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日本近代文学の森へ 234 志賀直哉『暗夜行路』 121  リアリズムの真骨頂 「後篇第三  十四」 その2

2022-12-28 10:08:25 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 234 志賀直哉『暗夜行路』 121  リアリズムの真骨頂 「後篇第三  十四」 その2 

2022.12.28


 

 要の噂はまだ続く。


 「この春休みには敦賀の行きか帰りに京都へも寄るような事を久世君の所へいって来たそうですよ。此方(こちら)の新家庭を拝見しがてらに……」水谷はそういって一人笑った。
 「いやな人!」と直子は腹立たしそうにいい、ちょっと赤い顔をした。
 末松が謙作とは親しい間柄でいながら側(わき)に馴染(なじみ)の薄い直子がいると、平時(いつも)の半分も喋れずにいるのに、初めての水谷が年に似ず何の拘泥(こだわ)りもなくそんな串戯(じょうだん)をよく喋れる事が謙作にはいい感じがしなかった。水谷は色の白い小作りの、笑うと直ぐ頬に大きく縦に笑窪(えくぼ)の入る、そして何となく眼に濁りのある青年だった。紺絣の着物にセルの袴を穿(は)いて、袴の紐を駒結びに結び切って、その先を長く前へ二本垂らしていた。末松とは同じ下宿で今度初めての知り合いで、将棋、花合わせ、玉突、そういう遊び事がうまく、二人はその方での友逹であった。

 


 「いやな人!」というのは、要に対してである。そういって、また直子は「ちょっと赤い顔」をする。二度目だ。しかし、それに対する謙作の反応を書くことなく、筆は、水谷に対する不快感へと向かっている。それは、間接的に、そういう水谷と気安く話す直子への不快感を暗示しているようにも読める。

 


 「奥さん」仙が唐紙の彼方(むこう)で呼んだ。「奥さん、ちょっと、来ておくれやすな」
 直子は急いで立って行った。その姿が隠れると、今までそれを待っていたかのように、末松は花を打ちつける手真似をしながら、
 「やるかい?」といって笑った。
 「いや」と謙作も微笑し、首を振った。二人はまだ中学生だった頃お栄と三人でよくそれをした事があった。
 「道具はあるの?」
 「何所(どこ)かにあるわけだよ。例の古い奴が……」
 「やりたいなあ」末松は如何にもその遊びをしたいらしく、子供らしい調子でいった。
 「何だい、そんなに熱なのか?」
 「末松さんの熱は下宿でも一番高いんです」
 「奥さんはどうだい?」と末松がいった。
 「どうかな」
 直子が仙に襖(ふすま)を開けさせ、林檎の切ったのを山に盛った大きい切硝子(きりこ)の鉢を両手に持って入って来た。
 「花を知ってるかい?」謙作はまだ立っている直子を見上げて訊いた。
 「花って……?」直子は立ったまま首を傾けた。
 「これだ」謙作もその手附をして見せた。
 「ああ、そのお花?」直子は坐り、鉢をいい位置に置きながら、「知っててよ」といった。
 「うまいな!」水谷が浮かれ調子にそういって如何にも乗気な風をした。
 「道具のあるとこ分るかしら?」
 「お引越しの時ちょっと見たんですけど、赤い更紗(さらさ)の風呂敷に包んであるのがそうでしょうか」
 「それだ」
 「持って来るの?」と、よくする癖で直子はまた首を傾けて訊いた。
 「うむ」
 少時(しばらく)して四人は電燈の下の白い布れに被われた一つの座蒲団を囲んだ。

 


 ちょっとしたやりとりだが、情景が生き生きと伝わってくる見事な文章である。

 末松の浮かれた気持ち、直子のかわいい仕草、そして謙作の直子への視線。それらが、見事に交錯して描かれる。

 話は、この後、花札の遊びを、数ページにわたって、こと細かに描写する。花札のシーンをこれだけ細かく描いた小説を読んだことがない。しかし、残念なことに、ぼくには、花札に関する知識が皆目ないので、さっぱり分からない。いろいろ調べてみたが、やっぱりダメだった。

 脱線するが、花札といえば、こんなことがあった。青山高校に勤めていたころ、修学旅行の引率で京都に行ったことがある。その行きの新幹線の中で、生徒が、花札をやっているのを見つけたのだ。ぼくは、すっかり驚いてしまって、ダメだダメだ、花札なんて! と言って止めさせたのだが、生徒はぽかんとして、どうしてダメなんですか? トランプがよくて、花札はダメなんですか? と詰め寄られたような気がする。その時、ぼくはどう説明したのか覚えていないが、とにかくダメだ、花札なんてヤクザのやることだ、ぐらいのことは言ったのではなかったか。

