限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・98】『ανασκευη τησ επιθυμιασ』

2016-11-13 19:47:04 | 日記
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 沂風詠録:(第39回目)『ストイック=禁欲主義、の誤解』
で「解脱」という思想は、仏教の専売特許でないことについて次のように述べた。

欲望からの脱却というのは所謂『禁欲』とは異なる。禁欲とは、学生が大学受験が終わると、遊び呆けるように、あるいは、健康診断が終わるまで、断酒するが、検査が終わると、がぶ飲みするように、したいことを我慢している状態を指す。このような禁欲は単に一時的に抑圧しているだけで、欲望そのものが無くなっている訳ではない。それに対して、ストア派もエピクロス派、そして仏教も掲げている『欲望からの脱却』(解脱)というのは欲望そのものが消滅する状態をさす。端的には、『吾唯知足』の四字で表現される境地がそれだ。


この点について、セネカやマルクス・アウレリウスと並んでストア派の巨匠であるエピクテトスの本 "Discourses" (Loeb, 日本語訳タイトル:『人生談義』)の中では次のように説明されている。

【原文】 Διατριβαί/Βιβλίον 4 (Book4, 175)


【私訳】欲望を満たすことでは(モノから)自由になれない。欲望を滅却することで始めて自由になれるのだ。
【英訳】for freedom is not acquired by satisfying yourself with what you desire, but by destorying your desire.



ところで、『欲望の滅却』は原語(古典ギリシャ語)では「ανασκευη τησ επιθυμιασ」と書かれている。英語に直訳すると「 destruction of desire」となる。ここに見える初めの単語、ανασκευη(anaskeue)は分析的に考えるとチョットひっかかる単語だ。というのは、anaskeue= ana + skeue となるが、ana は英語でいうと[on, upon] など、「上の方向に」という意味を持つ。 skeue は[equipment, attire, dress] など、身に着けるもの、という意味がある。従って anaskeue は理論的には「着物の上に羽織るモノ」となるはずだが、辞書でひくと、逆に「捨て去る」という意味である。

anaskeue をギリシャ語の語源辞書、"Dictionnaire étymologique de la langue greque" (Pierre Chantraine) で調べても載っていないので、言語学的にはどういう風に説明しているかは分らないが、私が勝手に想像するに、anaskeue とは、「着ているものを上へ放り投げる」というようなニュアンスではないかと感じる。この想像が正しいとすると、欲望とは、ごしごしと削って落すものではなく、一度にぱあーっと放り投げて綺麗さっぱりとなくすものだ、ということをエピクテトスは言おうとしていたのではないだろうか。
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