限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第407回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その250)』

2019-09-15 18:04:05 | 日記
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【349.請託 】P.4538、AD504年

『請託』とは「権力のある人に、私事を頼むこと」。主に政治家に賄賂を贈り公にすることを憚れることを金の力で成し遂げることをいう。辞海(1978年版)には「以私事、有所干求也」と説明するが、これでは「権力のある人に」というニュアンスが入っていない。辞源( 2015年版)では一層簡略に「私相嘱託」と説明する。ここに「相」(each other) という句が入っているが、私にはこの意味は分からない。

「請託」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。



漢書で2回使用例はあるものの、後漢書から急に使われだした単語であるといえる。資治通鑑を通読して分かるのは、現在でも使われて熟語の多くは、後漢の時あるいは南北朝の時に急に多く出現しだす。そして、その後の中国では使われなくなった単語でも多くは日本に残っている、という傾向が見られる。この意味で日本人の使う漢字の熟語は現在の中国人からすれば、1000年ほど前の文語文に出てくるような単語を日本人が普段、口にしている、と非常に不思議に感じているのではないかと私は勝手に想像している。

さて、資治通鑑で「請託」が使われている場面を見てみよう。

南北朝時代、北魏の宮廷内の内乱。王族の一人、元詳は傲慢で贅沢三昧にふけり、とうとう殺されてしまうがそのアップアンドダウンを見ると、日本の天皇家の皇子のような ― 少なくとも歴史的な大きな事件がないといった意味での ― 平穏な人生を歩めた人が少ないことに気付く。帝室や王室の一員は金力にものを言わせた我儘放題できるにしろ、もう一面には常に身の危険が伴っていた。

北魏の元詳は宣武帝(元恪)の叔父であったが、最後には謀叛の罪を着せられて暗殺された。

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魏太傅で、領司徒、録尚書北海王の元詳は驕奢(おごり・ぜいたく)し、声色(音楽と女色)を好み、その貪欲さは止まるところを知らなかった。大邸宅に住みながらも、まだ「狭い」といって隣人の土地を奪って家を拡張した。子分たちを使って、請託(賄賂)を集めさせたので、官僚だけでなく、世間からも大層恨まれていた。宣武帝は元詳のそういった悪事を知りながらも、叔父であるので、変わることなく礼を尽くしていた。国家の軍事には尽く関与し、決定した。帝に奏請して、却下されたことはなかった。

さて、宣武帝が成して親政を始めた時に、兵を派遣して、帝室の叔父たちの家族を宮廷に呼び寄せたことがあった。元詳は兄の咸陽王(元禧・拓跋禧)や弟の彭城王(元#52F0;・拓跋#52F0;)と一緒に車に乗って宮廷に入ったが、その時の厳格な警備に元詳の母である高太妃が「これは私たちを皆殺しにするための準備に違いない」と勘違いして、後続の車の中の大泣きした。その後宮廷での行事も終わって帰宅の途についた時に息子の元詳に「今後は富貴を願わずに、お前と一緒に長生きできることだけを願おう。それができるなら、町の掃除婦となってでもいい」と行った。しかし、暫くして元詳が権力を握って国政を動かすようになると、元詳の母の太妃は前に言った事などけろりと忘れて、自ら率先して、元詳をけしかけて貪欲な行為を繰り返させた。

魏太傅、領司徒、録尚書北海王詳、驕奢好声色、貪冒無厭、広営第舎、奪人居室、嬖昵左右、所在請託、中外嗟怨。魏主以其尊親、恩礼無替、軍国大事皆与参決、所奏請無不開允。

魏主之初親政也、以兵召諸叔、詳与咸陽、彭城王共車而入、防衞厳固、高太妃大懼、乗車随而哭之。既得免、謂詳曰:「自今不願富貴、但使母子相保、与汝掃市為生耳。」及詳再執政、太妃不復念前事、専助詳為貪虐。
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一度は、権力の座にいることの不安定さにパニックになって大泣きした元詳の母の太妃であるが、一旦、権力の味を占めたら忘れられないらしく、気持ちが落ち着くとまた貪欲に財宝を貪り始めた。しかし、そういったちょっとした貪りの心が、最終的には身の破滅を導いたのだが、それは後の話。

よく、外資系では "Up or Out" という。社内で出世できなければ、転職せよ、という意味だが、中国の王室では Out は文字通り、人生から Out することを意味した。

中国の冷酷な王室の歴史と比べると、日本の皇室の歴史は、良い意味で「何と微温的」と感じる。

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 想溢筆翔:(第24回目)『道長の日記、御堂関白日記(その1)』
では、三条天皇が皇后・藤原絨子の冊立を祝おうとして、大臣たちを招いたが、大臣たちは藤原道長の娘・中宮妍子の競争相手の冊立とあって、誰ひとりとして絨子の冊立を祝いに来なかったということを紹介した。あれやこれやで結果的に、三条天皇は嫌気がさして道長と血のつながりの濃い(道長の甥で道長の娘・彰子の婿)にはやばやと帝位を譲った。三条天皇は権力を失ったとはいうものの、命まで奪われることはなかった。

続く。。。
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