 ぼくは、柄のわるい横浜の下町の職人街に生まれ育ったわりには、(実際、ぼくの町内には、入れ墨をしたオジサン、ジイサンはそこらじゅうにいたし、我が家で雇う臨時職人には、全身入れ墨をした人もずいぶんいた。)そういうものにはとんと縁がなくて、花札をやったことがないばかりか、花札をやっているところを実際に見たこともない。家にも花札1枚なかった。それでも、花札のことを知っていたのは、ヤクザ映画の中で頻繁にみたからだ。だから、「花札=ヤクザ」の図式は、ぼくの中では確固とした信念と化しており、カタギの者が手を出していいものでは金輪際なかったのである。その後も、ぼくは、花札を触ったこともないし、もちろん遊んだこともない。

 ペンキ屋の親方だった父も、そのまた親方だった祖父も、そういう仕事のわりには、バクチにはまったく縁がなく、我が家では、冗談にも賭け事をしたことがない。それは、我が家のタブーに近かったのだ。裏を返せば、それだけバクチが周囲に蔓延していて、それを幼いぼくから懸命に遠ざけたということなのかもしれない。

 そういうぼくの目からすると、世田谷方面のインテリの家庭の生徒が、新幹線の中で花札をやるということは、まさに想像を絶する、驚愕だったわけで、慌てたのも当然だったわけだ。

 けれども、今、こうして「暗夜行路」を読みながら、楽しそうに「良家の子弟」が花札をやるシーンに接すると、そうか、花札というのは、必ずしもヤクザ専用のものじゃなくて、一般市民の楽しみでもあったんだと納得される。

 と同時に、このように屈託なく花札を楽しめるということは、育ちがいいからこそであって、バクチのために地獄をみなければならないような底辺の人間には、やはりそれはあくまで「地獄の入り口」だったのではないか、などと思うのだ。

 さて、本題に戻ると、この花札をやっている最中に、直子がちょっとしたズルをする。これが、この部分の眼目である。その部分だけを引用する。

 


 こんな風に初めてなのであるが、誰れか一人ずつ寝た者が後見についていると、何時(いつ)か直子が一番の石高となっていた。そしてその後に水谷の後見で五光を作ると、これで大概銀見(ぎんみ)は決ってしまった。直子の大きな銀見で、一年済んだ所で、
 「今度は一人でやって御覧。大概解ったろう?」と謙作がいった。
 「ええ、いいわ。今度は一人でやるわ」
 しかし一人になると、直子はやはりよく負けた。結局また誰れか後見をする事になったが、一卜勝負済んで数勘定の時など、直子はよく、
 「私に何か手役なかったこと?」こういって考える事があった。「あったわ、《たて三》でしょ」
 「何いってんだ。そりゃあ、前の勝負だ。慾が深いな」謙作は串戯(じょうだん)らしくそういいながら、直子には女らしい小心で、実際慾の深い所があるようだというような事を思った。
 水谷の親で、親が出るといった。次も出るといった。その次が謙作で、謙作には二タ役がついていたので、出るといい、最後の直子が追込まれる事になった。
 「買ってやろう。何かあるかい」そういって謙作は直子を顧みた。
 直子は扇形に開いた七枚の札を彼に見せて、
 「丹兵衛さんよ」といった。
 「よし。桜の丹だ」こう皆にいって、何気なくもう一度見た時に《かす》の菊がちょっと彼の注意をひいた。彼は手を出し其所だけ扇をもっと開いて見た。それは盃のある菊で、それがあってはその手は役にならなかった。謙作はその盃だけが上の札で完全に隠されてある所から、これは直子が《ずる》をしようとしたのだと思った。
 「ちょっとも気がつきませんでしたわ」直子もちょっといやな顔をしていった。
 「よろしい。それじゃあ、桜の丹があるが、罰としてただだ」彼は何気なくその札を受取り、めくり札に切り込んで、直ぐ勝負にかかったが、「猾(ずる)い奴だな」と直ぐ一と口に串戯(じょうだん)のいえなかった処に何となく、それが実際直子の猾(ず)るだったような気がした。勝負をしながら、彼はその事を考えた。彼は気を沈ませた。そして、思いなしか、皆も妙に黙ってしまったような気がした。

 


 花札のことは分からなくても、こうした「ちょっとしたズル」のことは、よく分かる。

 直子がほんとうにズルをしたのか、それとも誤解なのかは分からないが、しかし、そこに嫌な空気、嫌な気分が、確実に生まれたことは分かる。何気ないところに、ふっと顔を出してくる、人間性。それも、その人間の持つ本質的な悪というような深刻なものではなく、誰だってもっているに違いない小さな悪。けれども、それが、その人間への理解に落とす影は案外濃い。

