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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

作品を読む ②

2019年03月09日 | 作品を読む

 作品を読む ②



9.SにのぼってIにゆきつく幻のタイプライターを這うかたつむり 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 2019/2/1)
調べてみた何台かのタイプライターのキー配置では、S→Iは、Sから右へ5つキーを移動し、上へ1つ上がるとIにたどり着く。SIの略語も調べたが15個位ヒットした。SIには、「System Integration」(システムインテグレーション)の意味もあるが、これは特別の意味のない任意のものか。ただゆっくりじっくりと言葉を成すことの喩か

「幻のタイプライター」とあるから、当然これはかたつむりがキーを移動している実景ではない。とするならば、喩やイメージと見なすほかない。しかし、〈私〉は、実景のようなイメージでゆっくりと言葉を紡ぎ出す。パソコンのキーボードでなく、「幻のタイプライター」という古い語の選択も有意味か。

この歌から、ふと前 登志夫の蝸牛の歌を連想した。
蝸牛わが歌の枝すべりゆくこのしづけさや三十歳(みととせ)過ぎき
かたつむりわづかにうつる枝の上に漂泊の夢しろく濡れをり
朦朧とわが煩悩の底をゆく蝸牛の時間ものみな睡る



10.セルロイドかざしつつ見き太陽のはつかに欠けてしずかなりしを 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』

★(私のひと言評 2/2)
今は死語かもしれないが、「セルロイド」という言葉ひとつにも時代の生命の放出したイメージのかけらみたいなのがある。そしてそこを生きた世代として「セルロイド」という語感が共通に生きている。私は「青い眼の人形」(青い眼をした お人形は アメリカ生れの セルロイド)という歌も耳に残っている



11.いなくなるとさびしいもんだ烏羽玉の黒瀬は何処、黒瀬は居ずや 加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 2/3)
前半の口語「いなくなるとさびしいもんだ」と後半のちよっと文語的な表現で、おどけたものか。「黒瀬」は人ではなく、黒猫ではないか。「烏羽玉」に初めて出会った。和菓子の烏羽玉(うばたま)もあるが、(ぬばたま)という読みの枕詞か。



12.言葉では ない言葉では ない言葉 ではない言葉 ではない言葉  加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 2/6)
言葉で表現しているのにその言葉では十分に言えない、果てしなく言葉を否定していくというちょっと概念的なイメージの歌に見えるけど、この後景には、わたしたち誰もが経験している言葉を巡るもどかしい苦しい苦い思い群がある。あるいは、言葉を発する相手に対する否定の表現とも読める。



13.いかなる生も敗北ならば、薬包紙たたいて寄せる白色(はくしよく)の粉 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 2/7)
太古には、大いなる自然(宇宙)も人間界も未分離だった。だから、私たちのちっぽけな人間界の生を照らすものは、人間界と言うより人間を超えた大いなるものだったろう。今や大いなる自然と人間界は分離され、人間界中心頭中心の時代になり、例えば「勝ち組」やら「負け組」などの人間界の中のちっぽけな圏内の言葉が大手を振っている。太古の視線によれば人の生に勝ち負けなんて関係ない。人間界内に限れば、人は誰もがその重力下にあり、勝ち負けも「敗北」も大いに意味を持たされているのだろう。この「白色の粉」は人を生かすものではなく死をもたらすものか。



14.蒲団ごと運ばれてゆく幼子はひゃんらんひゃらりこちちははの笛 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 2/9)
これは赤ちゃん蒲団か、父母は何か声かけしながらきちんと寝かせようと蒲団ごと運んでいくのだろうか。おもしろい。「ひゃんらんひゃらりこ」は、昔々の「笛吹童子」(どんなものか中味は忘れてしまったけど)の歌「ひゃらーり ひゃらりーこ」を連想させる。『ハレアカラ』(砂子屋書房、1994年)1994年なら、1959年生まれの作者は35歳頃。



15.時計仕掛けの絵本をよめばすずかけの並木をぬけてまた出逢う導師(グル) 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 2/11)
「時計仕掛けの絵本」って何?と思って調べたら、ほんとに時計が仕込んであり手で針を動かせる絵本があった。子どもに読んでやっている絵本だろうか。絵本を見聞く子どもとは別に〈私〉のなじんだ出会いがある。

「すずかけの並木」は、絵本の中の風景なんだろうけど、検索したら、何度か聴いたことがある「月がとっても青いから」(1955年)の歌、「月がとっても青いから 遠まわりして帰ろう あの鈴懸の並木路は 想い出の小径よ 腕をやさしく組み合って 二人っきりで サ帰ろう」もヒットした。



