うち)の話など出たが、謙作はなかなか結婚の事をいい出さなかった。いいはぐれた形でもあったが、余りそれが出ないので、咲子の方から、
 「今度の事、本統に嬉しいわ」といい出した。
 「お式は何日(いつ)? 京都でなさるんでしょう?」妙子もいった。
 「多分そうだ」
 「その時、私、京都へ行きたいの」
 「お兄さんに連れて来てもらうさ」
 「ええ、そのつもり。だけど何時(いつ)なの? 学校がお休みでないと駄目なのよ」
 「その頃かも知れないよ」
 「なるべくそうしてね」
 「妙ちゃんの都合で、そんな事決められないわ」と咲子がいった。妙子は怒ったように黙って姉を見返していた。      
 咲子は学校が休みでも妙子の京都行きは父が許すはずがないと思っているのだ。それは謙作にも分った。分っていながら調子を合わせ、何か話していた事が、自分でちょっと気が差した。で、彼も黙ってしまった。
 近くまで来ると、妙子は一人先に駈けて行ってしまった。荷を置いて来た俥が彼方(むこう)から帰って来た。
 間もなく二人が西御門(にしみかど)の家についた時には妙子は座敷の真中に大きい風呂敷包みを解いている所だった。

 


 咲子と妙子は、謙作の種違いの妹だ。父と一緒に本郷の家に住んでいる。謙作は、父には会いたくもないけれど、この二人には会いたいと思っていたので、二人は信行に呼ばれて鎌倉まで来たわけだ。それなのに、前の晩に、信行と謙作は、ささいなことで気まずくなって、誘ってきた信行が迎えに来ていないことを知ると、妙子が怒る。

 横須賀線でやってきて、鎌倉駅で降り、鶴岡八幡宮から、学校の横を通って、「西御門」まで歩いたということになる。今でも、その道を歩くことができるし、その周辺の建物はそんなに大きく変わっていないだろう。三人がのんびりと話しながら歩いていく様子が鮮やかに目に浮かぶ。「長閑ないい日」とは、こういうものだろう。

 こうした映像を思い浮かべ、三人の会話を耳にすると、まるで、小津安二郎の映画見ているような錯覚に陥る。

 「西御門」には、里見弴が住んでいたことがあるようだから、この道は、志賀直哉も何度も歩いたことだろう。

 小説を読んでいて、楽しいのは、こういうところだ。ああ、あそこを舞台にしてるんだなと分かると、勝手に頭に映像が浮かんでくる。場合によっては、実際に出かけていって、確かめることもできる。もっとも、こういうことができるのは、リアルな小説、特に私小説であって、荒唐無稽なフィクションではそうはいかない。

 今放送中にNHKの朝ドラ「ちむどんどん」で、鶴見が出てくるのだが、鶴見の「リトル沖縄」に住む人たちが、町内の「沖縄角力大会」を開くという設定で、その大会をやった場所が、京浜工業地帯のまっただ中の鶴見にあるはずもない、ひろびろとした砂浜だった。ある程度の「リアルさ」を要求されているはずの朝ドラで、こういうありえない設定を平気でやってしまう無神経さというのは、ほんとうに信じられない。

 こんなことを「暗夜行路」でやるということは、鎌倉駅で降りた二人と謙作が、そのまま江ノ島まで歩いて行って、お昼までに、二階堂の家に帰ってきました、みたいな話になる。その辺の地理を知らない読者は、そうか、鎌倉駅から江ノ島まで歩いても30分ぐらいなのか、って思うだろう。別に小説読んで地理の勉強するわけじゃないから、いいじゃないかと言われても、そうはいかないのだ。

 無邪気な妙子は、謙作の結婚式に、京都へ行くつもりになっているが、それを父は「許すはずがない」のは、どうしてなのか。「許すはずはない」ということを、咲子も、謙作も「分かっている」のはなぜか。謙作の結婚のことを父はどう思っているのか、どこかに書いてあったろうか。ちょっと気になる。

 

 

 


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一日一書 1720 寂然法門百首 68

2022-07-06 20:38:20 | 一日一書

 

未嘗睡眠

 

夢のうちにまどふ心を嘆きつつつゆ目もあはでいく夜明かしつ

 

半紙

 

【題出典】『法華経』序品(30番歌題に同じ)


【題意】 未嘗睡眠

未だ嘗て睡眠せずして


 
【歌の通釈】
夢の中では迷う心に嘆きながら、少しもまぶたを合わせることもなく、いくつの夜を明かしただろうか。

【参考】ぬる夜なく法を求めし人もあるを夢の中にて過す身ぞうき」(発心和歌集 未嘗睡眠……二五)

 