 そんな微妙な空気の中で、あそびはお開きとなり、謙作と直子は、二人の客を送って外へ出る。

 


 椿寺、それから小さい橋を渡って一条通りの町になる。が、晩(おそ)いので何所ももう店を閉め、ひっそりしていた。直子は毛の襟巻(謙作の)に深く頬を埋め黙り勝ちに謙作の後からついて来た。
 「どうだい。もう帰らないか」と末松がいった。
 「あなたはどうだい?」謙作はいたわるようにいい、直子を振返った。
 「私、いいのよ」
 「そんなら大将軍(たいしょうぐん)の前あたりまで行こう」
 寒い晩で、皆(みんな)が黙ると、凍った路に下駄の歯音が高く響いた。
 「もう少し温かくなったら、一緒に何所かへ行って見ようかね」十年ほど前の春、末松と富士の五湖を廻った事がある、それを憶い出し、謙作はいった。
 「それは賛成だね。僕はこの春、月ヶ瀬へ行って見ようと思ってるよ。君がまだなら、月ヶ瀬でもいいね。笠置の方から越して行くんだ」
 「月ヶ瀬はいいでしょうね。僕もまだ行かないが」と直ぐ水谷もいった。が、二人はそれには答えず、五湖廻りをした時の話などを始めた。
 そして間もなく大将軍という町中にある丹塗の小さい社の前まで来て、其所で謙作たちは二人に別れて引返して来た。直子は何となく元気がなかった。やはり先刻(さっき)の事が直子の心を傷けているのだと謙作は思った。謙作はもしそれがいえる事なら何とかいって慰めてやりたかった。そして彼にもまたそれが自身の事柄のように心を傷けているのであった。
 「疲れたかい?」
 「いいえ」
 カタリコトリ冴えた音をさせながら、野菜を積んだ牛車(うしぐるま)がすれ違って行った。牛は垂れた首を大きく左右に振りながら鼻から出る太い気霜(きじも)を道へ撒(ま)き撒き通り過ぎた。
 「猾(ず)るは悪い」謙作は思った。「悪い事は大概不快な感じで、これまで自分に来た。が、今、自分は毛ほどの不快も悪意も感じていない。これは不思議な事だ」と思った。彼には堪らなく直子がいじらしかった。彼はその事があって、かえってかつて感じなかったほどに深い愛情を直子に感じていた。
 彼は黙って直子の手を握り、それを自分の内懐(うちふところ)に入れてやった。直子は媚(こ)びるような細(ほそ)い眼つきをし、その頬を彼の肩へつけ、一緒に歩いた。謙作は何かしら甚(ひど)く感傷的な気持になった。そして痛切に今は直子が完全に自分の一部である事を感じた。

 


 ため息が出るほど、いい文章である。人間の心理と、情景が一体となって、心の底までしみてくる。末松との暖かい心の交流、さりげなく排除される水谷、そして、どこまでも、いじらしい直子。

 リアリズムの真骨頂である。

 

 

 


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木洩れ日抄 96  「猫好き」問題  【課題エッセイ 3 猫】

2022-12-20 15:34:40 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 96  「猫好き」問題  【課題エッセイ 3 猫】

2022.12.20


 

 「100のエッセイ」と題して、第1期から第10期まで、およそ18年かけて合計1000編のエッセイを書き継ぎ、それが終わったあと、これでもう終わりと思ってほっと一息ついたのだが、やがて、「何にも書かなくてもいい」状態に退屈しだして、それじゃ続けてみるかと「木洩れ日抄」と称して書き始めたのが、2016年。それから6年経って、気づいたら100編になっていた。こちらは、第1期とかいった分け方はせず、いつ終わるともしれないが、それにしても、その記念すべき「100」の題が「猫」とはなんの因果であろうか。

 

 と、最初の投稿のとき(12/20)書いたのだが、今(12/21)見直しみると、ナンバリングが「94」のときから間違っていて、これは「96」だった。まあ、いずれ「100」になるだろうから、文章はこのままにしておきます。

 

 猫については、書くべきことがないのである。まるで、例の「作文コンクール」の第1回で、いきなり「窓」という題を出されて途方に暮れたときのようだ。あのとき、ぼくは、まだ中2だった。心の窓がどうのこうの、と、聞いたふうなことを書き連ねてお茶を濁した覚えがあるが、そのとき、優秀作として、入選作品集のトップに載っていた高3のSさんが書いた作文は、もう信じられないほどの高みにあって、圧倒された。朝、学校に来て、いきなり「窓」という題で作文を書けと言われて、「シャガールの窓」をパッと思い浮かべて、さらさらと書けちゃうなんて、同じ空気を吸っている人間とは思えなかった。いまだに、あの衝撃は、心の深部にトラウマのように残っている。

