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日本近代文学の森へ (167) 志賀直哉『暗夜行路』 54 迷う心 「前篇第二  六」 その1

2020-08-30 09:50:34 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (167) 志賀直哉『暗夜行路』 54 迷う心 「前篇第二  六」 その1

石井鶴三画「日本の文学21 志賀直哉(一)」中央公論社 より

2020.8.30


 

 お栄と結婚しようと思い立った謙作は、翌日、鞆の津の月も見ずに、尾道へ帰った。

 直接お栄に手紙を書こうと思ったが、「寝耳に水」を恐れて、兄の信行からお栄に「静かに」話してもらうより道はないと思った。

 


 謙作は信行にあて、これまでお栄に対しそういう衝動で随分苦しんだ事から、屋島で結婚を想い立つまでを正直に書いた。
 そして、しかしこの事は父上や義母上(ははうえ)や、その他本郷の人たちには甚だ不愉快な事であるのは勿論だが、愛子さんとの場合には父上はそういう事は自身やるようというお考だったから、改めて誰にも相談はしないつもりです。相談する事で、思わぬ邪魔が入っても面白くないし、それにもしこの事のために今後本郷へ出入りを差し止められるような事があっても、それは父上や義母上としては無理ない事だから、僕は素直な心持でそれをお受けするつもりです。というような事を書いた。
 恐らくお栄さんは吃驚(びっくり)する事でしょう。しかし其処(そこ)を君からよく理解の行くよう話して頂きた<思います。そしてこの事に関しては君にもお考があると思いますが同時に僕の性質も知っていて下さるのだから、甚だ虫のいい事ですが、とにかく僕の心持をそのままにお栄さんに伝えて頂く事をお願いします。と書いた。

 


 愛子との結婚については、父は、こういうことはお前が勝手にすればいいというような冷たい態度だったから、お栄のことについても相談なんかしない。一度言い出したら聞かないというぼくの性質も分かっているはずだから、お栄に、分かるように説明してほしいというはなはだ勝手な願いだが、それなら、わざわざ信行の手を煩わさなくてもよさそうにも思うのだが。

 この手紙とともに、謙作はお栄にもこんな手紙を書いた。

 


 大変御無沙汰しています。御変りない事と思います。……僕はこの手紙で何にも書きません。精しい事は総て信さんの方へ書きました。それはこれと同時に出しますから、恐らくこの手紙を御覧になった翌日には信さんが行って色々お話するはずです。そしてそれはあなたを吃驚さす事です。しかしどうかただ驚いていずに、よく僕の心持を汲んで静かに考えて下さい。そして臆病にならぬよう、何者も恐れぬよう、この事切にお願いしておきます。

 


 なかなか周到なことではある。「寝耳に水」を避けるために、クッションをもうけたということだろう。

 この手紙の文面をみるかぎり、謙作は、お栄が拒絶する場合の理由として、「臆病」を挙げている。結婚はしたいが周囲が何というだろうと考えて「臆病」になるかもしれないと思っているのだ。つまりは、お栄もできることなら謙作と結婚したいと思っているに違いないと踏んでいるわけである。「それ以外」の、お栄の「拒否の理由」は思いつかないのだ。

 

 彼はこの二つの手紙を書き終ると、かえって変な気落ちを感じた。これで自分のそういう運命も決ってしまったと思うと淋しい心持になった。しかしもうその事を迷う気はしなかった。そして、その時はもう夜も十二時過ぎていたが、この手紙をまだ投函しないという事でなお迷うようでは不愉快だという気持から、提灯をつけ、それから彼は停車場まで、それを出しに行った。

 


 妙な実感のあるところである。

 この重大な手紙を書き終わって感じた「変な気落ち」「淋しい心持」というのは、「これで自分のそういう運命も決ってしまった」という思いから生まれているわけだが、なんだかとても分かるような気がするのだ。

 人間というのは欲張りなもので、特に若いころは、自分には無限の可能性があるとどこかでうっすらと思っている。もちろん、うっすらどころか、盛大に思っている若者もいるはずだが、よほどの脳天気でないかぎり、自分の限界というもののほうをより強く感じるものである。それを知らない、というか目を向けようとしない想像力貧困な教師などは、声を張り上げて「君たちには無限の可能性があるんだ!」などと教壇で飛び上がって叫んだりするわけだが、想像力がありすぎるゆえのマイナス思考のぼくなどは、「君たちには無限の不可能性があるんだ。」なんて言っては生徒をしらけさせていた。

 ひとりと結婚することは、他の数千人、数万人という魅力的な女性との結婚を「不可能」にしてしまうことだ、なんてことは、なんの意味もない言説だが、事実としてはその通りなのだ。

 自分がせっかく勇気を出して書いた手紙が、自分の運命を決めてしまうということに、「なんだ、つまらない。オレの人生は、こんなもんだったのか。」といった思いを呼び起こしたということは、ある意味自然なことだと言えるだろう。

