限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第400回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その243)』

2019-06-09 09:11:51 | 日記
前回

【342.武士・文士 】P.4485、AD501年

『武士・文士』のうち「武士」は説明するまでもないであろう。「文士」は日本では「小説家」の別称として使われるケースが多い。しかし、「文」の国、中国では「文人」の別称として使われていた。つまり、現代はいざ知らず、歴史的文脈でいえば日本では「文士」とは多少軽蔑的であるが、中国では高いレベルの教養人というニュアンスを持っていた、と言える。

「武士・文士」および「文士」の関連語を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。「文士・文人」という語は史記には見えず、三国志あたりから見られることが分かる。つまり、一般的な「文」を書く人ではなく経書関連の文を書くことができる人は、それまで「学士」あるいは「博士」という名称で呼ばれていたことが分かる。



さて、資治通鑑で「武士・文士」が使われている場面を見てみよう。

南康王・蕭宝融が兄の蕭宝巻(東昏侯)を打倒する勢力に担がれ、最終的には南斉最後の帝位に就くことになる。各地で政治的混乱が起こったのを鎮めるための適任の行政官を選ぶ時に、武士か文士のどちらがよいかと議論が始まった。

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南康王の政府は、湘州の知事を送ろうとしたが、その人選に苦慮していた。西中郎・中兵参軍の劉坦が皆の前で「湘州の人情はすぐに混乱を引き起こし、信頼がおけない。武士を送れば庶民から強奪するし、文士を送れば軍備がおろそかになる。州をきちんと治め、兵士たちの食糧も十分供給できる人といえば年寄りのこのわしに優る者はいない」と言ったので、劉坦を輔国長史・兼・長沙太守に任命し、湘州の行政を担当させた。劉坦は以前、湘州に暮らしたことがあり、昔からの知人や縁故のある者が多く、赴任すると、多くの人が出迎えた。役所に入り、事務に精通している役人を選んで、十郡に送った。住民を駆り集めて米30万石を運搬させて、荊州と雍州の軍隊に物資を供給した。それで、兵士に食うにはこまらなくなった。

府朝議欲遣人行湘州事而難其人、西中郎中兵参軍劉坦謂衆曰:「湘土人情、易擾難信、用武士則浸漁百姓、用文士則威略不振;必欲鎮静一州、軍民足食、無踰老夫。」乃以坦為輔国長史、長沙太守、行湘州事。坦嘗在湘州、多旧恩、迎者属路。下車、選堪事吏分詣十郡、発民運租米三十余万斛以助荊、雍之軍、由是資糧不乏。
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この文には「武士・文士」の特徴が端的に表現されている。つまり、「武士」は暴力を振って、庶民から食糧や財産を強奪するが、「文士」はそういう暴力的な行いはしない。しかし、軍備を疎かにするので他国から攻め込まれて、結局被害を受けるのは一般庶民ということになる。つまり、どちらも地方行政をまともに担うことができないという話だ。

劉坦は自己推薦して、「湘州に縁故が多い自分が最適だ」と豪語する。本人の資質はどもかくとして、とにかく地元人とつながり(関係・クヮンシー)が深い、という所を強調するところに中国人が何を重視していたかがよく分かる。「関係」(クヮンシー)が行政官として最重要な要素であるという点に於いては、― 推定ではあるが ― 現代の中国においても同様ではないだろうか。

現代のビジネス書ではあるが、10数年前に出版された
 『ビル・ゲイツ、北京に立つ―天才科学者たちの最先端テクノロジー競争』(ロバート・ブーデリ・他、日本経済新聞出版社)
には中国でビジネスする上でいかに「関係」(クヮンシー)が重要かがメインテーマとなっている。

続く。。。
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