限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第395回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その238)』

2019-03-31 11:01:49 | 日記
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【337.要衝】P.4461、AD500年

『要衝』とは「必ず通過すべき肝要な所」。「衝」は辞海(1978年版)では簡単に「交道」と説明するが、辞源(2015年版)では「縦横相交的大道」と説明する。結局「要衝」は物理的に大きな幹道の交差点で、しかも重要な地点のことだと分かる。「要衝」の逆の並びの「衝要」も同じ意味である。その2つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。私の経験では日本語で「衝要」は見たことがないが、中国では「衝要」の方が使われる頻度が高いようだ。推測するに、中国人にとって発音(イントネーション)の響きがこちら(衝要)の方が良いのだろう。



資治通鑑で「要衝」が使われている場面を見てみよう。東晋から南北朝時代(4c.から6c.)にかけては中国では北の王朝と南の王朝が対立し、しばしば大戦争が勃発した。

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魏奚康生が城の防御に務めた。籠城して一ヶ月してようやく援軍が到着した。それで、援軍と共に彭城王の元勰や王粛と一緒になって胡松や陳伯之と合戦し大勝した。勢いに乗って合肥を責め、李叔献を捕まえた。統軍の宇文福が元勰に言うには「建安は淮南の重要拠点で、敵と味方のどちらにとっても要衝の地です。ここを占拠できれば義陽も征服可能ですが、もしここを占拠できなければ寿陽も確保が難しいことでしょう。」元勰はその通りだと思い、宇文福に建安を攻撃するよう命じた。建安は守りきれず、城主の胡景略は面縛して城門を出て降伏した。

魏奚康生防禦内外、閉城一月、援軍乃至。丙申、彭城王勰、王粛撃松、伯之等、大破之、進攻合肥、生擒叔献。統軍宇文福言於勰曰:「建安、淮南重鎮、彼此要衝、得之、則義陽可図;不得、則寿陽難保。」勰然之、使福攻建安、建安戍主胡景略面縛出降。
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城を守りきれずに降伏する時、城主は「面縛」して城門を出る。「面縛」とは両手を後ろ手に縛り、顔を伏せずにさらすことをいう。降伏の時は、それだけでなく「肉袒面縛」あるいは「肉袒牽羊」する場合も多い。「肉袒」とは「肌脱ぎ」つまり「上半身を脱ぎ、裸に」なることだ。真冬だとさぞかし身にこたえたことだろうと想像する。(もっとも、ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうために大雪のなか裸足で3日も立ち続けたのだから、「肉袒」ならまだ楽勝の部類かもしれない。。。)

ところで、この「面縛」という語は春秋時代の歴史書である『春秋左氏伝』に2回使われている(僖公・ 6年、昭公・4年)。いづれの場合も降伏した城主が「面縛銜璧」した姿で城門を出た。「銜璧」とは璧(Jade、貴重な宝石)を口にくわえることで、当時は葬式の際、璧を死者の口に入れたことから、「降伏し、死も受け入れる」ということを比喩的に表現している。南北朝は春秋時代から千年も経過しているので、戦争の仕方や道具に関しては格段に進歩しているはずだが、降伏の仕方は春秋時代そっくりそのまま、というのはいかにも伝統の慣性力の強い中国ならでは、の感を覚える。

続く。。。
コメント
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