 しかし、若者が自分が恋い焦がれて身も世もあらぬ異性に、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、告白の手紙を書いた(メールでもラインでもいいけど)とき、「なんだ、つまらない。」とは普通思わないだろう。何年かたって、ああ、なんてつまらないことをしてしまったんだと、後悔することはあったとしても、少なくともその時は、若々しく、やったあ、これでオレの未来は薔薇色だ! って叫んだっておかしくないし、むしろそれのほうが普通かもしれない。

 この時の謙作が、「変な気落ち」「淋しい心持ち」を感じたのは、やっぱり、この結婚が、謙作が心から望む唯一の道ではなかったからだろう。20歳近くも年上のお栄は、40歳をすぎた、当時でいえばバアサンである。そんなことは障害にならないと謙作は思っているが、心の奥底では、なにもそんなバアサンと、という思いがないとはいえないだろう。しかも、その女性は、いわば義理の母のような存在なのである。

 謙作はお栄が昔から好きだったが、いざ結婚となると、そこにはやはり大きな飛躍があるのだ。それを自覚しない謙作ではないのである。

 


 返事の来るまでが不安であった。直ぐ返事を書くとしても間が三日かかる。しかし何かとぐずぐずしていれば五日位はかかるに違いないと思った。この五日間の不安な気持が今から想いやられた。彼はお栄に、「強くなれ、恐れるな」と書きながら、自身時々弱々しい気持に堕ちる事を歯がゆく思った。信行に対しても、自分の性質は知っていてくれるのだからと、他人の考では動かされないからという気勢を見せながら、いまだに二つの反対な気持が、自身の中でぶつかり合うのを腹立たしくも情なくも感じた。

 

 ここは解釈の難しいところだ。国語の試験なら、最後のほうの、「「二つの反対な気持」とはどのような気持ちのことか。」といった設問をしたくなるところ。

 ひとつの答は、「自分の中の強い気持ちと、不安におちいる弱い気持ち。」ということになるだろうか。しかし、信行に「他人の考では動かされないからという気勢を見せ」ながら、「二つの気持ちが自分の中でぶつかりあう」というのだから、強い気持ちと弱い気持ちのふたつの衝突といったのでは、すっきりしない。

 信行に対しては強がっているのに、何かが心の中でぶつかり合っている。それは、先の「変な気落ち」「淋しい心持ち」と関係があるのではないか。

 謙作は、二通の手紙を書いてから、投函するまでに「迷っている」。これで自分の運命を決めていいのか。ほんとうに自分はお栄と結婚したいのか。その「迷い」である。しかし、「この手紙をまだ投函しないという事でなお迷うようでは不愉快だという気持」から、えいやっとばかり投函してしまったのだ。「迷う」という心理的状態が「不愉快」だから、投函した。ということは、「迷い」がふっきれたから投函したということではないということだ。

 その「迷い」が尾を引いている。謙作が、「腹立たしくも情なくも感じた」のは、心の弱さのことではなく、まだ迷っている自分のことなのだ。

 実はそのことは、次の段落で詳しく書かれている。それを示したら「試験問題」は成立しないのだが。

 

 

 

 

 


 


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一日一書 1651 鵜の面に川波かかる火影かな 高桑闌更

2020-08-27 11:06:27 | 一日一書

 

高桑闌更(たかくわ・らんこう)

 

鵜(う)の面(つら)に川波かかる火影(ほかげ)かな

 

半紙

 

 

高桑闌更(1726〜1798)

  金沢の商家に生まれる。芭蕉復興を唱えて活躍。諸地方を行脚したのち京都に住んみ、花の本師匠となる。

 

 

馴染みのない俳人ですが、金沢に生まれて晩年は京都に住むなんて、いいなあ。

 

 

川の流れ、船をこぐ音、鵜匠のかけ声、といった聴覚の世界を想起させ、顔に飛び散る川波を受ける鵜、ほのめく篝火、背後の暗がり、闇と光の対照も鮮やかな動的な作品である。

(旺文社「俳句の解釈と鑑賞事典」中野沙惠)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 68 時空を超えた旅──ああ、渋谷!

2020-08-26 10:24:45 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 68 時空を超えた旅──ああ、渋谷!

2020.8.26


 

 今はこんなだけど、昔はこんなに素敵なところだったんだといった類いの話を聞くと、無性に悲しくなる。

 ただでさえ悲しいことの多い日々、なるべく「無性に悲しい」なんて心境にはなりたくないから、昔から、あんまりそういう類いの話は好きではなかった。

 好きではなかったのだが、最近は、やっぱりそういう話に無性に心引かれるようになった。これも年のせいなのだろうか。

 赤坂憲雄の「武蔵野をよむ」(岩波新書)を手にしたのも、そういう気持ちからだった。

 ちょっと前に田山花袋の「東京の三十年」を読んでいたら、やたらと国木田独歩のことが出てきて、そこに、独歩の渋谷の住まいを訪ねたエピソードが目にとまった。それによれば、独歩の住まいは、今の渋谷駅からそんなに遠くないところにあったという。

 明治時代の渋谷などといったら、それこそ江戸の郊外で、田んぼや畑が広がっていたんだというような知識はあったが、独歩の「武蔵野」がこの渋谷での生活体験をもとに生まれたとすれば、その住まいは渋谷よりずっと西、たとえば、幡ヶ谷とか、笹塚とか、いやひょっとしたら吉祥寺とかそんなあたりじゃなかったか、と、東京にまったく不案内なぼくは漠然と考えていたのだが、それがそうじゃなくて、渋谷駅のほど近く、つまり今のNHK放送センターあたりだったのだと、赤坂の本できちんと説明されて、あらためて、おどろいた。

 田山花袋は、独歩の住まいと彼のたたずまいをこんな風に描いている。

 


 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃(たんぼ)の中を流れているのが見え、その此方(こちら)の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。
 「此処らに国木田って言う家はありませんかね。」
 こう二、三度私たちは訊いた。
 「何をしている人です?」
 「たしか一人で住んでいるだろうと思うんだが……。」
 「書生さんですね。」
 「え。」
 「じゃ、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。」
 こう言ってある人は教えた。
 少し行くと、果して牛の五、六頭ごろごろしている牛乳屋があった。「ああ、あそこだ、あの家だ。」こう言った私は、紅葉や栽込(うえこ)みの斜坂の上にチラチラしている向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぼつねんと立っているのを認めた。
また少し行くと、路に面して小さな門があって、斜坂の下に別に一軒また小さな家がある。
 「此処だろうと思うがな。」こう言って私たちは入って行ったが、先ずその下の小さな家の前に行くと、其処に二十五、六の髪を乱した上(かみ)さんがいて、「国木田さん、国木田さんはあそこだ!」
 こう言って夕日の明るい丘の上の家を指した。
 路はだらだらと細くその丘の上へと登って行っていた。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮かな菊の一叢(ひとむら)二叢、青々とした菜畠──ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削(やせぎす)な青年がじっと此方を見て立っているのを私たちは認めた。

田山花袋「東京の三十年」

 


 このとき独歩が立っていたのが、今の「NHK放送センターあたり」だったのだということが、どうしても信じられない。信じられなくても、そこに独歩の住居跡という記念碑がたっているという。(これはちょっと見ておきたい。)

 赤坂の本は、ちょっと繰り返しが多くて、雑然とした印象もあるのだが、いろいろな本を紹介しているのがありがたい。

 中でもおもしろかったのは、大岡昇平の「幼年」という小説で、大岡の幼年時代の渋谷あたりの光景が描かれているという。しかも、田山が書き留めた「水車」に(というかその水車が廃止されて跡地に建った住居に)幼い大岡は住んでいたのだというのだ。これはぜひとも「幼年」を読まねばならない。

 読書は読書を呼び、つきることはない。

 昨今の渋谷駅周辺の再開発のすごさが何かと話題になっているが、すでに田山花袋はこの「東京の三十年」(1917年刊)の中で、東京という町のすさまじい変貌ぶりに驚き嘆いているのである。つまり、100年前から、ああ、昔の東京はどこへ行ったのだ! と、嘆いていたのだ。今更なにを嘆こうか。嘆いているより、時空を超えた旅を本とともにするにこしたことはなさそうである。

 

 

 


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一日一書 1650 髪剃や一夜に金精て五月雨 凡兆

2020-08-26 08:51:49 | 一日一書

 

野沢凡兆

 


髪剃や一夜に金精(さび)て五月雨(さつきあめ)

 


半紙

 


 


「かみそり」は普通「剃刀」と書くが、「髪剃」とも書きます。

 


 


旺文社「俳句の解釈と鑑賞事典」での、森田蘭の「句解」と「鑑賞」がなかなかいいです。

 

【句解】
五月雨(さみだれ)は昨日も今日も降り続けている。ふと剃刀を使おうと思って手にして見ると、昨日使えたものが今日は一面緑青で、湿気の中に妖しい色と光沢を放っている。


【鑑賞】
 不注意に読むと日常道具の些事としか読めぬだろう。が、梅雨期の何にでも黴(かび)の生ずる陰気でしめっぽい季節のときに、〈髪剃〉という刃物の錆に着眼すること自体、すでに非凡である。それは江戸趣味では律し切れない非常に近代的な感覚といってもよい。
 〈髪剃〉はここでは単に日常の道具であることを超えて、暗く陰湿な空間に、妖しい光と錆色を放つ小さな凶器である。〈五月雨〉は人間を倦怠と虚脱に誘うが、〈髪剃〉は狂気へ誘うかもしれない。


 

ただ、剃刀の錆が緑青だというのは、やはりおかしい。剃刀は鉄製でしょうから。森田さんの勘違いかなあ。

 

 


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一日一書 1649 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆

2020-08-25 09:06:33 | 一日一書

 

野沢凡兆

 

灰汁桶の雫やみけりきりぎりす

 

半紙

 

 

「灰汁桶」=水を満たして中に灰を投じ、底のせん口から灰汁がしたたるように仕掛けて桶。洗濯や染色用の灰汁を取るためのもの。

【句解】秋の夜も更けた。闇夜の静寂に聞こえてくるのは、〈灰汁桶〉の雫のポトポトという音だけであったが、それも間遠になり、ついにやむと、今度はこおろぎの声がひときわ耳に立つようになった。


(旺文社「俳句の解釈と鑑賞事典」森田蘭)


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