(前回)
【223.震駭 】P.1268、AD24年
『震駭』とは文字通りに訳すと「ふるえ、恐れる」ことになるが、論理的に考えると、生理学的には逆の順序、つまり恐れが震えを引き起こす、はずだ。しかし、なぜこのように順序が逆の表現になったのか?学術的にはどう説明されているかはさておき、私なりに考えるに、単なる口調 ― 発音だけでなく、四声のリズム感覚も含めて ― の問題に過ぎないのではないか。
逆の順序でも意味内容が全く変わらないとすれば、当然のことながら口調が良い方を多く用いられることになる。実際、この2つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のように、圧倒的に(20倍!)『震駭』の方が多く使われている。
ついでに言うと、以前から私は『士農工商』の内、士(士大夫)は先頭に来ることは必然として、つぎの3つの職業の順序もたぶんに口調によって決まってきたのではないかと考えている。とりわけ「工商」はどちらが先でも良かったのだが、口調の関係でこのようになったのだと推測する。
さて、資治通鑑で『震駭』が使われている場面であるが、後漢の建国者、劉秀が呉漢に命じて流賊を撃たせるところである。
+++++++++++++++++++++++++++
蕭王(劉秀)は流賊を撃とうと思い、呉漢と耿弇を二人とも大将軍に任じ、正式の使者の証を持たせて(持節)、北方の幽州十郡の突騎を徴発した。苗曾はそれを聞くと、秘かに諸郡に徴発に応じないよう命令を下した。呉漢はわずか二十騎ばかりの兵を率いてまず、無終に到着した。苗曾が呉漢を出迎えると、呉漢は有無を言わせず縛って斬った。一方、耿弇は上谷に到着すると、同じく韋順、蔡充を捕えて斬った。北の州の人たちは、震駭した。このようにお膳立てが済んで、呉漢と耿弇は住民に総動員をかけた。
蕭王欲撃之、乃拝呉漢、耿弇倶為大将軍、持節北発幽州十郡突騎;苗曾聞之、陰敕諸郡不得応調。呉漢将二十騎先馳至無終、曾出迎於路、漢即収曾、斬之。耿弇到上谷、亦収韋順、蔡充、斬之。北州震駭、於是悉発其兵。
+++++++++++++++++++++++++++
日本の戦国時代の感覚では大将が斬られたからと言って、すぐさま兵隊たちが、文句も言わずに別の将軍の指揮下にはいるというのはあり得ないように思えるかもしれない。しかし、中国の兵卒の大部分は庶民の寄せ集めであるので、誰が将軍となってもあまり気にしなかったようだ。こういった背景が分かると、中国ではすぐに何十万人もの兵を集めることができ、また大人数の割にはあっけなく総崩れになる、ということが納得できる。
さて、わずか20人で苗曾の軍隊をそっくりと取り込んだ豪胆な呉漢であるが、後漢書の巻18に伝がある。それに拠ると呉漢は若い頃から「奇士也、可与計事」(奇士なり、ともに事をはかるべし)との評を受けていたことが分かる。
さらに、劉秀の名参謀の鄧禹からも次のように絶賛されている。「度々、呉漢と話をしましたが、度胸もあり、知恵もあります。彼のような将軍はほとんどいません」(閒数与呉漢言、其人勇鷙有智謀、諸将鮮能及者)
このように誉められている呉漢であるが、言葉数は至ってすくなかった(漢為人質厚少文、造次不能以辞自達)。呉漢に古武士の面影を感じる。
(続く。。。)
【223.震駭 】P.1268、AD24年
『震駭』とは文字通りに訳すと「ふるえ、恐れる」ことになるが、論理的に考えると、生理学的には逆の順序、つまり恐れが震えを引き起こす、はずだ。しかし、なぜこのように順序が逆の表現になったのか?学術的にはどう説明されているかはさておき、私なりに考えるに、単なる口調 ― 発音だけでなく、四声のリズム感覚も含めて ― の問題に過ぎないのではないか。
逆の順序でも意味内容が全く変わらないとすれば、当然のことながら口調が良い方を多く用いられることになる。実際、この2つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のように、圧倒的に(20倍!)『震駭』の方が多く使われている。
ついでに言うと、以前から私は『士農工商』の内、士(士大夫)は先頭に来ることは必然として、つぎの3つの職業の順序もたぶんに口調によって決まってきたのではないかと考えている。とりわけ「工商」はどちらが先でも良かったのだが、口調の関係でこのようになったのだと推測する。
さて、資治通鑑で『震駭』が使われている場面であるが、後漢の建国者、劉秀が呉漢に命じて流賊を撃たせるところである。
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蕭王(劉秀)は流賊を撃とうと思い、呉漢と耿弇を二人とも大将軍に任じ、正式の使者の証を持たせて(持節)、北方の幽州十郡の突騎を徴発した。苗曾はそれを聞くと、秘かに諸郡に徴発に応じないよう命令を下した。呉漢はわずか二十騎ばかりの兵を率いてまず、無終に到着した。苗曾が呉漢を出迎えると、呉漢は有無を言わせず縛って斬った。一方、耿弇は上谷に到着すると、同じく韋順、蔡充を捕えて斬った。北の州の人たちは、震駭した。このようにお膳立てが済んで、呉漢と耿弇は住民に総動員をかけた。
蕭王欲撃之、乃拝呉漢、耿弇倶為大将軍、持節北発幽州十郡突騎;苗曾聞之、陰敕諸郡不得応調。呉漢将二十騎先馳至無終、曾出迎於路、漢即収曾、斬之。耿弇到上谷、亦収韋順、蔡充、斬之。北州震駭、於是悉発其兵。
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日本の戦国時代の感覚では大将が斬られたからと言って、すぐさま兵隊たちが、文句も言わずに別の将軍の指揮下にはいるというのはあり得ないように思えるかもしれない。しかし、中国の兵卒の大部分は庶民の寄せ集めであるので、誰が将軍となってもあまり気にしなかったようだ。こういった背景が分かると、中国ではすぐに何十万人もの兵を集めることができ、また大人数の割にはあっけなく総崩れになる、ということが納得できる。
さて、わずか20人で苗曾の軍隊をそっくりと取り込んだ豪胆な呉漢であるが、後漢書の巻18に伝がある。それに拠ると呉漢は若い頃から「奇士也、可与計事」(奇士なり、ともに事をはかるべし)との評を受けていたことが分かる。
さらに、劉秀の名参謀の鄧禹からも次のように絶賛されている。「度々、呉漢と話をしましたが、度胸もあり、知恵もあります。彼のような将軍はほとんどいません」(閒数与呉漢言、其人勇鷙有智謀、諸将鮮能及者)
このように誉められている呉漢であるが、言葉数は至ってすくなかった(漢為人質厚少文、造次不能以辞自達)。呉漢に古武士の面影を感じる。
(続く。。。)
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