 なんてことを書いて、さっそくお茶を濁しにかかっているが、「猫」のことだ。どうしよう。

 別に猫が嫌いというわけじゃない。好きかと聞かれると、子猫は好きだ、というしかない。いままでたった一度だけ、親戚から頼まれて子猫を数日預かったことがある。それはそれは可愛かった。ずっとこのままなら、猫を飼いたいとも思ったくらいだ。でも、その後、猫を飼ったことはない。

 ぼくが子どもの頃は、猫というものは、ネズミを退治してくれるもので、そのために猫を飼う人がほとんどだった。我が家も、戦後の焼け野原に祖父が親戚の大工と一緒に作った掘っ立て小屋のような家だったから、とうぜん、屋根裏にはネズミが住んでいて、毎夜「運動会」が盛大に開催されていた。

 この「運動会」のことは、年配の人ならだいたいは経験しているだろうが、今の若い人にはおそらく想像がつかないだろう。夜中に、ふと目が覚めると、天上裏を何やら走り回る音が聞こえる。端から端まで、ダーッと突進だ。たまには、チュウチュウという鳴き声も聞こえる。うるさいわけではない。むしろ、楽しげだ。だから「運動会」と呼ばれたのだろう。

 しかし、ネズミは衛生上よろしくない。ペスト菌を媒介するから危険だ。だから、そういうネズミをなんとか退治しようと、「猫いらず」という薬剤をまいたりしたものだが、その薬のネーミングからしても、どれだけ「猫」が活躍したか分かろうというものだ。

 せっかく猫を飼っているのに、ちっともネズミを捕らないとなると、その猫は「役立たず」だとののしられた。我が家では、どうせ猫なんて飼っても、役立たずだったらどうしようもないということだったのだろうか、猫の導入には至らなかったわけである。

 やがて、住宅からネズミというものが姿を消して、あの懐かしき「運動会」もとんと開催されることがなくなっていったのだが、その頃からだろうか、猫がペットとしての地位を確立した。一方では、「番犬」として飼われていたはずの犬も、ペットとして台頭してきて、いまのように両雄が屹立する事態となったわけである。

 で、世は、「猫派か犬派」かと常にかまびすしい議論を呼ぶに至っているのだが、その中で、前回書いたように「鳥」は、完全に面目を失った。もっとも、野鳥のほうは、「野鳥を飼う」ことから「野鳥を見る」あるいは「野鳥を撮る」ことへとシフトしたので、鳥の人気は高齢者を中心にかつてない高まりを見せているのだが、とうてい猫の、あるいは犬の人気に及ぶところではない。

 ついでだから書いておくが、昨今、野鳥撮影の現場で、ヒマを持て余して、そこそこの小金を持ったバアサンなんかが、野鳥撮影でもしてみようかと300ミリとか400ミリとかいった超望遠レンズを、一眼レフとかミラーレスとかのカメラにくっつけて、「あ、ジョビオだ。」とか「なんだ、ジョビコか。」とか、変な隠語をわざわざつかって、いい気になって撮影しているのを見かけるが、ほんと、嫌だ。家の猫でも撮ってろっていいたくなる。(注:ジョビコ=ジョウビタキの雌のことらしい。ジョビオ:ジョウビタキの雄のことらしい。)

 さて、猫に戻るが、猫好きの人たちの過激さには、オソロシイほどのものがある。野鳥オバサンと違って、社会を動かすパワーがあるのだ。

 今から数十年前のことだが、高校の国語の教科書に、梅崎春生の「猫の話」という短編小説が載っていたことがある。貧乏な男が2階の下宿の窓から道路を眺めていると、車にはねられたらしい猫の死骸が片付けられることもなく横たわっている。男は、その雑巾のような死骸を毎日ぼんやり眺めているのだが、日が経つにつれて、その死骸が、ペチャンコになり、やがて、隅のほうからだんだん小さくなり、最後にはすべての断片がタイヤに運ばれて消えてしまうという話だ。もちろん、その猫に男は現代を生きる自分自身を重ねているのである。

 短くて、文明批評も含まれたいい小説で、ぼくも授業で何度か扱ったものだが、ぼくが教科書の編集委員になった20数年前、この小説のことが話題になったことがある。

 その頃にはもうこの小説は、どこの会社の教科書にも載っていなかったので、ぼくが「あれをまた載せたらどうでしょうか?」と提案したところ、編集部の人が、「いやいや、あれは、ダメです。猫が車に轢かれてペチャンコになって、そのまま放置されて、消えてしまうなんて残酷だと、現場の先生たちの評判が非常に悪いんです。」という。

