限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第203回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その48)』

2015-04-30 20:55:30 | 日記
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【140.脩繕(修繕)】P.1656、AD131年

『修繕』は『脩繕』とも書かれる。意味は現在とおなじく"repair"である。ここで『修』は中国では『脩』と書かれることがある。(別の字体を同じ意味に使うことを『通用』という。)私の経験した範囲では、宋代の著名な文人政治家の欧陽修は中国ではたいてい『歐陽脩』と書かれている。

どちらの漢字を使うかは書き手の好みによると思われる。例えば、今回の『修繕』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でチェックすると、次のような奇妙な結果が得られた。



つまり、『脩繕』という字を使っていたのは、主として資治通鑑で、他の史書では『修繕』を使っている。ただし、これは現代の印刷媒体での結果なので、宋代や明代に彫られた木版(宋版・明版)では実際にどの字体で印刷されていたのかは未調査である。

さて、前置きが長くなったが資治通鑑で『脩繕』が使われている場面を見てみよう。

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当初、後漢の安帝は文芸に関心をはらわなかったので、博士たちも講義をせず、学生たちも怠け放題だった。学舎も壊れ放題で、草がぼうぼうに伸びてまるで農園のようになった。近くの子供たちが勝手に入ってきて草を刈ったり枯れ木を持ち帰った。宮大工の棟梁の 翟酺がたまりかねて、建物を脩繕して学問を盛んにするように訴えた。安帝が許諾した。秋九月になって、大学の建物を修繕しなおした。最終的に、240棟、1850室の建物が完成した。

初,安帝薄於芸文,博士不復講習,朋徒相視怠散,学舎穨敝,鞠為園蔬,或牧児、蕘豎薪刈其下。将作大匠翟酺上疏請脩繕,誘進後学,帝従之。秋,九月,繕起太学,凡所造構二百四十房,千八百五十室。
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中国儒学の歴史において、人口比で後漢ほど盛んになった時代はないだろう。都の洛陽に1850室もの部屋をもつ太学(大学)が造られたということだ。一部屋に5人住むと仮定すると約1万人もの学生が寝泊まりできることになる。5世紀にインドに作られたナーランダ僧院も最盛期には1万人を超える学生がいたと言われているので、後漢の太学に匹敵する。

【141.採用 】P.3391、AD389年

『採用』も現在使われている意味と同じだ。二十四史の初出は後漢書であるので、比較的新しい単語と言える。ただし、あまり活用されなかった単語で、二十四史の各書に一回か、せいぜい数回用いられるだけである。使われている意味から言うと、古いほど『言辞を採用する』という意味に使われていることが多い。後代になるに従って、それ以外の意味に用いられるケースが見られる。



【142.傑出 】P.3396、AD390年

辞海(1978年版)に『傑』とは『才智、衆に出づるなり』(才智出衆也)と説明する。英語では "outstanding" の意味。この説明から分かるように『傑出』にはすでに『出』という意味があるので、まるで『馬から落ちて落馬する』のように意味がダブっているとも言える。

『傑出』は資治通鑑では一ヶ所でしか使われていない。その場面を見てみよう。

後秦は姚萇によって384年に建国されたが、草創期の数年はまだ安定しなかった。例えば、390年4月には前秦の将軍・魏掲飛が攻めて来た時に、将軍の雷悪地が内応して反旗を翻した。それを聞いた姚萇はすぐさま行動を起こした。

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そこで、姚萇は精兵1600人を率いてこっそりと出撃した。魏掲飛と雷悪地は数万もの将兵がいると豪語していたので、遊牧民(氐、胡)たちは勝機ありとみて続々と加わった。姚萇は敵方に新しい軍が加わるごとに喜んだ。群臣たちは、なぜ喜ぶのか訳が分からなかった。姚萇が言うには「魏掲飛たちが乱暴者の遊牧民たちを誘っているが、部族の数が極めて多い。ワシがそいつらの親玉をやっつけたとしても残党どもを残らずやっつけるまではいかないだろう。しかし、今、うれしいことに悪人どもが全員集まってきてくれた。一挙に殲滅する絶好の機会ではないか!」

魏掲飛は後秦の兵が少ないを見るや、全軍挙げて突撃してきた。姚萇は砦に固く閉じこもり、あたかも敵兵を恐れているようなそぶりを見せた。そうしておいて、秘かに息子の姚崇に騎兵数百人をつけて敵の後方に廻り、攻めさせた。不意打ちをくらって魏掲飛の兵は慌てふためいた。敵が混乱したのを合図に姚萇は鎮遠将軍の王超たちに出撃を命じた。魏掲飛はじめ、敵の将兵数万人を斬った。雷悪地は降参したが、姚萇は何事もなかったかのように元通り処遇した。雷悪地はある人にこうもらした。「ワシは智勇においては誰よりも傑出していると思っていたが、姚萇翁にはいつもやられている。これはワシの定めだ!」

乃潜引精兵一千六百赴之。掲飛、悪地有衆数万,氐、胡赴之者前後不絶。萇毎見一軍至,輒喜。群臣怪而問之,萇曰:「掲飛等扇誘同悪,種類甚繁,吾雖克其魁帥,余党未易猝平;今烏集而至,吾乗勝取之,可一挙無余也。」

掲飛等見後秦兵少,悉衆攻之;萇固塁不戦,示之以弱,潜遣其子中軍将軍崇帥騎数百出其後。掲飛兵擾乱,萇遣鎮遠将軍王超等縦兵撃之,斬掲飛及其将士万余級。悪地請降,萇待之如初。悪地謂人曰:「吾自謂智勇傑出一時,而毎遇姚翁輒困,固其分也!」
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五胡十六国時代、遊牧民が中国の北部を支配した。彼らの倫理観は従来の中国のものではなかった。善悪の価値判断はさておき、彼らの倫理観は極めて実利的である。『義』(正しい事)より『強』が求められた。相手が裏切りを企んだり、実際に裏切ろうとも、自分の方に力があり、相手が使えるヤツであれば、殺さずに使う方法を考える。こういった実践的な思考は日本人にはない。日本では将棋というフィクションの中では成立しても実際にはありえない行動様式だ。

ややもすれば、律儀さを過大評価する日本人の価値観ではアジア大陸の遊牧民や、魏晋以降その影響を大きく受けた中国人を理解することはできない。更に言えば、アジアや中国だけでなく、中東から地中海世界、およびヨーロッパにかけての民族の価値観もこの点に於いては日本人と大きく異なる。

続く。。。
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