限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

連載記事:『道具に技巧をビルトインする発想』(2/3)

2009-05-09 06:18:39 | 日記
【EMAILでの議論】

【1.ちょっとした依頼が、大きな議論の発端に。。。】

2009年4月24日(金) [麻生川==>今北、船川]

今北さん、船川さん

ところで5/26日、半蔵門にあります日欧産業協力センターでヨーロッパからの視察団に講演することになり、次のような資料をまとめました。ご感想をお聞かせ頂ければ幸いです。



麻生川

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【2.Artificialについて】

2009年4月25日(土) [今北==>麻生川]

麻生川さん

このドキュメント、正に、「Asogawa Worldの万華鏡」という感じですね。ヨーロッパと日本についてのQ3とQ6では、私自身が経験則に基づいて導いた結論がいくつか重なります。

ベルサイユ宮殿のSymmetry & logical 対 日本庭園のArtificial naturalness & asymmetryなどがその一例です。

「Artificial」というと人工的なもの、すなわち天然に対してあまり価値の高くないもの(例:ダイヤモンド)との評価がありますが、日本庭園のArtificial naturalnessには美の極致を造形してしまうという凄さがあります。「西洋の着想と東洋の着想の融合から新しい次元の創造を産み出す」というテーマは、私のライフワークの対象でもあり、このドキュメントを大変興味深く見させていただきました。グローバルビジネスでの現場経験をリベラルアーツの教育につなげたいという思いは、私がずっと持ち続けているものです。

今北

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【3.日本人の本質とは?】

2009年4月26日(日)[麻生川==>今北]

今北さん

さっそくのご感想どうもありがとうございました。

Principles, Strengths and Weaknesses of Japanese Craftsmanship に関してですが:
この内容は従来から私が考えています大きなテーマである、『日本人の独自性の本質は何か?』にたいするとりあえずの答えを西洋との比較において、西洋人にとって分かりやすくまとめたものです。

よく日本人は自然愛好家といわれていますが、私の到達した結論はこれと全く正反対の 『日本人は自然が大嫌い』『日本人は自然との共生が苦手』というものです。

要点だけ、かいつまんで述べますと:

1.大自然そのままを取り入れた風景が日本の芸術、文化の中にあまりにもすくない。

2.大抵は何らかの加工を経ている。それも、日本人が考える自然美に『縮約』されている。

3.大自然の中(例:森や山奥あるいは人里離れた所)に生活する、という習慣もあこがれも日本文化には存在しない。

4.最近の日本の目を覆うばかりの自然破壊(山奥の道路建設、護岸工事、治水工事、などと称する公共事業)をなんとも思わない風潮。また植木などの剪定もあまりにも人工的で、木々の自然のあり様を無視している。

しかし一方では、日本芸術のもつ美、は確かに日本人のすばらしい成果物であると考えます。

これらを総合すると、日本人にとって、美は、『Natural beautyにあるのではなく Artificial naturalnessに存する』という結論に至った次第です。

麻生川

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【4.日本人は自然が嫌い、には瞠目】

2009年4月27日(月)[麻生川==>今北]

麻生川さん

『日本人は自然が大嫌い』『日本人は自然との共生が苦手』との麻生川さんの結論には瞠目しました。

理由としてあげていらっしゃる4つのポイントとあわせ久しぶりに考え方を根底から揺さぶる仮説に接しました。一方で、この「日本人」というくくり方を「一般大衆」と置き換えた時には正にその通りかもしれないと思いつつ、自然そのものが持つ美しさの極限を愛でる感性を持った一部の優れた個人が一般大衆にも分かる形で人工美を残すというメカニズムがどこかにありそうな気もしています。

今北

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【5.日本人はco-dependent】

2009年4月27日(月)[船川==>麻生川]

麻生川さん

出遅れてしまいました。

さて、資料の件ありがとうございます。今北さんが既にコメントされていますが、まさに「Asogawa Worldの万華鏡」と思いました。日本人と自然との関係、わたくしも通説にはかなり違和感を持っていましたので、これ是非次回かたりたいですね。

一つだけちょっと気になったのが、日欧対比で日本側にInter-dependentと使われていたところです。Independentを唱える米国のビジネス界でinter-dependentということばを大きく取り上げ始めたのは、1981年のRichard T. PascaleとAnthony G. AthosのThe Art of Japanese Managementあたりで、その後、90年に世界的なベストセラーになった「7つの習慣」を書いたStephen R. Coveyや「学習する組織」の火付け役のPeter Sengeが盛んにinter-dependentのバリューを普及してきたと見ています。

もともとindependent志向の強い米国人にチームの重要性やシナジーを生むための協調が必要だという脈絡でinter-dependentが語られた背景を考えると、dependent志向の強い日本人は、まずindependentの厳しさを知ってからはじめてinter-dependentになれるのではないかと考えています。そうでないと、土居健朗の「甘えの構造」ではないですが、日本人はco-dependentの方に流れやすいと感じています。

このような理由で、私は97年の拙著Transcultural Management以来、inter-dependentを敢えて「相互自立依存」と訳して、「甘え」のニュアンスが出やすい「相互依存」とは分けています。

船川

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【7.Inter-dependentはco-dependentも含む】

2009年4月27日(月)[麻生川==>船川]

船川さん、

日本人はInter-dependent より co-dependent が多いとのご指摘ですが、『お互い相手を当てにする』というニュアンスで inter-dependentという単語を使っていますので、他意はありません。それよりも、in-dependent との韻の対比上の関係で、inter-dependent を使っています。内容的には、co-dependent も含んでいると、言ってもよいかと考えます。(というより、そう厳密な定義に基づいてこの両方の単語を使い分けていません。)
船川さんの指摘、非常に参考になりました。

麻生川

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【8.道具に技巧をビルトインする発想が西洋流】

2009年4月27日(月)[麻生川==>今北]

今北さん

ご指摘のように『日本人』というくくりは乱暴で、どこかに繊細な日本美を創造してきた日本人がいたはず、でした。それは、大工や指物師や手工業者や芸事の師匠であった訳です。

私もこのような日本美が、今どうしてなくなってしまったのか、疑問に思っていました。例えば現在の日本の家屋や、事務所のビルなどをみると、完全に日本美が欠落しているものが殆どです。私も『何が原因なんだ?』と随分考えてきましたが、数年前ようやく自分なりの解答を見出しました。

その結果が、先日送付しました日欧産業センター向けのPPTである Principles, Strengths and Weaknesses of Japanese CraftsmanshipのP.21+22に書いてあります、3-1 Analog Japan vs. Digital Europeです。

ここでの論点は、

1.日本本来の道具、工芸はAnalogである。ヨーロッパはそれに対してDigitalである。

2.その路線(Analog Japanと Digital Europe)はお互いに交じり合うことなく、どちらもそれぞれのAnalog、Digitalの器具を使っている。(私が気づいた、ヨーロッパにおけるひとつの例外は、楽器のバイオリンです。これはAnalogです。)

3.Analogの場合、P.22に図示していますように、上達のレベルは個人差が大きいのです。それに反して、Digitalの場合、最低限の機能レベルは道具そのものにビルトインされているので、その道具を使う限り誰でも(ここがポイントです)ある程度のことができるのです。(ジョウロでの水撒きと、ひしゃくでの水撒きを比較してみてください。)

4.つまりAnalogの場合、レベルはDigitalの場合より最終的には高まる可能性はありますが、そのためには長年の修行を要します。この修行の仕方(Procedure)が、日本の芸事でよく言われている『守・破・離』だと考えられます。

5.つまり、道具自体にビルトインされていない、あるいはマニュアルとして形式知となっていない暗黙知の習得は、先人の到達したLevel of Dexterityまで、とりあえず到達するのが近道で、その後、各人が『離』の修行をすることで、さらなるレベルアップが見込めるのです。

6.しかし、こういった修行をすることのない一般人にとっては、ゼロスタートとなるわけですから、到達できるレベルは、知識が道具自体にビルトインされている西洋より、劣ることが多々発生します。

7.この観点を西洋人に説明するときは、ピアノとバイオリンで音の出し方の差を説明すると納得してもらえるでしょう。つまり、ピアノで音をだすのは(楽曲全体ではなく、単音の話です)バイオリンより遥かに容易で、だれでも鍵盤を叩けば音はでます。しかしバイオリンでは、音を出すことですら、何日もかかり、ましてや、美しい音をだすには何年もかかることでしょう。

8.日本の道具はP.21であげていますように、例外なく、このようなAnalog方式になっているのですが、これが日本人が、『各人が努力や工夫をして今まで人が到達できなかったレベルを目指す』ことに情熱を燃やす気質があったからだと思います。

