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何か

 バランスが取れていると、めったに掃除しなくていい。しかし白点病が発生してしまった。この九〇センチの水槽を掃除するのは何年ぶりだろう。
 三つ水槽を持っているが、その中でもこの水槽が一番状態が良かっただけに、少しショックだ。ここではテトラ類、ダニオ、ラスボラなどのコイ科、それにお気に入りのコリドラスを飼っている。
 住民の小魚たちは予備水槽に移ってもらった。水草はすべて廃棄しよう。
 水槽に手を入れ、水草を抜いていく。残念だがしかたがない。
 その時、指先にチクッと痛みを感じた。右手の人差し指に小さな切り傷ができて、血が出ていた。絆創膏を貼って作業を続ける。ガラスの破片でも水槽内にあったか。おかしい。この水槽はアクリルだ。ガラス製の器具を点検する。ヒーター、サーモスタット、天板、どの器具のガラスにも欠損部分はない。
 そのままにはしておけない。魚を傷つけてしまう。とりあえず水草を全部除去して水を抜こう。
 空になった水槽の内側にホースで水をかけてスポンジで洗う。ウェスでぬぐおうとした時、また指先に鋭い痛みを感じた。指先は水槽の底にも内壁にも触れていない。空中にある「何」かが私の指を切った。
 今度は大きく切った。人差し指の腹がざっくりと口を開けている。血がポタポタとしたたる。これはガラスの破片なんかじゃない。鋭利な刃物が水槽の中にある。しかし目に見えない。
 傷口を握り、目を凝らしながら、そっと手を水槽に入れる。内壁にも底にも触れないように充分に気をつける。
 何かがあるはずだ。何かがいるはずだ。両方の手首に熱を感じた。熱い。ゴトッと物が落ちる音がした。水槽の底に何かが落ちた。手首に違和感を感じた。底に落ちた物を取ろうとしたが取れなかった。当然だ。それは切断された私の手首だった。

 二一世紀のジャック・ザ・リッパーとそいつは呼ばれている。
 今月に入って九人目の犠牲者が出た。今度は背中だった。右肩から左の腰にかけて、ばっさりと袈裟がけ。まるで手練れの辻斬りにあったようだ。その前は、胴体を切断されていた。ヘソのあたりで上半身と下半身がきれいに切り離されていた。
 被害者は全員鋭利な刃物で切り裂かれ即死。犯人の手掛かりはまったくなし。現場に残された遺留品なし。九人の被害者の共通点なし。
 警部は三〇年以上警察でメシを食ってきたが、こんな犯人は初めてだ。犯人の、いや、犯人たちの、といった方がいいだろう。複数犯なのだ。B市で頭部切断。同じ時刻に四〇〇キロ離れたH市で胎児ごと子宮をえぐり取られた妊婦。死亡推定時刻は両方とも四日の午後一一時二四分。
 有力な目撃情報もない。ただ、一件だけ情報が寄せられている。目撃者はその時、飲み屋を三軒ハシゴしたあとで、酩酊状態だった。
 時間は深夜二時ごろ。場所はK市の歓楽街。歓楽街といっても裏通りで、人通りも少なかった。目撃者の前を酔漢が一人千鳥足で歩いていた。酔漢が突然倒れた。目撃者が助け起そうと走りよると、何かにけつまずいて転倒した。
 地面がぬるぬるしている。血だ。何にけつまずいたのか見た。切断された人間の足だ。倒れた酔漢を見ると左足が無い。
 あお向けに転がっている酔漢を見て、目撃者は吐いた。
 ノドから生殖器のあたりまで、真っ直ぐ正中線に沿って切り開かれていた。そこから、どろりと内臓があふれ出し、太い血管につながった心臓が、ごくわずかに脈動していた。 
 それは「犯罪」とはいえない。「現象」といっていいのだろうか。いや、「疫病」だろうか。
 人種、性別、老若男女、どのような共通点もない。場所、時間、特定できず。いつ、どこで、だれが、突然の死を迎えるのか一切わからない。
 横断歩道を歩いていた人の首がごろりと落ちる。テレビを観ていたお父さんのお腹が裂けて、臓物を部屋一面にまき散らす。全国民に演説をしていた大統領の上半身がストンと演説台の下に落ちる。
 なぜこうなるのか、なにがこうしているのか、何も判らない。対策はない。逃げ場もない。予兆もない。突然、斬れる。斬られる。
何かがいる。何かが。 
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