 猫好きの教師には、この話は堪えられないらしいというのだ。そうなると、この小説が載っているというだけで、現場はこの教科書の採用をしないということになりかねない。それは教科書会社としても困るというわけで、どの会社でも掲載しないようになったらしい。結果的にみれば、猫好きが、この名作を教科書から葬り去った形となるわけで、まことにゆゆしき問題というべきかもしれない。

 こうしたことは、ままあることで、猫に関する小説では、志賀直哉の「濠端の住まひ」が、やはり猫を殺してしまうというところが現場の反感をかったらしく、あっという間に教科書から姿を消した。猫好きの勢いは増しこそすれ、衰えることはないのである。

 ちなみに、「猫の話」で、猫好きの悪評をかった梅崎春生は、実は猫好きだったようである。ただ、その「愛し方」が、尋常の猫好きとは異なっていて、猫に対して腹の立つことがあると、「蠅叩き」ならぬ「猫叩き」で叩いたりするなんてことを書いたものだから、多くの猫好きの反感をかって、もうお前の小説は絶対に読んでやらないぞとか、首をくくって死んでしまえとかいった脅迫めいた手紙が、何十通と自宅に舞い込んだという。それが昭和20年代の話である。(講談社文芸文庫『悪酒の時代・猫のことなど──梅崎春生随筆集』)

 まったく、今も昔も、猫好きにはかなわない。

 


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一日一書 1729 寂然法門百首 77

2022-12-10 13:53:29 | 一日一書

 

人身聖教難可再

 

いつの世にこの身となりて法(のり)の花かさねて春にあはんとすらん
 

半紙

 

【題出典】『菩薩戒本宗要』

 

【題意】 人身聖教難可再

人身、聖教、再びすべきこと難く


【歌の通釈】
いったいいつの世にありがたくもこの人間の身となって、さらにまた仏法の花を重ねた春に会おうとしているのだろうか。 

【考】
人間として生まれ、しかも仏法を聞くことができるのは、本当に稀で奇跡的な有難いことで、再びこのような境遇に生まれ変わることは至難のことである。だから、むなしく過ごしてはならないと説く。法の花が咲きほこる春とは、いかにもありがたさを感じさせる表現。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

●仏法を学ぶということに限らず、この世に生きているということは、「学ぶ」機会を与えられているということで、それは本当に奇跡的なこと。だから、一寸の光陰も軽んじてはならないとは、中国の古典でも、力説されていることです。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 95  郷愁の鳥  【課題エッセイ 2 鳥】

2022-12-09 15:30:03 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 95  郷愁の鳥  【課題エッセイ 2 鳥】

2022.12.9


 

 73年もの長きにわたって生きてくると、「世の中変わったなあ」という感慨を持たないものとてない。今ぼくが装着している腕時計も、「アップル・ウオッチ」というシロモノで、これでなんと電話ができる。腕時計で、もしもし、なんてやってると、子どもの頃に見たSFっぽいテレビドラマの世界のなかに紛れ込んだような気がするし、事実そのとおりの世界にぼくらは生きているのだ。

 そういう何をとっても、「世の中変わったなあ」と思わざるをえない中でも、今回のお題の「鳥」は、地味だけど、つくづく変わったと思えることのひとつだ。

 ぼくの生まれ育った町は、南吉田町といって商店街(「お三の宮商店街」と言った。)だったのだが、そこを含む通称「八ヶ町(はちかまち)」は、いくつもの細長い町が並行していた。東にむかって、いちばん北側から、日枝町、南吉田町、山王町、吉野町、新川町、二葉町、高砂町、そして川を挟んで、睦町という八つの町が整然と並んでいた。

 この中で、いまでも、ぼくには不思議な印象を残しているのが、新川町と二葉町だ。どこがどう不思議だったのか、子どもにははっきりとは分からなかったのだが、ぼくの印象に残っているのは、その町では、鳥を飼っている家が特に多かったということだ。

 なかでも、大きな間口の家の「店先」のような感じのところで、ヒバリを飼っている家があった。そのヒバリを入れる籠が独特で、1メートルぐらいあるような円筒形をしていた。ヒバリは高い空に昇りながらさえずるので、そんな特別な籠にいれるのだということを、誰からともなく聞いたような気もするのだが、その程度の「高さ」で、ヒバリは満足して、美しくさえずったのだろうか、といまでも不思議だ。

 新川町、二葉町のあたりは、小学校の同級生の家に遊びにいった折りだったのだろうか、通りかかると、商店街とはまったく様子の異なる家が並んでいた。黒い板塀とか、かすかに聞こえる三味線の音が記憶の中に残っているような気がする。

 こうしたこの町並みの不思議さがずっと忘れられず、あそこはどういう町だったんだろうとずっと思ってきたのだったが、最近になって、そのあたりは、戦前は遊郭のあった町で、「日本橋花街」と呼ばれていたということを知った。戦後は、焼け野原になったけれど、進駐軍相手の遊郭が栄えたともいう。(こちらのブログをご覧ください。)

