限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第112回目)『目に余る、単語の魔女狩り』

2011-04-14 22:12:24 | 日記
現在日本では、盲(めくら)や唖(おし)は差別用語として事実上使用できなくなっている。さらには、アホも放送禁止用語といわれる。盲腸(もうちょう)や盲点(もうてん)、唖然(あぜん)、呆然(ぼうぜん)など、同じ意味の言葉も漢語で使うとかろうじて許されるようだ。しかし、これらの漢語も一掃すべし、という強硬な意見も聞かれる。

私はこういった考え方には真っ向から反対だ。言葉というのは、物をあらわす符丁に過ぎない。例えば盲(めくら)であれば『目の見えないこと、視覚が暗いこと』という現実(reality)を表現しているだけの話しだ。盲(めしい)、つまり目の見えない人、に対する偏見は言葉ではなく人間の心の持ちようにある。

単語に対するこういった迫害は、人種を表わす単語にもある。例えば、第二次世界大戦中に日本人がJap(ジャップ)と呼ばれたために日本国 Japan の英語での省略語が JAP ではなく JPNとなった。しかし、英国(England)の省略形は、ENG.であり、ドイツの省略形は GER.であることから考えると、日本の省略形として JAPを使うに何らの不都合も感じられない。

現代の話ではなく、ずっと昔、それも2000年ほど前に遡ってみよう。日本人は当時の先進国であった中国や高麗から倭人(わじん)と呼び習わされた。『倭』というのは物理的には背丈の低い人間(こびと)との意味に過ぎない。しかし、これに『小さいことは「賤しい・卑しい」ことである』という言われ無き価値判断が挿入されたため、結局『倭人』というのが古墳時代の日本人に対する蔑称となった。

無邪気なことに、当の倭人は『ワジン』というのが暫くの間(千年間)蔑称だとは知らなかったようだ。しかし、漢字が読めるようになり、唐に留学するに至ってようやく倭人が歓迎されざる語感(ニュアンス)を持つと理解した。それでこれは改善しなければいけないと考えたようだ。その結果、倭という蔑称を日本という、より漢語的(つまり洗練された)響きのする呼称に(多分)勝手に変更したのだ。旧唐書には次のように書かれている。『倭國自惡其名不雅、改爲日本』(倭国、自らその名の雅ならざるをにくみ、改めて日本となす)

倭と言おうと、日本と言おうと、物理的にこの日本の島、および日本人の実態自身は全く変わらない。それはあたかも、『いぬ』を犬(けん)と呼ぼうが、dog(ドッグ)、chien(シャン)、Hund(フント)と呼ぼうが目の前の犬の実体が変わるわけではないのと同じだ。

これと同じ意味で、現在日本では中国をシナ(支那)と呼んだり、韓国のことを朝鮮と呼ぶことが禁句となっているようであるが、歴史的に言うとこれはおかしい。シナという呼称は大航海時代にヨーロッパ人が中国にやってきた時に(どういう因果かは知らないが)彼らが秦の国という意味で中国を呼んだ名称である。これが差別用語であるというなら、フランス語で中国を『シン』 (Chine) あるいは形容詞として『シノワー』 (chinois) という言い方を先ずは改めさせるべきであろう、と私は考える。本来的にシナという呼称自体には何らの価値判断(つまり、賤しい、劣っている、優れている、素晴らしい)は無かったはずだからだ。

同様の意味で朝鮮というのも善でも悪でもないはずだが、現在、朝鮮半島の南半分に住んでいるいる人達は自分達のことを日本人から朝鮮人と呼ばれるのを嫌うようだ。しかし、朝鮮というのは、李氏朝鮮が誇りを持って自国および自国民を呼んでいた名称である。しかし、現在世界中で通用しているコレア(Korea)というのは、李氏朝鮮ではなくその一つ前の王朝、高麗(こうらい)という発音の訛ったものである。現在の韓国人は李氏朝鮮の後裔であることは誇っていても、朝鮮と呼ばれるのを嫌うが、その前の高麗朝の後裔であると誇っていないにも拘わらず、世界中からコレアンと呼ばれているのに対して何らの反発もしない。もし本当に自国の伝統を誇るのであれば、堂々と世界中に向かって、『これからコレアというのは止めて頂き、チョーセンと呼んで頂きたい』と声を大にして言うべきではないだろうか?



アメリカには黒人と呼ばれるグループがいる。現在、一般的には、黒人はアフロ・アメリカン(Afro-American)とかブラック(black)と呼ばれる。ちなみにある統計に拠ると、当の黒人は自分達のことをアフロ・アメリカンと呼ばれるのは好まず、むしろブラックと呼ばれたいと思っているそうだ。ニガー(niger)と言う単語は完全に差別用語だと考えられている。しかし、そもそもニガーというのはラテン語で黒(black)という色を表わす言葉であった。つまり、黒が尊いとか、卑しいとかいう評価とは全く無関係な即物的な意味しか持っていなかった。もし黒に否定的な意味を付加したければ、別の単語(アテール、ater)を使うことができた。つまり、 ater と言うのは黒という物理的な色を指すだけでなく、『くすんだ黒色』という否定的なニュアンスを持っていた。それに対して、niger というのは実は shining black (輝ける漆黒)という、かなりポジティブな意味を有していたのだ。

ところで、恵比寿(エビス)という言葉は、ふくよかな仙人を思わせるえびすを想像させるので、日本ではポジティブなニュアンスを持つが、ロシアではどうやらそうではなさそうだ。どういう綴りか知らないが、エビスというのはかの地では女性器を指す単語らしい。それで戦前、満州でロシア語が通ずる地域ではエビスビールが全く売れなかったらしい。しかし、女性器は厳然と存在するし、もしそれを表現する単語がないと何らかの時に困るはずだ。たとえ、それらの単語の名称を変えたところで、もし、その事物にまつわる評価自体が変化しないのであれば、暫くするうちにまた同じ状況に陥ると私には思える。

女性の話が出たついでに言うと、女偏の漢字には否定的なニュアンスの字が極めて多い。漢和辞典をざっとみただけでも次のような字が拾い出される。
  『奸、姦、嫉、妬、媚、妖、妄、奴』
これらの字に否定的な意味があるからと言って、いまさらこれを別の字に変更することもできないあろう。字だけでなく、単語そのものの変更も私が賛成しないのは同じ理屈だ。

以上のように言葉自体には何ら罪がないにも拘わらず、単に人々の思惑、価値判断がついてしまったが為に、物や現象そのものを表わすことばが消え去る、ということが如何に理不尽で愚かな所業であるかが分かる。

『単語自身に罪はない。』
 これが私の言いたいことだ。
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