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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第88回目)『私の語学学習(その22)』

2010-09-27 07:29:23 | 日記
前回から続く。。。

【聞き取りの秘訣、語学フィルターを耳に装着せよ】

結局カントは原文では2冊しか読まなかったが、ここで一旦、近代ドイツ哲学から離れることにした。というのは、ショーペンハウアーやモンテーニュの影響で古代ローマの哲学・歴史・文学に非常に興味がでてきたからである。そしてドイツで買ってきたレクラム文庫の対訳(ラテン語+ドイツ語)でローマの哲人を読むことにした。紀元前後の200年間は古典ラテン語の黄金時代で、その後のヨーロッパ2000年が景仰する作品が続々と書かれている。当時、私はラテン語ができなかったが、読んでいる時に気に入ったドイツ語のフレーズがあれば元のラテン語ではどのような単語・表現なのか興味があり、ラテン語のページをチェックした。ラテン語の基礎文法も知らなかったので、簡単な文句でも、なかなかドイツ語に対応する単語も見つけるのに苦労したことを覚えている。

またローマの哲人や文学者、とりわけキケロ、の文にはギリシャ語がかなり多く出てくるのには驚いた。後から知ったのだが、キケロは当時のローマの知識エリートの常として、ギリシャ語は、読み書きはもちろんのこと、会話も完璧にマスターしていた。ちょうど現代の我々における英語の如く当時の世界語はラテン語ではなく、ギリシャ語であったというのを事実として知った。



そのキケロは弁論術をマスターするために、当時弁論術で有名なアポロニウス・モロン(Apollonius Molon)の居たロドス島に留学した。そこで、数年間の研鑽を積み、いわば卒業試験としてあるテーマについて弁論した。キケロが話し終わると、モロンは暫く無言でいた。キケロは自分の話し方がまずかったのだろう、と落胆した。しかし、モロンが口を開いて、言うには『キケロよ、君の演説は非の打ち所がない。君には賛辞をおくるが、ギリシャには哀悼を捧げたい。ギリシャはかつては世界の文化の中心であった。ローマがその文化を一つずつ取って行ったが、弁論術ではまだまだギリシャには敵わないと思っていた。しかし今日の弁論を聞いてこの最後の文化の砦もとうとうローマに持っていかれることになった』と。(プルターク『キケロ伝』)
"You have my praise and admiration, Cicero, and Greece my pi ty and commiseration, since those arts and that eloquence wh ich are the only glories that remain to her, will now be tra nsferred by you to Rome."

このキケロの『弁論家について』( De Oratore )は私にとっては非常に教えられるところが多い書物であった。
この件に関しては、下記のブログ参照
  『キケロに学ぶ弁論術の極意』
  『弁論上達の極意は落語家を見習うにあり』

内容もさることながら、私にはこのドイツ語訳がすっと頭にはいってくる。同じくレクラム文庫の中にあるドイツ語訳の本でも、なぜだか分かりにくい訳も多いがこの訳は全く抵抗なく読めた。そして読むスピードもぐんぐん上がったので非常に頭のなかのドイツ語の神経網が活発に増殖し、リンクが次々と増強されていくのを実感した。それは、この本を読んでいる最中に出席したドイツ人のパーティでの席上では最もドイツ語がスムーズに出てきたことからも実感できた。それ以降、ドイツ語が多少衰えて来た、と感じたときはおまじないのようにこの本読むことで気分高揚を図ったいる。

このパーティの時にまた、不思議な経験をしたことをお話したい。

パーティが終わり電車で帰宅途中のことである。夜も遅かったので、乗客が車両にほとんどいなかった。数メーターほど向こうに日本人が2人座って話をしていた。何気なく聞いていると、なんとその会話が全てドイツ語になって私の耳に届くのだ!どう見てもその日本人たちがドイツ語で話しているようには見えないのだが、私の耳がドイツ語(らしき)単語として知覚しようとしているのだった。それはドイツ語が聞こえたからという意識上の知覚症状ではなく、無意識の内に耳に聞こえるのをドイツ語の音として捕捉しようと脳のドイツ語神経網が活性化していたのだ。その状態が数十秒ほど続いただろうか、徐々にその会話が日本語に変わっていくのが実感できた。そして一旦日本語だと自覚するとそれからはドイツ語の音としては聞こえなくなった。この奇妙な体験は私自身を非常にびっくりさせた。一体、私の聴覚神経は狂ったのであろうか?

これから数年して、アメリカ留学から帰ってきて、英語がかなり上達した時、東京で外人のパーティからの帰り道でも同じ経験を何度かした。流石に2度目以降はあまりびっくりしなかったが、このように日本語がドイツ語や英語に聞こえることは、ひょっとして自分の語学力がかなり高まった証拠であるかも、と内心得意になっていたのだった。

しかし、最近、この自惚れを覆す経験をした。

私は韓国の宮廷劇が好きでよく見る。李朝朝鮮の社会階層(両班、中人、常民、、白丁)の各身分の人たちの行動規範や宮廷内のかけひきに興味があるからだ。最近『王と私』という数十回のドラマがあって毎回2時間程度をずっと見ていた。私は朝鮮語は全く分からないのだが、字幕を見ていると漢語で耳で拾える単語がいくつもあることが分かった。放映が30回を越えたあるとき、ドラマが終わったあと、すぐに日本語の番組に切り替わったはずなのに、私の耳にはテレビからの音声が朝鮮語として聞こえるのだ。この時は、初めのドイツ語の時に味わった衝撃とは別の意味で衝撃的だった。ということは、語学のレベルに関係なく、このような語学フィルターが機能すると分かったからだ。

この一連の実体験で言えるのは、語学フィルターは単純に脳の音声認識を司る部分で処理されているということだ。私は脳について専門的な知識を持っている訳ではないので、これ以上この不思議な現象が起こる理由を解析できないが、喩えを使って説明したい。丸い網目に、網目とは異なる形状のもの、例えば四角い物を通そうとすると、ひっかかってうまく通らない。しかし網目を丸から四角に変えると、四角い物もすんなりと通ることができる。ちょうどそれと同じように丸い網目(日本語)には、四角い物(ドイツ語・英語・朝鮮語)が通り抜けにくいが、聴覚(具体的には脳の聴覚機能)にそれぞれの語学に対応した語学フィルターが装着されることで、単語の聞き取りが楽にできるのではないかと私は考えている。この語学フィルターはどうしたらできるかというのは、上で述べた韓国語フィルターの経験からいうと、集中してその語学を聞くことだと言える。

続く。。。
コメント
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