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日本近代文学の森へ 245 志賀直哉『暗夜行路』 132 看護婦林と「小さい医者」 「後篇第三  十八」 その4

2023-06-28 10:05:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 245 志賀直哉『暗夜行路』 132 看護婦林と「小さい医者」 「後篇第三  十八」 その4

2023.6.28


 

 赤ん坊の手当をするには、栄養補給が大事で、その栄養は母乳なのだから、何よりも母親の乳がとまらないようにすることが肝心だ。だから、直子の精神の安定が大事だと、医者は言った。


 「それでね」謙作がいった。「あなたの床は茶の間の方へ移すからね。お乳の時だけ此方(こっち)へ来て飲ますのだ」
 「ええ」直子は小さな声で微(かす)かに答えたが、そのうち急に泣き出した。
 間もなく医者は帰って行った。
 「あなたはよほど気をしっかり持っていないと駄目だよ。あなたがいくら心配した所で、直接病気のためには何にも出来ないんだからね。それより乳がよく出るよう、出来るだけその方には呑気になる心掛けをしてなければいけないよ」
 直子は泣腫(なきは)らした眼で、そんな事をいう謙作の顔を睨むように見ていたが、
 「随分無理な御註文ね」といった。
 「いくら無理でも、あなたがその気になっていてくれねば困る事は分っているね」謙作も不意に亢奮しながら、早口にいった。
 直子は黙って眼を伏せてしまった。謙作は前夜一睡もしなかった所から充奮し易かった。それに、こういう降って湧いた不幸が彼には変に腹立たしかった。
 「子供が病気になったのを呑気にしていろというのが、無理な註文<らい初めから分った事だ。それを無理でもそうしなければ、乳が止まるからそういってるんだ」
 「どうかそういわないで頂戴。私にもよく分っているの。──実は実家(さと)の近くで、丹毒で亡くなった赤ちゃんがあるのよ。それを知っているので、何だか心配で仕方がないの──だけど、本統に私、出来るだけ病気の事、忘れるように心掛けますわ。貴方が心配していらっしゃる所に、そんな事をいって悪かったわ」
 「うむ。そんなら、それでいいけど、──その赤ちゃんの病気は何時頃の話だい」
 「もう四、五年前」
 「そう。それじゃあ、今日の注射液の出来てない頃だな。その時分からはそういう方もきっと進んでいるだろう。Kさんも早く気が附いたから、大丈夫だといっているのだから、あなたは本統にその気でいる方がいいよ」
 「ええ」
 「それに林さん(看護婦)がいい人で大変幸(さいわい)だ」
 「本統に、私も安心してお任かせしておけるわ」


 子どもが重病なのに、その子どものことを心配しないでゆっくり休め、というのは、いくら何でも無理な注文だ。そのことを謙作も分かっているのだが、無理だろうが何だろうが、それしか方法はない。それが合理的だ。だから、直子にそれを押しつけようとする。そうしなくてはいられない。

 そこには、謙作のエゴがある。「こういう降って湧いた不幸が彼には変に腹立たしかった。」というところにそれが端的に表れている。子どもの突然の病気は、たしかに「降って湧いた不幸」だ。そしてそれは「変に腹立たし」いに違いない。けれども、この言い方には、どこか「他人事」のような冷めたところがある。こんなことさえ起こらなければ、自分は、今までもどおりの平穏な生活を送ることができたのに、いったい何だ! という癇癪が透けて、あるいははっきりとみてとれる。

 しかし、だからといって、謙作が人並み外れてエゴイストだということでもないだろう。突然訪れる「不幸」を前にして、こんな思いにとらわれない人間は、むしろ少ないだろう。

 医者のいう合理的判断は、同時にまた謙作の判断でもあったが、直子は、そういう合理性は承知のうえで、「経験」を持ち出す。「呑気でいろ」という合理的指示を裏切るのは、こうした「経験」だ。そして、それは重い。

 そんな話をしていると、玄関に誰かが来た。看護婦が応対に出た。この看護婦は林といって、お産のときから謙作の家に来ている。その後も、ずっと付き添っていたようで、謙作夫婦の信頼もあつい。


 玄関に誰れか来たらしいので、謙作は直ぐ自分で起って行った。赤児が眠っていた時で玄関には看護婦が先に出ていた。来たのは前夜頼んだ近所の医者だった。看護婦は前夜その医者が来た時から、変に軽蔑を示していたが、今日はそれより、もっと反感を現わしてつけつけ何かいっていた。消化不良ではなく丹毒という事、栄養が大事だから乳は成べく充分に飲ますようという事だった、など、先に《こたえる》事を立て続けにいった。
 「ははあ、いや、それはどうも、おいたわしいですな……」こんな事をいいながら、小さい医者は引っ込みのつかぬ形で弱っていた。
 「実はついこの先の病家まで来たものですから、どんな御様子かと思って……」医者は具合悪そうに謙作の方を向いて云訳(いいわ)けをした。
 謙作は医者が気の毒でもあり、それにどういう場合、簡単な事でまた頼まぬとも限らぬ気がしたので、
 「折角(せっかく)ですから、貴方にも、もう一度診(み)ておいて頂きましょうか」といった。
 「いや。K先生のお診断でしたら、決して間違いはございません。では、まあお大事に……」
 こういうと小さい医者は逃げるように帰って行った。