 横浜の花街は数多く、歌丸さんの生まれた真金町あたりの一帯の花街が有名だが、この「日本橋花街」は、今では知る人もあまりいない。けれども、ぼくの町のほとんど目の鼻の先にあったこの花街は、物心つく前のぼくにも、なにか別の世界があるという感覚を植え付けたようで、その接点ともいうべきものが「籠の中のヒバリ」だったというわけだ。

 店先にヒバリの籠をずらりと並べたその家は、芸者置屋だったのか、それとも、ぜんぜん別の職業の家だったのか、今となっては分からない。しかし、少なくとも、商店がたちならび、職人が住む、南吉田町には、そんな「粋」な家は一軒もなかった。「粋」かどうかは怪しいもので、実際にはそこは苦界だったのだろうけど、一種の非日常が漂っていたことは確かだ。

 非日常といえば、毎月、1と6のつく日には、伊勢佐木町の6〜7丁目あたりでの縁日があった。ぼくらの商店街のすぐ先だから、ぼくは、いつも楽しみに、この縁日に行ったものだが、その縁日にも「鳥」がいた。ヤマガラである。

 この鳥は、人懐こいところがあって、飼育も簡単だったのだろうか、芸を仕込むことができたらしいのだ。芸というほどのものではないが、「ヤマガラのお神籤」である。

 直方体を横にしたような鳥かごの一方に、小さな社が作って入れてある。その社の前にはヒモのついた鈴がある。もう一方の端から、ヤマガラにエサを与えると、ヤマガラはちょんちょんと社の前に行って、鈴のヒモをひっぱる。すると、中から丸まったお神籤が出てくる。そのお神籤を口にくわえて、エサを与えたお客に渡してくれるといった寸法だった。

 エサを与えるのが先か後か、どうも記憶が曖昧だが、とにかくそのヤマガラの動作が愛らしく、見ていて飽きなかった。お神籤が嫌いなぼくは、一度も引いたことはなかったけれど。

 後年、鳥の写真撮影に夢中になって、初めてこのヤマガラの写真を撮ったときも、久しぶりの旧友に会ったような気がして嬉しかったものだ。

 戦後生まれの町の子にとっての「鳥」は、こうした郷愁を伴って、まず思い出されるのである。

 


(注)野鳥を飼育することは、2012年に最後に許可されていたメジロが禁止対象となったことで、以後一切できないことになった。

   こちらをご覧ください。

   また、こちらもどうぞ。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 233 志賀直哉『暗夜行路』 120  波乱の予兆  「後篇第三  十四」 その1

2022-12-08 10:39:26 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 233 志賀直哉『暗夜行路』 120  波乱の幕開け  「後篇第三  十四」 その1

2022.12.8


 

 さて、謙作夫婦の住む家もようやく決まる。

 

 十日ほどして二人は衣笠村(きぬがさむら)にいい新建ちの二階家を見つけ、其所(そこ)へ引移った。一月の、それは京都でも珍らしい寒い日だった。建って漸(ようや)く壁の乾いた所で、まだ一度も火の気の入らぬ空家では、寒さは一層身に堪えた。
 S氏の会社の年寄った小使が手伝いに来た。その小使が、
 「此所(ここ)は女御(おなご)はんだけでは御留守が淋しいですな。別に物騒なちゅう事もありますまいが、犬を飼われたら、よろしな」といった。それで謙作はその人に犬の世話を頼んだ。
 その晩は、あるだけの火鉢に火を一杯におこして部屋を温めてから寝た。


 相変わらず簡潔な記述である。

 新築の家の寒さ、それも「京都でも珍しい寒い日」の寒さが肌に実感される。

 手伝いに来た小使が、犬を飼ったらどうかという。いわゆる番犬である。今では、犬を飼うといえば室内のペットとしてばかりだが、犬の本来の(?)飼育目的は、「番犬」としてだ。だから、当然、屋外で飼う。つい最近まで、そういうものだった。といっても、その「つい最近」が、数十年前だったりするのだが。

 ここにある「衣笠村」は、1918(大正7)年に廃止されて、京都市北区に編入されているから、志賀直哉がこれを書いている時点では「衣笠村」はすでにないことになるが、「衣笠」の地名は今でも存在するから、特に問題はないだろう。

 この「衣笠村」には、堂本印象などの日本画家たちが多く住んでいたということで、そういう土地柄もあって、ここを新居の地として設定したのだろう。

 


