限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

軟財就計:(第10回目)『私のソフトウェア道具箱(その 10)』

2022-05-22 21:06:21 | 日記
前回

前々回から Britannica 9th のデータにアクセスするためのプログラミングに関して話をしている。私の欲しい情報が、百数十年前に編纂・出版されたこの百科事典にはある。ただ、百年以上も前の百科事典にどれほどの価値があるか納得できない人も多いことだろう。ここでは、中世のある文法学者に関する情報量を比較して、9thの特徴を見てみよう。

ところで、現在 Rhetoric(弁論術・雄弁術)についていろいろ調べているが、たまたまPriscian(プリスキアヌス)という中世の文法学者の本が広く読まれた、という記述に遭遇した。("Encyclopedia of Rhetoric", by Thomas Sloane, P.480-482)

Priscianという人物は知らなかったので、とりあえず、Wikipediaでチェックすると、英語("Priscian" )でも日本語(「カエサレアのプリスキアヌス」)でも説明がある。

この英語および日本語のWikipediaの記述をよむと、参考文献の項に次のような但し書きがついていた。
 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Priscian". Encyclopadia Britannica (英語). 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 360.

つまり、記事の本体は Britannica 11thから取られているということだ。それで、Priscian について、3つの Britannicaの記事を読んだが、各版は内容的にかなり異なっている。それらを比較することで時代背景や各時代に重要視されたことがかなりはっきりと分かった。以下、Priscianの記述を3つの版で比較してみよう。
【1】Britannica 11th
【2】Britannica 9th
【3】Britannica 最新のWeb版

【1】Britannica 11th

現在のWikipediaのPriscian に関する記事のソースは、Britannica 11thの次のサイトに原文がある
 https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Priscian

出だしの部分と最後の部分だけを取り出すと次のようになる。
ーーーーーー

Encyclopaedia Britannica, Volume 22 ― Priscian

PRISCIAN [Priscianus Caesariensis], the celebrated Latin grammarian, lived
about A.D. 500, i.e. somewhat before Justinian. This is shown by the facts
that he addressed to Anastasius, emperor of the East (491-518), a laudatory
poem, and that the MSS. of his Institutiones grammoticae contain a
subscription to the effect that the work was copied (526, 527) by Flavius
Theodorus, a clerk in the imperial secretariat. Three minor treatises are
dedicated to Symmachus (the father-in-law of Boetius). Cassiodorus, writing
in the ninety-third year of his age (560? 573?), heads some extracts from
Priscian with the statement that he taught at Constantinople in his
(Cassiodorus's) time (Keil, Gr. Lat. vii. 207).

...(中略)...


The best edition of the grammatical works is by Hertz and Keil, in Keil's
Grammatici latini, vols. ii., iii.; poems in E. Bahrens' Poetae latini
minores, the "Periegesis” also, in C. W. Muller Geographi graeci minores,
vol. ii. See J. E. Sandys, History of Classical Scholarship (ed. 1906), pp.
272 sqq.
ーーーーーー


11thでは、Priscianの出生を述べたあとに、彼の主著である『文法学教程』(Institutiones grammaticae)に関してざっくり説明し、記述の不備について述べる。とりわけ語源の説明が乱暴(wild)であることを非難する。この記述は、約1000語(ワード)程度に収まっている。

【2】Britannica 9th

Britannica 9thのPriscian の記述は次のサイトに原文がある。(Vol 19)
 https://digital.nls.uk/encyclopaedia-britannica/archive/190218840

11thでは主著である『文法学教程』について、わずかしか説明されていなかったが、9thでは全18巻のそれぞれの巻について、細かいフォントであるが、かなり詳しい記述がある。この本は、中世ヨーロッパで最もよく読まれたというラテン語の文法書と言われるが、どういうことが書かれていたかの概要を知ることができる。これだけ詳しく書かれているということで、『文法学教程』は19世紀の人間にとって、ラテン語文法に関する重要参考書であったことが分かる。

内容はともかく、分量的には11thの4倍(4400語)もあることに驚く。つまり、9thから11thに至る段階で、記事内容が大幅に削除されたということだ。実際、WikipediaのBritannica 11thの項には、9thとの比較で
 "more articles than the 9th, but shorter and simpler;"
と書かれているが、その実態をこのPriscianの記事で検証することができる。

9thと11thとの差はそれだけでなく、9thではギリシャ文字が使われているが、11thでは極力使うのを避けているようだ。また、9thではラテン語やギリシャ語の文章が英訳なしでそのまま記載されているが、 11thでは、英訳がついている。この事情を推察するに、11thになって(20世紀に入って)ギリシャ語やラテン語が読めない人たちにも Britannicaが利用されるようになったためであろう。 9thまでは、読者は暗黙の了解で、高等教育を受けた人、すなわちギリシャ語やラテン語が読める人、ということであった。この現象は、日本でも同じく、かつての辞書(例:諸橋の大漢和)では漢文が読み下し文なしで掲載されていた。



【3】Britannica 最新のWeb版

最新のBritannicaは、ウェブで無料公開されている。課金無しであるは結構だが、内容的にはギリシャ・ローマの古典文学にたいしてはかなり冷たい。Priscianに関する記述文は、約360語程度しかない。つまり、現在ではPriscianは特定の専門家を除いて、全く関心の持たれない人であるということが分かる。つまり、中世のラテン語文法書に関して、一般人は知る必要がないということになる。

 ****************

このように、英語圏における、Priscianという人物の価値、及び中世のラテン語文法書が重要視されたのは19世紀までであるということが分かった。他のヨーロッパ諸国ではどうであったかということを知るためにフランス語とドイツ語の百科事典で Priscianについて調べてみよう。この2つの言語では、1900年前後に膨大な百科事典が出版されていて、現在 Web上で内容がPDF および テキストデータ(一部 OCRデータ)で公開されている。

フランス語では La Grande Encyclopédie がある。全31巻で、それぞれが1000ページを超える大部なものである。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、約350語と至って簡便である。



また、ドイツ語ではMeyers Konversationslexikon がある。全16巻で、それぞれ1000ページを超える。ただ、下記に示すように、Priscianに関する情報は、更に少なく、わずか約140語しかない。



このように、百年以上前の百科事典を参照することで、時代時代でどういう内容が重要視されたかという痕跡を辿ることができる。内容的にみて、現代の百科事典が必ずしも、過去のものより優れていると言えないと同時に、現在の百科事典からは窺い知ることのできない当時の知的水準の様子がリアリティを伴って分かる。

続く。。。
コメント
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