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この観点に関連してですが、日本人は直線をうまく使いこなせない、のだと私は考えています。(喩えで言いますと、中間色が美意識の根幹にある日本人はどぎつい原色をうまく使った服をうまくつくれないようなものです。)

建築を例にとりますと、従来の日本建築は、大工の棟梁や宮大工が、このようなAnalog修行で、かなり高いレベルに到達していて、彼らの暗黙知が日本美を具現化した建築物を作ってきたわけです。しかし、現在それらが継承されず、単に構造計算だけを習ってビルを作っている工学士は、本来的に彼らの日本人としての感性があまり働かない直線を使って図面を書いているために、結果的にあぶはち取らずのような中途半端な感じで、美意識が全く感じられない建物しか作れないのだと私は考えます。残念ながら、現在の数奇屋建築においても、このような傾向が私には感じられます。

麻生川

【資料】 パワーポイント資料の抜粋:P.22
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モノコトに拡張してみます。 (ヒロマット~)
2009-05-09 13:21:09
バタバタしてましたが、京都でいただいた資料拝読しました。レスの内容なども含めてざっくりとMOTの視点から感想など。

1.プロダクトをモノ、サービスをコトをとらえる。

2.上記1-8の見方を発展させてみる。

3.西洋人が得意なことは、モノに知識を埋め込ませてイノベーションを広範に広めること。ユーザのdexterity(巧み度、器用さ)に依存する度会いを低めて、digital思想で作られたモノが普及させてゆくこと。つまり、「最低限の機能レベルは道具そのものにビルトインされているので、その道具を使う限り誰でも(ここがポイントです)ある程度のことができる」となる。ユニバーサル志向が強い。

4.日本人が得意なことは、ユーザのdexterity(巧み度、器用さ)に依存する度合を当初から期待してモノを作ること。ユーザ側のlevel of dexterity上昇度は、個人差が大きくなる。芸事、~道では、高いレベルが達成されるが、普及度は特定のcommunityの内部に限られる。局所的なローカル志向が強い。

5.Analog Japanは普及を目的とはせずに、縮約されたモノコトに没頭することを好む。コトに没頭するとき、~連、~講、~結、~家、~道といったコトの場(community of service practice)を生む。コトの場から再帰的にモノの在り方にフィードバックが加えられincrementalな改善がモノに加えられる。Inter-dependentなフィードバックループはincrementalな改善向き。また、時としてfetishismを発生させる。

例、fetishism系:縄文勾玉、古神道の銅鏡、仏像など。

6.Analog Japanは、人のうちにコト(サービス)志向を内在化させてきた。モノ⇔コトの相互還流の改善は盛んだが、相互還流はローカル場に埋没しやすい。普遍性に拡張されることはあまり多くはない。local志向。

7.かたやDigital Europeは、モノの内にコト(サービス)志向を内在化させてきた。digital思想で作られたモノのソースコード(楽譜、仕様書、設計図、アルファベット、ゲノムコード、ソフトウェアのまさにソースコードなど)に重点を置く。それゆえに、モノ系統のイノベーションによって、一気にモノ主導でコトをラディカルに普及させる志向性を持ち、普遍的に拡張されやすい(普遍性)。

8.Digital Europeの性質はアメリカに転移して、その普遍性志向はグローバリズムと接続されることによって、IT革命には親和性を発揮してきた。

例:IBM,MS,Sun,Oracle,GoogleなどのIT企業やバイオテクノロジー企業など。またモノのソースコードを尊重するという行き方は、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術、認知科学(NBIC)が特定のニーズに対応させるために収斂させるときには強みを発揮する。

どの言語、地域でも一定レベルのサービスが使える普遍志向が強い。ラディカル・イノベーションが得意。モノのソースコードをプロパライエタリな権利で囲んで普及させてゆく。

などなど。また議論しましょう。
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MOTの観点からの指摘へのお礼 (麻生川静男)
2009-05-10 06:08:48
MOTからの観点からのいろいろと示唆に富む指摘、ありがとうございました。

コトの場(community of service practice)(例:~連、~講、~結、~家、~道)の傾向が強いことは現象的にはその通りですが、私はもう一つ別の理由(additional inclination)が潜んでいるような気がしています。この観点についてはまた別途掲載する予定でいます。

引き続きいろいろとご意見を書き込んでください。楽しみにしています。
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