 彼は二階に書斎をきめた。机を据えた北窓から眺められる景色が彼を喜ばした。正面に丸く松の茂った衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峰の一部が見えた。それから左に高い愛宕山、そして右に、ちょっと首を出せば薄<雪を頂く叡山が眺められるのである。彼はよく机に向ったまま、何も壽かずにそういう景色を眺めていた。
 二人はよく出歩いた。花園の妙心寺。太秦の広隆寺、秦の河勝を祭った蚕の宮、御室の仁和寺、鷹ヶ峰の光悦寺、それから紫野の大徳寺など、この辺をよく散歩した。そして夜は夜で、電車に乗って新京極の賑やかな場所へもよく出掛けた。近くでは「西陣京極」といわれる千本通りのそういう場所へも行った。

 


 こんな場所に新居を構えるなんて、羨ましい話だが、家賃はどのくらいだったのだろうか。作家としての収入がどのくらいあったのかしらないが、いずれにしても謙作は、「お金持ち」だったことは確かだ。しかし、実家からの援助というのも、考えにくいし、この辺がちょっと分からないところである。

 この書斎からの眺めは、「羨ましい」を通りこしている。金閣寺の一角に住んでいるようなものだもの。

 書斎というものは、北向きの部屋がいいとされている。日当たりが悪い部屋のほうが本が焼けずに済むということもあるし、気も引き締まるというものだろう。日がな一日、ぽかぽかと日が当たるような部屋では、思索どころではないだろう。ちなみに、ぼくの「書斎」にも、いっさい日は差し込まない。理想的な北向きの部屋である。だからといって、思索が深まっているわけではないのは、いうまでもない。

 こういう、眺めのいい書斎を持ち、ちょっと出歩けば、いろいろなお寺巡りもできて、さらには歓楽街にもすぐに行ける。やっぱり羨ましいとしかいいようがない。

 そういう理想的な環境で、二人は新婚生活を始めたのだが、はやくも波乱の予兆がある。ようやく物語は動き始める。

 

 その頃丁度中学では謙作より二つほど下だったが、家の近い所からよく遊んでいた末松が、岡崎の或る下宿に来た。四、五年前に此所の大学に入ったのだが、病気のために二年ほど休んで、いまだに年の半分位ずつ東京から出て来ては残った試験を受けている。この末松がある晩、謙作の書いた物をよく見ているという青年を連れて訪ねて来た。
 「水谷君は君の書くものと阪口君の物とが一番好きなんだそうだ」こう末松がいった。
 謙作は返事に困った。阪口と一緒に好かれてる事も困ったが、面と向かって自分の作物をこういわれると彼は毎時(いつも)返事に当惑する方だった。
 「水谷君も文科で、今年大学へ来るんだ。僕にはよく分らないが詩でも歌でも何でもやるよ」
 「その内何か出来たら、お暇の時に見て頂きます」水谷は割りにハキハキした調子でいった。
 「阪口には会った事あるんですか?」
 「いえ、まだ一度もお眼にかかりません」
 直子が茶や菓子を持って入って来た。謙作は末松に紹介した。それから水谷にも。
 直子は何時の間にか着物をかえ、髪も綺麗になでつけて、如何にも新妻らしい、しとやかさで、客の前に茶や菓子を進めた。
 「君は奥さんのお従兄(いとこ)を知ってるんだね」末松は顧みていった。
 「ええ。要(かなめ)さんとはずっと中学が一緒でございました。それから、久世(くぜ)君もそうです」
 直子は故(わけ)もなく赤い顔をした。要というのはN老人の息子で今東京の高等工業に入っている。謙作は会った事はないが、名だけはよく知っている人だ。そして彼は、
 「久世君というのはどういう方?」と直子の方を向いて訊(き)いた。
 「要さんの御親友で、同志社の大学にいらっしゃる──そら! 貴方(あなた)のもの讃めていらっしゃる方よ」直子は謙作にだけは如何(いか)にも自由な調子で後を早口にいった。結婚の話の時、作家としての謙作の評判を訊いたというその人の事である。
 「そうか」
 「久世君もぜひお伺いしたいといっておりますがお差支えございませんか?」
 「ええ。何時(いつ)でも」
 直子はほとんど寄添うように近く謙作の側に坐っていた。謙作は何か、客の手前、具合悪い感じをしながら、故意(ことさら)、直子に無関心でいようと努めたが、それがまた、故(わざ)とらしくなりそうで困った。彼は何気なく居ずまいを直す時になるべく直子から身を離した。
 「要さんからは時々お便りがございますか?」水谷は年に似合わず、こんな風に直接直子に話しかけたりした。
 「いいえ、ちょっとも」こういいながら直子は謙作の方を向いて、「ひどいわ。此方(こちら)ヘあがってから一度も便りをくれないのよ」といった。謙作は黙っていた。

 