16.世田谷線のたりのたりとゆくときのさくら花びらスカートにふる  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 2/11)
「のたりのたりとゆく」はゆっくり進む電車か、〈私〉は、その電車に乗っていて、さくら花びらが歩いている女性のスカートに舞い落ちるのが目に入った。なぜだか作者はそれをいい感じの光景と選択した。あるいは、〈私〉は電車の外から電車とさくら花びらと女性を見ているともとれる。

東京のことほとんど知らないから、検索したら世田谷線の路面電車沿いに桜並木があるようだ。

・「のたりのたりと」:副 ゆるやかにのんびり動くさま。「春の海 終日[ひねもす]のたり のたりかな 与謝蕪村」



17.危機というのも嘘っぽいクイーンの乳房のような牡蛎をすすれば 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 2/12)
この今の「クイーンの乳房のような牡蛎をすす」る快楽に浸る〈私〉からは、危機という切迫感も少し遠くに見感じられると言うことか。作者はその双方を見ている。これは一般化すると、例えば自分の日々のある小さなことと自分の身辺に迫ったある危機、あるいは社会的な危機でもいい、その関係。世界の重力は、わたしたちの日々の小さな生活の方にあり、心の重心もまたそこにある。



18.ゆるやかに櫂を木陰によせてゆく明日は逢えない日々のはじまり 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 2/12)
うーむ、〈私〉に何があったのだろうか、別れか。「ゆるやかに櫂を木陰によせてゆく」は、今までの生活のリズム(舟の進み具合)をスローダウンして折り畳み独りの思いに浸かることの喩表現。



19.言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!  加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 2/13)
表現として、ああ、いいね。



20.天白川が氾濫しますながれゆく十万本の紙巻煙草(シガーレツト)  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 2/16)
めったなことでは「十万本の紙巻煙草」が流れゆくわけがないから、これは喩だろう。大水時の異様な光景の喩か。



21.わたくしは言葉ではないあからひく朝のひかりはきらりさりけり  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 2/16)
人類には、ちょうど赤ちゃんがそうであるように、言葉を獲得する以前の言葉のようなものの段階もあったはずである。そのようなものが私たちの心や意識の深層からむずむずと湧いてくることがある。あるいはまた、そんな言葉が滑り台を滑るようなほとんど指示性のない表現。

註・この歌の経緯に関して、『短歌のドア』(P107-P108 加藤治郎)に載っているのをその後見つけた。題が「葉」という歌会での歌「わたくしは言葉ではないあからひく朝のしんかんせんきらりさり」に始まり、それが後に改作されたもの。「わたくし」は、「わたし」より改まった表現である。5音という語数の意識もあるかもしれないが、むしろ歌会という場を意識したものか。



22.東直子の小説をよむひるさがり わたしの岸に波もりあがる  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 2/23)
東直子が歌人とは知っていたが、小説も書いてるとは知らなかった。後半の句は月並みに言えば「感動した」ということだろう。今読書中の加藤治郎『短歌のドア』で、「固有名詞」に触れている。だから、十分意識して「東直子」という固有名詞は選択されているのだろう。

「東直子」のwikiには「1991年に加藤治郎の紹介で未来短歌会に入会し、岡井隆に師事した後、1993年より歌人集団「かばん」同人。」とある。「東直子」が交換可能な偶然性ではないとすれば、近しい歌の付き合いがあって、ああ小説を書いたのかと手に取って読んだか。



23.コンビニでちんしてもらったべんとうのふたの水滴 監視サレテル 加藤治郎『ニュー・エクリプス』

★(私のひと言評 2/28)
何気ない日常の流れの中で、〈私〉はふとべんとうのふたの「水滴」に目が行った。そういう視線と感受が、日常の裂け目に落ちていった先から、なぜか「監視サレテル」という了解が浮上してきた。コンビニの者からか他の誰かからか「監視サレテル」、ちょっと異様なドラマ風の表現。


短歌味体Ⅲ 3083-3085〈あ〉の物語シリーズ・続

2019年03月09日 | 短歌味体Ⅲ-5

[短歌味体 Ⅲ] 〈あ〉の物語シリーズ・続

 


3083
何気ないくり返す日々の
突然に
〈わ〉の引力圏に引かれる〈あ〉は

 


3084
ふるふると〈あ〉が光り出し
E・Tの
指触れあう〈あ〉と〈わ〉は

 

 

3085
今までは知らない道が
〈あ〉の前に
さあどうぞと開かれてある