 この看護婦の描き方、「小さい医者」の描き方、いずれも、見事なものだ。

 女中のお仙もそうだが、「暗夜行路」では、いわゆる「脇役」が、妙に輝いている。ここでも、看護婦の林は、容姿やら言葉遣いやらに、とくにこれといった描写はないのに、その行動によって、その人間が、生き生きと立ち上がってくる。

 「小さい医者」が、前夜やって来たときから「変に軽蔑を示していた」のは、おそらく、この医者のことを知っているからだろう。評判のよくない医者だったに違いない。だから、林は、なんだこの人か! と軽蔑を示したわけだ。しかも、その見立てが誤っていたものだから、その「変な軽蔑」は、「反感」にエスカレートし、「つけつけ」とK医師の見立てを報告するわけである。この林の、きっぱりとした性格には、胸のすく思いがする。

 しかし、こういう時の謙作もおもしろい。その林看護婦に決して便乗しない。立ち位置を引いて、客観的な判断をするわけだが、しかし、その前に、同情が入る。

 看護婦につけつけ言われてぐうの音も出ない「小さい医者」を見ていて、謙作は、「気の毒」に思うのだ。普通に考えれば、自分の子どもが生きるか死ぬかという病気であることを見抜けなかった医者に対して、怒りがこみ上げるところだろう。看護婦がつけつけ言ったら、そうだそうだ、お前はそれでも医者か、などと怒鳴ったっておかしくない。けれども、謙作は、案外冷静なのだ。この冷静さは、先述した「どこか他人事」の気分のつながりかもしれない。

 この土壇場で、謙作は、どこか冷めていて、事態を離れたところから客観的に俯瞰する視点を失っていないのだ。

 「それにどういう場合、簡単な事でまた頼まぬとも限らぬ気がした」というのも、実に冷静な判断だ。そのうえ、この医者にもう一度診てもらいたいと申し出る。こうした冷静なのか、気配りなのか、あるいは世智に長けたというのか分からない謙作の言動には、ちょっと驚かされる。

 「小さい医者」のほうも、いわゆる藪医者なのだろうが、その誠実さが好ましい。志賀は、こういう人物を徹底的に否定せずに、いたわりをもって描いている。自分のくだした診断に自信が持てなかったのだろうか、わざわざたずねてきて、看護婦につけつけ言われ、面目まるつぶれになり、挙げ句のはてに、もう一度診てくださいと謙作に言われて、それこそ「這々の体(ほうほうのてい)」で逃げ帰っていく医者。その医者の後ろ姿を見送る謙作の視線は、決して冷たくない。

 

 

 

 


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一日一書 1733 寂然法門百首 81

2023-06-18 17:56:21 | 一日一書

 

如空中雲須臾散滅


風に散るありなし雲の大空にただよふほどやこの世なるらん
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』大文一

 

【題意】 空中の雲の須臾(しゅゆ)にして散滅するが如し。

空中の雲が一瞬にして消えるようなものだ。


【歌の通釈】
風に散るあるかないかの分からないような雲が大空に漂う一瞬が、この世のありさまなのだろうか。

【考】
題は、世のはかなさを、一瞬にして消える雲で比喩したもの。その雲を「ありなし雲」という歌ことばを用いて表現し、さらにそれが風に散ると詠み、はかなさを強調している。左注では、無常の雲という題と歌の主旨から離れて、澄んだ心を覆う煩悩の雲の厭わしさを述べ、来迎の紫雲のみを心にかけるよう説く。 

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


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日本近代文学の森へ 244 志賀直哉『暗夜行路』 131 「丹毒」という病気 「後篇第三  十八」 その3

2023-06-08 10:31:25 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 244 志賀直哉『暗夜行路』 131 「丹毒」という病気 「後篇第三  十八」 その3

2023.6.8


 

 いかにも頼りなさそうな医者は、不得要領の診断をして帰っていったが、赤ん坊は、夜中泣き続ける。夜明けを待って謙作は、K医師の自宅に行き、往診を頼む。

 