 いろんな人間が、過去のいきさつも含めて出てくるので、しっかり読まないと混乱するので、整理しておく。

 まず、末松というのは、謙作のいわば幼なじみで、近所に住んでいた。それが、おとなになって、大学の関係で京都に来たり、東京へ帰ったりしていたわけだ。謙作より2歳年下。

 水谷というのは、その末松の京都での友人。文学青年である。

 この水谷が直子の従兄である要と中学が一緒で友人だった。要というのは、N老人の息子。

 久世も、水谷・要と中学が一緒で、要の親友。この久世は、同志社にいて、謙作のファン(?)である。

 あとは、阪口だが、これはもうこの小説の発端から出てきていた謙作の友人で、一悶着あった男だ。「時任謙作の阪口に対する段々に積もって行った不快も阪口の今度の小説でとうとう結論に達したと思うと、彼は腹立たしい中にも清々しい気持になった。」というのが、「暗夜行路」の最初の(「序」は別として)一文で、「暗夜行路」は、この阪口との反目をもって、始まるのだ。

 まあ、だからといって、ここで阪口が大きな役割を担うわけではない。しかし、この阪口をまたぞろ持ち出すところに、謙作の(志賀直哉の)しつこさがあるといってもいかもしれない。

 問題なのは、従兄の要のようである。

 とにかく、直子の不倫行為が、この「暗夜行路」後半の一大問題なのだから、ここは細かく読んでいかねばならない。

 目に付くのは、直子の意外な態度である。「意外」というほどのこともないが、謙作には「意外」な感じを与えたであろう直子の態度だ。まずは、

 

直子は何時の間にか着物をかえ、髪も綺麗になでつけて、如何にも新妻らしい、しとやかさで、客の前に茶や菓子を進めた。

 

 の部分。ここには「意外」性は少しもない。むしろ、新妻としては当たり前の心使いだろう。謙作もそれに不快を感じているふうでもないが、しかし、「何時の間にか」に、「え?」という心理を匂わせている。いつ着替えてきたんだろう。着替える必要があるんだろうか。といった、ちょっとした戸惑いだ。

 その後、

「ええ。要(かなめ)さんとはずっと中学が一緒でございました。それから、久世(くぜ)君もそうです」
直子は故(わけ)もなく赤い顔をした。

 

 とあるわけだが、この直子の赤面は、「わけもなく」と書かれているが、そう書くということは「わけがありそうだ」と謙作が思ったからだろう。「わけがありそうだが、そのわけがわからない」といえば、より正確だろうか。

 

直子は謙作にだけは如何(いか)にも自由な調子で後を早口にいった。

 

 直子が謙作だけには「自由な調子で」ものを言うのは、謙作にとっては好ましいことだろうが、「後を早口にいった」のは、自分の気持ちを悟られまいとしての「早口」じゃないのかといった疑念があるようにも勘ぐれる。

 

 直子はほとんど寄添うように近く謙作の側に坐っていた。謙作は何か、客の手前、具合悪い感じをしながら、故意(ことさら)、直子に無関心でいようと努めたが、それがまた、故(わざ)とらしくなりそうで困った。彼は何気なく居ずまいを直す時になるべく直子から身を離した。


 ここでも、謙作は必ずしも「不快」を感じているわけではない。むしろ、そういう直子の態度を内心では喜んでいるのかもしれない。二人の客の手前を恥じているだけのようにも思える。しかし、そうであってもなお、「おまえ、ちょっと馴れ馴れしいんじゃないか。」と咎めるような気分も混ざっているようにも見えるのだ。そして、

 

「要さんからは時々お便りがございますか?」水谷は年に似合わず、こんな風に直接直子に話しかけたりした。

 

 直子へのちょっとした戸惑いは、水谷へも向かう。「年に似合わず」という表現がこの後も出てくるのだが、その背景には、年若いものは、年長者の前では控えめであるべきだという謙作の倫理観のようなものがあるのだろう。そういう謙作の前で、水谷の物言いは、馴れ馴れしい。初対面の、しかも、「作家」の謙作の新妻に対して、「直接に」話しかけていいものだろうか、と謙作は感じるわけだ。

 そういうところへ、直子は、こんなふうに答える。

 

「いいえ、ちょっとも」こういいながら直子は謙作の方を向いて、「ひどいわ。此方(こちら)ヘあがってから一度も便りをくれないのよ」といった。謙作は黙っていた。

 

 「ひどいわ」とか「くれないのよ」とかいった甘ったれたものいいは、さすがに慎みを欠いたもので、「ひどいかどうか、そんなことはオレの知ったことか!」とばかり、謙作は、ムッとするのだ。少しばかりの嫉妬も混じっただろう。それを、「謙作は黙っていた。」の一言で表す。

 波乱の幕開けである。

 

 

 

 

 


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