(前回)
【275.痛切 】P.4033、AD458年
『痛切』とは、身体的な痛みではなく精神的な痛みで「ことばなどが深く身にしみる」ことをいう。辞海(1978年版)には「謂議論沈痛迫切也」(議論の「沈痛迫切」するをいう)と説明するが、もとの「痛切」より字数が増えている語句(沈痛迫切)を持ち出しているだけの説明だ。このように、漢字の語句というのは、基本的に一字づつ分析した意味を合成すれば分かるものが至って多い。
「痛切」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。(ついでに「沈痛」と「迫切」も調べた。)初出が漢書だと分かる。
資治通鑑で「痛切」が使われている場面を見てみよう。
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北魏の高宗が平城へ戻ってきて、太華殿という御殿の建築にとりかかった。当時、給事中で佞巧な郭善明が高宗に大規模な宮殿の建築をしきりと勧めた。これに対して中書侍郎の高允が諌めた。「太祖が始め都に建築する時は、必ず農閑期にしたものです。まして、建国からすでに長い時間がたっていますので、永安にある前殿は朝廷の会議をを催すためにあり、西堂の温室は宴会用にあり、紫楼は眺望を楽しむに十分です。これだけ宮殿が備わっていながら、それでも不足でさらに拡張する必要があるなら、あわてて建築せず、十分検討すべきでありましょう。今の計画では、人夫がだいたい2万人必要で、食事などの世話に、老人や若年者も同じ人数は必要で、軽く半年はかかるでしょう。一人が耕やさないのなら、その分、秋の収穫が減ります。ましてや、4万人もの人間の労賃を考えると大変な出費です。どうかこの点をお考えください。」
高宗はこの諌言を素直に受け入れた。高允は諫言を呈するのを己の任務と考え、朝廷で何か問題がおこるとすぐさま意見を求められた。こういった時は高宗は常に左右の者を皆退けて、密談した。時には、朝から夕方まで話していることもあれば、何日も話し込んでいることもあった。群臣たちは、どういった話がされているのか知らなかった。高允の言葉は、時に痛切で、高宗ですら我慢できずに、左右に命じて強制的に退出させることもあったが、それでも最後まで高允への信頼が揺るぐことはなかった。
魏高宗還平城、起太華殿。是時、給事中郭善明、性傾巧、説帝大起宮室、中書侍郎高允諫曰:「太祖始建都邑、其所営立、必因農隙。況建国已久、永安前殿足以朝会、西堂、温室足以宴息、紫楼足以臨望;縦有脩広、亦宜馴致、不可倉猝。今計所当役凡二万人、老弱供餉又当倍之、期半年可畢。一夫不耕、或受之飢、況四万人之労費、可勝道乎!此陛下所宜留心也。」
帝納之。允好切諫、朝廷事有不便、允輒求見、帝常屏左右以待之。或自朝至暮、或連日不出;群臣莫知其所言。語或痛切、帝所不忍聞、命左右扶出、然終善遇之。
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高允の言い方が「痛切」であったというが、それでも高宗は高允の真摯な態度に感服していた。それはこの文に続く次の言葉からも明らかだ。
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「高允はワシの過ちに対してはいつも面と向かって指摘した。たとえワシが聞きたくないと思っても、それでも遠慮なくズバズバと指摘した。ワシは自分の過ちを知るが、世間の人にはそれを知らせなかった。誠に忠臣の鑑だ!」
「朕有過、未嘗不面言、至有朕所不堪聞者、允皆無所避。朕知其過而天下不知、可不謂忠乎!」
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中国の帝王学の眼目の一つが臣下の「諫言を受け入れる」ということであるのは唐の太宗の『貞観政要』などでもしばしば語られることである。ここで注意しないといけないのは、臣下からの諫言を無批判的に受け入れるのであれば何も、わざわざ君主の徳や度量を示すことにはならないのは、ちょっと考えればすぐ分かる。たとえば、幕末の長州藩の藩主、毛利敬親は臣下からの進言に対しては異をとなえることなく全て受け入れたため、「そうせい候」というあだ名を奉られたが、決して、毛利敬親に高い評価が下されたわけではないということだ。結局、問題なのは、「諫言を受け入れる」と誉められるのは、進言の内容を主体的に吟味して、的確な判断が下せる君主であった時に限られるということになる。
(続く。。。)
