限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第30回目)『♪ロウ板に書いたラブレター♪』

2009-10-16 06:41:28 | 日記
中国の歴史を読んでいるとたまに『これは作り話に違いない!』と思いたくなるような記述があります。日本では、『天知る、地知る、人ぞ知る』と言われている諺は元来は、今から約二千年前に後漢の楊震が知事になっていたときに弟子の王密が夜中に黄金十斤を抱えて賄賂を贈りに来たという事実に基づいています。清廉な楊震が『なんでこのようなものを私に贈るのか?』と詰問調で問い質したところ、王密が、『私はこっそり来たので、この事を知る人は誰もいませんよ』と言うと、楊震が、『天知る、地知る、我知る、子知る、何ぞ知るなしといわんか?』(この四者が知っているではないか。どうして知らない人がいるというか?)と言ったということです。

このような個人個人の記録にも増して、歴代の皇帝のエピソードが数多く記録に残っています。漢の創業者である、劉邦がある時、私室で愛人の戚姫を抱擁していた時に部下の周昌が書類を持って(ドアをノックせずに)入ってきました。しかしその場の様子にどぎまぎした周昌はあわてて部屋から飛び出しました。劉邦は追っかけて周昌を組伏せその首ねっこにまたがって、『おいわしはどのような君主と思うか?』と問いかけました。周昌は押えられながらも首を持ち上げて『全く陛下は桀紂のような極悪暴君です!』と答えたと史記に書き残されています。

中国の歴史書にはこのような皇帝やその部下達のエピソードが限りなく書かれていますが、それは、制度として、皇帝にはいつも二人の書記官が常にその言動を克明に記録していたからです。左右の書記官の内、右史は皇帝の発した言葉(記言)を記録し、左史は皇帝のしたこと(記事)を記録していたのです。この二人に史官の記述は時の皇帝すらその内容を修正できなかった、と言われています。それほど厳密に記録官の不可侵性が保護されるに至ったには血の歴史があります。

2500年前の戦国時代の歴史書春秋左氏伝に次のような記述があります。『崔杼弑其君』(斉の崔杼(さいちょ)が主君を殺した)。この記録を見た崔杼は怒って書記官を殺し、記録を抹殺しようとしました。しかしその弟の史官がまた元の文に直したので、崔杼がまたその弟も殺し、文を修正しました。しかし、またその弟が兄二人の跡を継いで、元の文に直したので流石の崔杼もあきらめて、修正された文のままにしておいたという事です。まさに記録に命を賭けるジャーナリズム魂の鑑ですね。

さて、こういった記録官のことを当時の言葉で刀筆吏(とうひつり)と言います。2500年前では文字は木簡や竹簡に筆で書いていたので、書き損じた時は、削るしかなかったのです。刀は消しゴムでした。それで、今なお削除ということばにその名残がありますね。

紙がまだ発明されていなかった当時、木簡や竹簡というのは、形状は寿司巻きのようなものと考えてください。しかし、それぞれの板の幅が一センチ程度ある短冊形のものです。それを糸や皮ひもで綴じてあるのです。それで、隋末に活躍した英雄、李密が黄牛の背に乗ってドライブしながらその牛の角と角の間に木簡の漢書を結わえて読んでいた、という記述もあるぐらいです。なんともおおらかな牧歌的風景ですね。

さて、史官となるには、先ず漢字を覚えている必要があります。当時どのぐらいの漢字を覚えていたと思いますか?前漢の歴史書である漢書芸文書には九千字覚えて始めて一人前の書紀となれる、と書いてあります。この数字は大変な数です。あの有名な論語は、わずか1500文字レベルしか使われていませんし、唐の詩人・杜甫ですら五千文字レベルです。それと比較すると当時の書紀のレベルの高さが分かります。参考までに、現在の普通の漢和辞典には約一万字、さらに最大の諸橋の大漢和辞典で約五万文字が収容されています。