 一時間ほどしてK医師は来た。半白の房々とした口髭を持った大柄な人で、前夜の見すぼらしい医者とは見るから何となく頼りになった。医者は挨拶もそこそこに赤児の今までの経過に就いて色々訊ねた。赤児は丁度乳を飲んで泣止んでいる時だったが、医者がちょっと手を額に当てると直ぐ泣き出した。医者は手を離し、泣いている赤児を凝(じ)っと暫く見ていた。その顔をまた直子は寝たまま上眼使いに凝っと見詰めていた。
 「とにかく、身体(からだ)を一つ拝見しましょう」医者がいった。
 看護婦は障子を閉めてから、赤児を受取り、小さい蒲団に寝せて、何枚も重ねてある着物の前を開いた。
 「それでよろしい」医者は近寄って、胸から腹、咽(のど)、それから足まで叮嚀に調べ、二つ三つ打診をしてから、自身で臍(へそ)の緒の繃帯(ほうたい)を解き、大きな年寄らしい手で下腹を押して見た。赤児は火のつくように泣いた。
 「ちょっと背中の方を出して下さい」
 看護婦は袖の肩から赤児のいやに力を入れて屈(ま)げている小さな手を一つずつ出して、裸の赤児を医者の方に背中を向け、横にした。赤児は両手を担ぎ、両足を縮めて、力一杯に無闇と泣いた。腹を波打たせながら泣く、その声が謙作には胸にこたえた。直子は怒ったような妙に可愛い眼をして黙ってそれらを見ていた。
 医者は叮嚀に背中を調べた。そして尻から一寸ばかり上に拇指(おやゆび)の腹ほどの赤い所を見附けると、なお注意深く其所(そこ)を見ていたが、やがてこごんだまま、顔だけ謙作の方へ向け、
 「これです」といった。
 「何ですか」
 「丹毒(たんどく)です」
「…………」
直子は眼を閉じ、そして急に両手で顔を被(おお)うと寝返りして彼方(あっち)を向いてしまった。

 


 「丹毒」という病名は、今ではあまり聞かないから、もう過去の病気かとなんとなく思っていたのだが、調べてみると、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」と同じ(?)病気だということで、それなら、よく聞く。つまり、力士がよくかかるからだ。「蜂窩織炎で休場」というのはよくあることだ。なかなか難しい病気らしい。

 この「丹毒」という病名は若いころから知っていたが、それは、まさに、この「暗夜行路」を読んだからだ。高校の「現代国語」の教科書に、「暗夜行路」の一部が載っていて、その一部というのが、この子どもの死を描いた部分だったのだ。そのとき、「丹毒」という病名が強烈に印象に残った。しかし、印象に残っただけで、特にその病気について詳しく調べることもなかったというわけだ。

 志賀直哉は、大正3年(1914年)結婚する。大正5年6月に、長女慧子が生まれるが、生後一ヶ月半ほどで腸捻転のため死亡。大正8年6月、長男直康が生まれるが、生後37日に、丹毒のため死亡している。当時、赤ん坊が無事育つということが、いかに大変なことだったかがよく分かる。

 この赤ん坊の病気と死は、長男の死亡の経験をもとに描いたことは間違いないだろう。そうでなくては、これほど精細な描写はできない。フィクションというのは、そう簡単なことではない。

 医者は、早く手当をすれば心配なくすむだろうというが、謙作は不安に駆られる。しかし、医者に聞くのはおそろしい。


 謙作は明瞭した事を訊くのが恐ろしかった。彼はそういう不安と戦いながら、それでもやはり訊かずにはいられなかった。
 「どうでしょうか」
 「せめて生後一年経っておられるとよほど易(らく)なのですが──しかし早く気が附いたから、どうか食い止められるかも知れません」
 医者はなお、丹毒は大人の病気としてもかなり困難な病気で、まして幼児では病毒と戦ってしまいまで肉体がそれに堪えられるか否かで分れるのだから、とにかく栄養が充分でないといけないという事、それには母乳に止まられる事が何よりも恐しく、出来るなら、母親だけ赤児の泣声の聴こえぬ所へ離しておきたいものだといった。


 医者は、母乳が命綱だから、母親の健康を保つために、母親に安心感を与えることが大事だとアドバイスするのだが、謙作には、そんなことは不可能に思えた。自分が不安なのに、妻に安心感を与えるなど、できるわけがない。それができれば苦労はない。


 「ええ」そう答えたが、謙作にはそれが不可能な事に思われた。医者が、どうにか食い止められるかも知れないといっている、それも信じられなかった。医者自身そう思っていないとしか考えられなかった。
 「幼児の丹毒といえば普通まあ絶望的なものになっているんじゃないですか」謙作は弱々しい気持になってこんな事をいった。
 「さあ、そうも決まりますまい。が、とにかくなかなか困難な病気です。蜂窩織炎(ほうかしきえん)、それから膿毒症とまで進まれたら、これはどうも致し方ありますまいな。しかしそうせん内に出来るだけ―つ手を尽して見ましょう」
 謙作は黙ってちょっと頭を下げた。


 「蜂窩織炎」という病名が、ちゃんと出てくるのでびっくりした。

 いずれにしても、幼児の病気というものは、心配なもので、ぼくのような心配性の人間には、なかなか厳しい。実は、こういう話を読むのも辛いというのが、本音なのだ。

 けれども、ここをすっ飛ばすわけにはいかないので、丁寧に読んではいるのだが、まあ、引用はほどほどにしておきたい。とにかく、発病から、死亡に至る経緯を、こと細かに書いているので、興味があれば、原典にあたっていただきたい。

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023-06-03 10:37:12 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023.6.3


 

 先日、中島貞夫監督の「木枯し紋次郎」についてフェイスブックに投稿したら、近くに住む中学以来の友人Hが、これを見ろといってTV版のDVDを貸してくれた。

 市川崑劇場のこのシリーズをどれほど熱狂して見たことか。大学時代のことで、当時中高時代の友人と作っていた同人誌に、このHと、のちに京都に住み、中島貞夫と親交を深めた友人Kの三人で、「誰かが風のなかで」と題する座談会を載せたことがある。今読むと、発言しているのは、HとKばかりで、ぼくは相づちをうっているだけなのだが、とにかく、ぼくらの熱狂ぶりが伝わってくる。

 その中で、Kは、この中村敦夫の紋次郎が、当時の世相を反映して、思想的文脈で語られることが多いのに反発している。おもしろいので、ちょっと引用しておく。

 

K:たとえば映画を批評するのにね、まずあの監督はどうこういう──そんなことはありはしないんだよ。絶対。実際みたらね、たとえば、ジャン・ルイ・トランティニアン(注:コスタ・ガブラス監督「Z」で、予審判事を演じた。主演はイブ・モンタン。1969年。)がやってるとしたらね。
H:(喜色満面で)うん、うん。
K:そこでまずトランティニアンの扮するね、それにシビれてね、その役者としてのトランティニアンを混同した上でね、すばらしい、すばらしい、といっているうちにそこから本当のアレがわいてくるんだよ。
H:そうそうジャン・ルイ・トランティニアンがさ、サングラスをかけてさ、(笑い)検事をやってる、あれがいいんだよ。
K:そうなんだよ。だいたいいっさいの映画ってのはそっから出発するのにね。今のインテリみたいな所はね、その、映画俳優が好きですっていうと、ミーハー的だって軽蔑したりするような所がある奴がいるわけよ。全部がそうだとはいわないけど。それ全然意味ないわけ。まずミーハー的にワーワー騒いでさわいでね。ああすてきだ、キャーキャー言ってね。そうした上で、それをしゃべってくうちに又何かでてくる。それをしゃべる前からね、「ジャン・ルイ・トランティニアン? 関係ありませんね。だいたい『Z』という映画は──」としゃべるなんて、くだらないんだ。全然意味ないと思うよ。たとえば又、紋次郎のTV見てね、「ああ市川崑の映画です。あれはすばらしい。」って言うわけね。関係ないんだな。市川崑であろうと何であろうと紋次郎って人間がいてまずすばらしい、それから普通の神経としたらまず中村敦夫にいくじゃない。で、中村敦夫って何て素敵な俳優だろうってね。それからはじめてカメラがいい、音楽がいい、監督がすばらしいことやってるってわかってくるんであってね、それが逆の見え方をするってのは全然おかしい。


(同人雑誌「拙者 5号」1972)

 

 このKは、後に美学者(映画や演劇が専門)となったのだが、映画に対する基本的な姿勢は、今でもちっとも変わらない。

 そんなこんなを思い出しつつ、このDVD収録の2話を見たが、当時ぼくが繰り返しみてはため息ついたオープニング映像が、カラーで見られることに感動し、中村敦夫のすがすがしい若さに感動し、当時画期的と言われた泥まみれのチャンバラに感動したのだった。

 Kが言いたかったことは、映画は、まず、没入体験があって、しかるのちに、批評的意識が芽生えるものだ。最初から批評意識でガチガチに構えて見たら、見えるものも見えないということだろう。

 今おもえば、ぼくの場合は、幼い頃の映画体験は、東映の時代劇だったわけで、それはそれでものすごい没入体験だったのだが、その後、「暗黒の中学受験期」を経て、中学に入ったころには映画もあまり見なくなり、ひたすら昆虫採集に熱中していたので、こうした没入体験は久しくなかった。大学に入ってから、紛争のあおりを受けて、ものすごくヒマになってしまったので、映画や演劇を見まくったのだが、やはり、「文学部への新参者」意識が根深くあって、Kの言う「逆の見え方」になっていたのかもしれない。

 この年になって、ようやく、映画のほんとうの見方が分かってきたような気がする。

 


 

 


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