【考】迷う心を嘆きながら眠ることなく恋人を思い続けることと、迷いの世を嘆きながら仏道を求め続けることを重ねた。右の『発心和歌集』では、睡眠せず修行する菩薩とはかなく夢の中で過ごす人とが対立するものとして詠まれるが、ここでは両者を同質のものとして並行させて詠む。
 季広「法門百首」は「昔よりまどろむこともなきものをいかでうき世を夢と見るらん」(続詞花集・釈教•雑・四四五/今撰集・雑・二〇九)と詠む。昔から睡眠せず修行してきたのに、どうしてこの世を夢と見ているのだろうか。目を覚ませばこのうき世こそ迷いのない世界であるといったもの。必ずしも恋歌として詠まれていないように思われる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


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日本近代文学の森へ (220) 志賀直哉『暗夜行路』 107 「羊羹」と「飛行機」 「後篇第三  十」 その4

2022-07-04 10:11:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (220) 志賀直哉『暗夜行路』 107 「羊羹」と「飛行機」 「後篇第三  十」 その4

2022.7.4


 

 謙作の結婚問題の仲介者となってくれたS氏からの手紙を、S氏自身が持参したのだが、謙作は寝ていて、直接受け取れなかった。謙作はお仙に、ちょっと起こしてくれればよかったのにと文句を言うが、会社の出がけなので、また夕方来ますということだったので、とお仙は言う。けれども、謙作は、S氏が自分で手紙を持ってきてくれたことが嬉しかった。


 謙作にとってはS氏がそうして自身で持って来てくれた事も嬉しかった。彼は色々S氏には世話になり、それをありがたく思っていながら、妙に機会がなく、これまで一度もS氏の家を訪ねなかった。この事は気になっていた。気になりながら、やはり彼は訪ねて行けなかった。そして同様S氏の方からも一度も訪ねて来ない事が、時々彼を不安にさえした。自分の礼儀なさをS氏が怒っている、そしてこの話にも、今は冷淡になっている、それで返事がこう遅れるのだ、結局こうしてこの話も有耶無耶になるのではないか、そういう不安だった。しかし今、彼はこういう拘泥した濁った気分までも一掃されると、二重に晴々した気持になっていた。

 


 「拘泥した濁った気分」というのが、ときどき謙作を襲う。世話になっているS氏の家に行くべきだと思っても、なかなか行く気になれない。それが失礼なことだという意識が、ひょっとしたらS氏は怒ってるんじゃないかという不安を生む。そして、この縁談もダメになっていくんじゃないかというふうに、謙作の不安はふくらんでしまう。

 それなら、そんな不安を払拭すべく、S氏の家に行けばいいじゃないかと思っても、行けない。それは、やっぱり「結果」を聞くのが怖いからだろう。謙作の不安は、どうしても、この縁談の行方に対する不安になってしまうのである。

 

 「ようお決まりやしたか」
 「うむ」
 仙は今まで立っていたのを其所(そこ)に坐り、柄になく《しおらしい》様子で、
「おめでとうござります」と祝辞をいった。
「ありがとう」彼もちょっとお辞儀をした。
「そんで、何時(いつ)……?」
「判然(はっきり)しないが、今年中か来年なら節分前だ」
「ほう。たんと間(ま)がおへんな」
「節分というと何日頃だ?」
「二月初めでっしゃろ」
 その手紙にN老人の息子の友達で或る私立大学の文科にいる人があって、それから謙作の評判を聴き皆(みんな)も喜んでいると書いてあった。謙作はその人が幸(さいわい)に自分をよくいってくれたからよかったが、と思った。そして、もし同じ事をその人の位置で自分が訊かれた場合、そう素直によくいうかどうかを思い、冷やりとした。
 彼は信行と石本とお栄とにほとんど同じ文句の手紙を書いた。その他に久しぶりで巴里の竜岡にも書いた。

 


 手紙の内容を地の文で説明したり、引用したりするのではなく、まずは、お仙との会話で示すというのも、また巧みな手法だ。そしてひとしきりの会話の後に、詳しい内容を説明する。うまいものだ。

 お仙の態度がすがすがしい。お祝いの一言を、きちんとそこに座り、「しおらしい様子」で言う。謙作(作者)はそれを「柄になく」と表現するが、この「柄になく」という表現によって、お仙の日常のテキパキとした振る舞いが浮かび上がる。いつもとは違って改まった態度をわざわざとって、「祝辞」を言う、という、何気ない日常の一場面だが、それでも、この当時は、こうしたきちんとした振る舞いの作法が、ごく普通の庶民にも行き渡っていたことを思わせる。

 今だったら、どうだろうか。人生の区切りとなるような場面で、常套句を言うような場面は多々あるわけだが、家の中での場合、畳のない部屋では、どうにも恰好がつかないのではなかろうか。もちろん、たったままでも、姿勢を正して、「おめでとうございます」ということはできるが、なんか、違うなと思ってしまう。