さて、中国では紙が後漢の蔡倫によって約ニ千年前に作られるまではラブレターも木簡あるいは竹簡に書いていたわけです。周の時代の詩集である詩経の鄭風という章にある恋愛詩に子衿(しきん)というのがあります。『青青子衿、悠悠我心、縦我不往、子寧不嗣音....一日不見、如三月兮』(あなたのシャツのえりの青々とした色が目に焼き付いています。いつもあなたの事を思っているのにどうして便りをくださらないの。一日でも会えないとまるで三ヶ月も会っていないように思えるの。)という内容の熱愛なラブレターです。



一方の同じ頃ローマではラブレターは何に書いたのでしょうか?中国と異なり、板に直接書くのではなく、二つ折の板の片側にロウを塗って、それをペン先で削って書いていたようです。そして記述した後は、それを閉じて紐の結び目にロウをたらして自分の指輪を押し付けて封印としたようです。歴史に残っている記述では、あの有名なシーザーはなかなかの女たらしであったらしく、ある時元老院の会議の最中にラブレターが送られてきました。封を切ってそのラブレターを読んでいたのを丁度その時弁壇で演説していた、カトーがそれを見咎めて、シーザーにそれを読めと迫りました。シーザーは黙ってそのロウ版をカトーに手渡しました。カトーはそれを陰謀の内容だと邪推していたので、皆に聞こえるように大声で読み上げていく内に、それが彼の妹が既婚にも拘わらず、シーザーに出した浮気のラブレターだという事を知ります。それで、『とって置け!このゲス野郎め』とシーザーに投げ返したと言います。(ちなみにこの妹、セルウィリアはシーザーの暗殺者ブルータスの母なのです。複雑至極。)

さて、日本はハンコ文明だということをよく言われますが、実はローマもこの封印に見られるようにハンコ文明であったのです。悪名高いローマ皇帝・ネロの側近で放蕩ざんまいで有名なペトロニウスという人がいます。彼が書いた小説に『サティリコン』というのがあり、特にその一章の『トリマルキオの宴会』には当時の贅沢な宴会の様子がこと細かく記述されています。ローマの美食家では以前紹介しましたなアピキウスがいますがこの『トリマルキオの宴会』はレシピーの説明だけでなく、当時のド派手な宴会の様子もまるで映画のように記述されています。このように享楽的な生活を送っていたペトロニウスも最後にはネロに疎まれて、自殺する破目になります。当時の貴族達の自殺は手首の静脈を切って、出血多量で安らかに死ぬのが定番だったようです。ペトロニウスは死の門出に友人を呼んで宴会を開き、ワイワイとネロの悪口などを言いながら死のうとします。一度は手首を切ったものの、まだまだしゃべり足りない、というので、手首の傷の手当てをして仮眠を取ったあとで宴会を再開してようやく息を引き取ったといいます。その前に自分の指輪を槌でたたき壊します。それというのも指輪で封印されたものは言ってみれば自署のようなものなので、ネロに悪用されて犠牲者が出るのを恐れたからです。

話は変わって、書道のことを臨池とも言いますが、これは後漢の書道の名人・張芝が書道の練習の後で硯石を池の水で洗っていたところ、あまりにも練習回数が多いのでとうとう池の水が墨で真っ黒になったという故事に基づいています。この時はまだ紙が貴重だったので、池の淵にある平たいすべすべとした石に書いて練習していたと言われています。

パット・ブーンの歌にあるような砂に書いたのは何もラブレターに限りません。ニ千年前のギリシャでは、幾何学の問題を考えるために地面に砂をまいて図形を書いたそうです。それで、シシリー島の領主ディオニュシオスの招きでプラトンがシシリー島へ行って幾何学の講義を始めると 宮廷中に砂ぼこりが舞い始めたと皮肉られています。

近年、セキュリティや暗号化のことが話題となりますが、歴史を読むと2500年前のスパルタにスキュタレという暗号システムがあったことが分かります。この暗号方式とは、棒に細い皮ひもを巻きつけ、それの長手方向に文字を書きます。書いたあとは、その皮ひもだけを伝令で送ります。受け取った人は前もって元の棒と全く同じ太さ・形状のものを持っていますので、それに文字の書いた皮ひもを巻き付けると文字が読めるという仕組みです。一種のスクランブル信号だったのです。

今回は、ラブレターは砂だけでなく、いろいろなものに書けるというお話でした。
コメント (6)
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