【275.痛切 】P.4033、AD458年
『痛切』とは、身体的な痛みではなく精神的な痛みで「ことばなどが深く身にしみる」ことをいう。辞海(1978年版)には「謂議論沈痛迫切也」(議論の「沈痛迫切」するをいう)と説明するが、もとの「痛切」より字数が増えている語句(沈痛迫切)を持ち出しているだけの説明だ。このように、漢字の語句というのは、基本的に一字づつ分析した意味を合成すれば分かるものが至って多い。
「痛切」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。(ついでに「沈痛」と「迫切」も調べた。)初出が漢書だと分かる。
資治通鑑で「痛切」が使われている場面を見てみよう。
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北魏の高宗が平城へ戻ってきて、太華殿という御殿の建築にとりかかった。当時、給事中で佞巧な郭善明が高宗に大規模な宮殿の建築をしきりと勧めた。これに対して中書侍郎の高允が諌めた。「太祖が始め都に建築する時は、必ず農閑期にしたものです。まして、建国からすでに長い時間がたっていますので、永安にある前殿は朝廷の会議をを催すためにあり、西堂の温室は宴会用にあり、紫楼は眺望を楽しむに十分です。これだけ宮殿が備わっていながら、それでも不足でさらに拡張する必要があるなら、あわてて建築せず、十分検討すべきでありましょう。今の計画では、人夫がだいたい2万人必要で、食事などの世話に、老人や若年者も同じ人数は必要で、軽く半年はかかるでしょう。一人が耕やさないのなら、その分、秋の収穫が減ります。ましてや、4万人もの人間の労賃を考えると大変な出費です。どうかこの点をお考えください。」
高宗はこの諌言を素直に受け入れた。高允は諫言を呈するのを己の任務と考え、朝廷で何か問題がおこるとすぐさま意見を求められた。こういった時は高宗は常に左右の者を皆退けて、密談した。時には、朝から夕方まで話していることもあれば、何日も話し込んでいることもあった。群臣たちは、どういった話がされているのか知らなかった。高允の言葉は、時に痛切で、高宗ですら我慢できずに、左右に命じて強制的に退出させることもあったが、それでも最後まで高允への信頼が揺るぐことはなかった。
魏高宗還平城、起太華殿。是時、給事中郭善明、性傾巧、説帝大起宮室、中書侍郎高允諫曰:「太祖始建都邑、其所営立、必因農隙。況建国已久、永安前殿足以朝会、西堂、温室足以宴息、紫楼足以臨望;縦有脩広、亦宜馴致、不可倉猝。今計所当役凡二万人、老弱供餉又当倍之、期半年可畢。一夫不耕、或受之飢、況四万人之労費、可勝道乎!此陛下所宜留心也。」
帝納之。允好切諫、朝廷事有不便、允輒求見、帝常屏左右以待之。或自朝至暮、或連日不出;群臣莫知其所言。語或痛切、帝所不忍聞、命左右扶出、然終善遇之。
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高允の言い方が「痛切」であったというが、それでも高宗は高允の真摯な態度に感服していた。それはこの文に続く次の言葉からも明らかだ。
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「高允はワシの過ちに対してはいつも面と向かって指摘した。たとえワシが聞きたくないと思っても、それでも遠慮なくズバズバと指摘した。ワシは自分の過ちを知るが、世間の人にはそれを知らせなかった。誠に忠臣の鑑だ!」
「朕有過、未嘗不面言、至有朕所不堪聞者、允皆無所避。朕知其過而天下不知、可不謂忠乎!」
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中国の帝王学の眼目の一つが臣下の「諫言を受け入れる」ということであるのは唐の太宗の『貞観政要』などでもしばしば語られることである。ここで注意しないといけないのは、臣下からの諫言を無批判的に受け入れるのであれば何も、わざわざ君主の徳や度量を示すことにはならないのは、ちょっと考えればすぐ分かる。たとえば、幕末の長州藩の藩主、毛利敬親は臣下からの進言に対しては異をとなえることなく全て受け入れたため、「そうせい候」というあだ名を奉られたが、決して、毛利敬親に高い評価が下されたわけではないということだ。結局、問題なのは、「諫言を受け入れる」と誉められるのは、進言の内容を主体的に吟味して、的確な判断が下せる君主であった時に限られるということになる。
(続く。。。)