 謙作が、「節分というと何日頃だ?」と無邪気に訪ねるのも微笑ましい。日常を区切る季節の大事な一日を、ほとんど意識して生活していない。それが今も昔も「知識人」と呼ばれる人なのかもしれない。それに対して、お仙は、「二月初めでっしゃろ」と、あいまいではあるが、はっきりと認識している。「節分」が、生活の中にしっかりと根付いているのだ。

 謙作は、自分の「身辺調査」(というほどの大げさなものではないが)の中で、自分の作品が評判がよかったという話を手紙で読み、ほっとするが、自分だったら、その相手の作品を素直に褒めることができただろうかとふと思って「冷やり」とした。どこまでも、誠実な謙作である。

 

 午後彼は自家(うち)を出て、竜岡へ送るために駿河屋という店に羊羹を買いに行き、其所からS氏の会社へ電話をかけ、都合を訊き、此方(こちら)から訪ねる事にした。四時に来てくれという事だった。四時まではちょっと二時間近くある。彼は時間つぶしに四条高倉の大丸の店へ行った。華やかな女の着物を見る、こういう、私(ひそ)かな要求が何所(どこ)かにあった。それらを見る事から起こって来るイリュージョンが今の場合、欲しかったのだ。しかしまた別に、最近、深草の練兵場で落ちた小さい飛行機を展覧している、それも見たかった。竜岡が、その飛行機──モラン・ソルニエという単葉の──を讃めていた事がある。そして彼は今日竜岡への手紙にその飛行家が、東京までの無着陸飛行をやるために多量のガソリンを搭載し、試験飛行をしている中(うち)に墜落し、死んでしまった事を書いた。半焼けの飛行服とか、焦げた名刺とか、手袋とかその他色々の物が列(なら)べてあった。彼が京都へ来た頃、よくこの隼のような早い飛行機が高い所を小さく飛んでいるのを見た。町の子供たちがそれを見上げ「荻野はんや荻野はんや」と亢奮していた事を憶い出す。子供ばかりでなく「荻野はん」の京都での人気は大したものだった。それが今は死に、その物がこうして大勢の人を集めている──。
 いい時間に彼は其所を出て、S氏の家へ向かった。
 結納の事、結婚の時期、場所、そんな事が相談されたが、謙作には別に意見がなかった。時期だけはなるべく早い方がいいとも思ったが、節分前と決っていれば、その中でも早くというのは変な気もし、総て、いいように石本と相談し決めてもらいたいと頼んだ。

 

 「暗夜行路」には、話の大筋とは無関係な(あるいは無関係にみえる)細かいことがいろいろと書き込まれている。まあ、「暗夜行路」に限らず、小説というものは、そういうものかもしれないが、とにかく「細部」や「脇道」が面白い。

 パリにいる竜岡というのは、最初の方から出てくる謙作の友人で、今は、パリにいて、「発動機」の研究をしている。この理系の友人は、かえって謙作とは気があって、何かと連絡をとっているわけだが、そのパリの竜岡に今回の縁談についての報告の手紙を送り、さらに、「羊羹」を贈る。なんで「羊羹」なのか? って思うけれど、確かに当時のパリには「羊羹」はあるまい。それに、船便でも、「羊羹」なら腐ることもないだろう。しかし、もっと気の利いたものはないのだろか。「駿河屋」の「羊羹」は、そんなにうまいものなのだろうか、とも思う。どうでもいいことだけど。と思いつつ、ネットで調べたら、これはもう、ほとんど「羊羹」の元祖ともいうべき老舗で、スーパーで「羊羹」を買うのとはわけがちがう、ということが判明した。まあ、京都に住んでる人にとっては、何を今更って話だろうけどね。

 もうひとつの印象的な「脇道」は、「荻野はん」のことである。なにせ、飛行機嫌いのぼくだから(といっても、乗るのが嫌というだけだけど)モラン・ソルニエという単葉の飛行機のことも、まして京都で大人気だったという「荻野はん」のことも、まったく知らなかった。これはもう「羊羹」どころの騒ぎじゃない、ちゃんと調べなきゃと思って調べたら、この「荻野はん」のモデルは「荻田常三郎(おぎた・つねさぶろう)」であり、ここに書き留められたことは、ほぼ事実ということが判明した。これも、飛行機のことに詳しい人なら「何を今更」ってな話だろうが、ぼくには、新発見だった。

 調べている過程で、京都外国語大学の図書館報「GAIDAI BIBLIOTHECA」第233号(2022年4月20日発行)に、図書館長の樋口穣先生が、「『暗夜行路』と近代京都」というエッセイを書かれていることを知った。非常に興味深いエッセイなので、是非お読みいただきたい。(樋口穣先生のエッセイは、最終ページに掲載されている「図書館長のおもちゃ箱」です。)

 

 

 


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