この地はイタリアとフランスを結ぶ国境線である上、すぐ後ろには険しい山脈が迫っており、戦略的には極めて重要性の高い土地であった。そしてベルギーと同様、古来からこの地を巡って戦争が繰り返されて来た。
ベルギー旅行その3
町が建設されたのは紀元前5世紀ごろで、ギリシャ人による植民都市であった。しかも町の名前もギリシャ語の「ニカイア(勝利)」に由来するというのだから、恐らく何かの戦争の後に命名されたのであろう。
この地にやって来た国や民族を一つずつ挙げて行くと、それだけで本が一冊書けそうである。ケルト人、ローマ帝国、サラセン海賊、キリスト教徒などがかわるがわるやって来てはこの地で戦争を繰り広げた。中世にはギベリンとゲルフの争い(*注)に巻き込まれた。そして近代ではフランスとイタリアの間での争いが有名である。高校時代に世界史を習った方であれば、写真の銅像の人物が誰であるかお分かりになるであろうか?ジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)である。イタリア統一の3傑の一人とされている人物である。
19世紀のイタリアは国内にバラバラに多数の国が集まっている状況で、統一国家ではなかった。このうちの一つ、サルディニア王国がイタリアの統一を推し進める原動力となる。ガリバルディは軍人として幾つもの戦いを戦い、イタリア統一に大きく貢献した。自分の率いる部隊に赤いシャツを着せ、これは「赤シャツ隊」として有名である。時には敗走して命の危険にさらされた事も一度や二度ではなく、また妻も戦場で失っている。
彼はニースの出身であり、自分の生まれ故郷は統一されたイタリアの一部になると信じていた。があっさりその期待は反故にされてしまう。サルディニア王国政府はイタリア統一をフランスに承認して貰う代わりのお土産として、ニースをフランスに差し出してしまうのだ。彼の失望と怒りは想像に難くない。ガリバルディは晩年、あちこちから議席や政治ポストを準備されたが、政治家になることは選択しなかった。そして余生を家族と小さな島で送ったという。彼の名を冠した通りや広場はイタリアの各地にあるが、ニースでも旧市街の近くに写真のガリバルディ広場がある。
注--下記参照。
Wikipedia「ギベリンとゲルフ」
ベルギー旅行その3
町が建設されたのは紀元前5世紀ごろで、ギリシャ人による植民都市であった。しかも町の名前もギリシャ語の「ニカイア(勝利)」に由来するというのだから、恐らく何かの戦争の後に命名されたのであろう。
この地にやって来た国や民族を一つずつ挙げて行くと、それだけで本が一冊書けそうである。ケルト人、ローマ帝国、サラセン海賊、キリスト教徒などがかわるがわるやって来てはこの地で戦争を繰り広げた。中世にはギベリンとゲルフの争い(*注)に巻き込まれた。そして近代ではフランスとイタリアの間での争いが有名である。高校時代に世界史を習った方であれば、写真の銅像の人物が誰であるかお分かりになるであろうか?ジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)である。イタリア統一の3傑の一人とされている人物である。
19世紀のイタリアは国内にバラバラに多数の国が集まっている状況で、統一国家ではなかった。このうちの一つ、サルディニア王国がイタリアの統一を推し進める原動力となる。ガリバルディは軍人として幾つもの戦いを戦い、イタリア統一に大きく貢献した。自分の率いる部隊に赤いシャツを着せ、これは「赤シャツ隊」として有名である。時には敗走して命の危険にさらされた事も一度や二度ではなく、また妻も戦場で失っている。
彼はニースの出身であり、自分の生まれ故郷は統一されたイタリアの一部になると信じていた。があっさりその期待は反故にされてしまう。サルディニア王国政府はイタリア統一をフランスに承認して貰う代わりのお土産として、ニースをフランスに差し出してしまうのだ。彼の失望と怒りは想像に難くない。ガリバルディは晩年、あちこちから議席や政治ポストを準備されたが、政治家になることは選択しなかった。そして余生を家族と小さな島で送ったという。彼の名を冠した通りや広場はイタリアの各地にあるが、ニースでも旧市街の近くに写真のガリバルディ広場がある。
注--下記参照。
Wikipedia「ギベリンとゲルフ」