限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第125回目)『Private Sabbatical を迎えるに当たって(その3)』

2012-04-08 22:22:22 | 日記
前回から続く。。。

今回は、
 2. 古代ギリシャ・ローマと中国・日本のリーダー像の差
について説明しよう。

この項の最初(『Private Sabbatical を迎えるに当たって(その1)』)で、私は次のように述べた。
 『現在、日本では産業界においては国際的に活躍できる人が欲しいと言われていると聞く。とりわけグローバルな職場環境でリーダーシップを発揮できる人材を要望している。この課題に対して、私なりの回答を出してみたい。』

これはつまり『グローバル環境でのリーダー』とは具体的に何をさすか、ということである。前回も述べたように、日本人の理想のリーダーとしては吉田松陰や坂本龍馬の名が挙がるが彼らは必ずしもグローバルで通用するとは私は考えない。世界の歴史を読めばよく分かるが、日本のように平和な社会が長期に続いた国はまれだ。戦国時代と言われる混乱の時代ですら、世界標準(グローバルスタンダード)から見れば、極めて穏やかな時代といえる。なぜなら、戦国時代を通して日本全体の人口は減っているどころか伸びているからである。この理由は、当時の兵農分離の制度の下では戦争は侍の仕事であって、農民は無理やり戦争に駆り出されることはなかったからである。戦争によって局所的に多少の被害はあったとしても、食料生産はコンスタントに続いていた。これと比較すると、中国やヨーロッパでは必ずと言って良いほど、長期間の戦争では、都市は軍隊で包囲され、農民は戦争に駆りだされ、農地は荒廃する。そして極端な食料不足から悲劇的な飢饉が襲う。こういった過酷な社会においては指導者の力量が即、人々の命に直結する。

穏やかな国、日本においてはそうでなかった。日本では統治者に抜群の力量は必要なかった。他国との比較で言えば、2000年という歴史をもっている日本において、グローバル的に通用する英雄や政治家はほんの数人程度だと私は考える。これは日本の悲劇ではなく、むしろ幸運と称すべきである。ただ、このような英雄の貧困国日本では現在のグローバル環境で模範となるリーダー像を探すのは困難だ。我々はもっと視野を広げて、世界の歴史の中から範とすべきリーダー像を探す必要がある。

日本以外のどこの国に我々が模範とすべきリーダーを探せばよいのだろうか?現在のグローバル社会の中心が欧米と中華圏であることから考えて、これらの文化圏から選択するのが妥当であろうと私は考える。つまり、本当の意味で、人間として偉大な英雄や偉人を選ぶというより、グローバル環境において通用する行動規範を具現化している人物を選び、そのリーダーシップのエッセンスを学ぶ、というのが目的であるからだ。



ところで、リーダーシップというのは、本来的には座学で学べるしろものではない、と私にも分かっている。というのは、畳の上の水練と同様、リーダーシップというのは実際に修羅場をくぐりぬけてこそ初めて身につくものであり、頭ではなく、ハラ(胆)で会得するものなのだ。従って、リーダーシップを『学習』するというのはあくまでも次善の策、あるいは事前準備的な意味しか持たない。

この制限を理解した上で、リーダーシップを学ぶ方法論について私は次のように考える。

世の中のリーダーシップ研修では、よくリーダーとしての素質やすべきことを観念論的かつ教条主義的にルール化したものが提示される。そしてこれらのルールを暗記することで、リーダーシップが完璧に身につくがごとく錯覚してしまっている。(リーダーシップの『お勉強モード』)ところが実際にリーダーシップを発揮すべき局面になるとそのルールを思い出せることは、まず無いと言ってよい。つまり、暗記したはずのルールというのは単に大脳皮質の表面をかすっただけで、頭に(そして最も重要な、胆に)全く刻みこまれていないのである。

これに反し、私の提案するリーダーシップ研修とは、過去の模範とすべきリーダー達の数多くの言行録を読み、彼らの実際の事例を通してリーダー達はどう行動したのか、という行動様式を知ることだ。あるいは、実際に活動するリーダー達との直接の対話からリーダーシップに直接触れることである。つまり、観念的ではなく、具体例を通して、個別的ではあるかもしれないものの、リーダーシップの実際の言動を理解することが必要である。事例を言葉として暗記するのではなく、感動的なエピソードとともに鮮烈な印象をもって大脳に刻みつけることが必要と私は考える。

この意味で、東西文明の古典から実例を通してリーダーシップを学ぶ時に、最適な資料がヨーロッパ古代に存在する。具体的には、ギリシャ・ローマである。ギリシャで言えば、クセノフォンの『キュロスの教育』やプルタークの『プルターク英雄伝』がそうだし、ローマで言えば、リヴィウスの『ローマの歴史』がそうだ。また、2001年の9.11同時多発テロ以降、世界における重要度が増した、イスラム世界を動かす原理を我々は正しく理解する必要がある。イスラムの非情なカリフ達の生きざまはヨーロッパとは別のリーダー像を提示する。また、アラブと地を接して数千年来、共存と抗争を繰り返してきたユダヤ人のリーダーシップに見るべきものがある。

そして、これらの西欧・中東社会のリーダー像と、中国のリーダー像(例:『史記』、『貞観政要』、『宋名臣言行録』、『資治通鑑』に描かれているリーダー達)や、日本のリーダー像(例:吉田松陰や坂本龍馬、や『名将言行録』に描かれているリーダー達)と比較することで初めて、我々がグローバル社会で生きていく上で範とすべきリーダー像が見えてくるのではないかと、私は考えている。

続く。。。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする