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8.層成す世界 3 (覚書)

2017年01月21日 | 子どもでもわかる世界論

 子どもでもわかる世界論のための素描
  ―宇宙・大いなる自然・人間界論

 8.層成す世界 3 (覚書)


 前回の註で取り上げた吉本さんの把握を借りれば、人間が自分と自然の違いに目覚め始めてから、人間の自然から分離されているという意識が始まり、どんなに靄のかかったようなあいまいなものとしてであれ、人間の自然認識が始まります。これは自然の内に埋もれるように生きていた人間の動物生そのものからの離脱を意味するから、同時に人間的な意識の始まりや言葉の端緒とも言えるもの、言いかえると現在的な人間的な次元の始まりを意味します。

 そして、長い時間の中、その自然認識は次々に積み重ねられ、大きな一つの水準と見なせるようなものを形成していきます。そうして、現在に到るまでいくつかの大きな段階を画するようになります。ここでそのような自然認識の大まかな段階を覚書程度に設定してみます。それらがどのようにわたしたちの中に取り入れられて層を成しているのかという詳細の機構は今のところよくわかりませんが、わたしたち人類はそれぞれの層をたどって現在に到っていることは確かなことです。


1.自然認識 0次元

人間が動物のように自然に埋もれるように存在していて、人間の薄明の意識のような状態の中自然が未だ人間から分離されていない段階。動物生の段階。



2.自然認識 1次元

人間が自然から分離されているという意識を獲得してしまいます。このことは言葉というものの創出にもつながっていきます。圧倒する自然力(自然のもたらす慈愛や猛威)に対して、気まぐれな母に付き合うほかない子どものように、自然のあらゆるものに〈大いなる自然〉として〈神性〉を見出していく段階。狩猟採集の段階に対応しています。



3.自然認識 2次元
 
人間が自然を本格的に制御し始める段階。見出された〈大いなる自然〉の〈神性〉が、人間界に引き入れられます。王が生まれる。この列島社会では、古代国家の成立辺りの時代に対応しています。産業としては、農業という第一次産業の本格的な稼働の段階と対応しています。



4.自然認識 3次元

自然を変形・利用する第一次産業の積み重なりの中に、この列島では近世が終焉を迎える頃から産業革命を経たヨーロッパの波が押し寄せ、自然を大規模に開発し、切り拓くという段階を迎えます。時期としては明治以降の近代に相当し、産業としては商工業の第二次産業中心の社会段階に対応しています。この段階は、人類が自然に対する人間力をずいぶん増強させてきた段階に当たります。それまでの謙虚さからこの時期に横着さが漂い出すのはそういう背景があります。



5.自然認識 4次元

近代的な開発経済が、総仕上げのように高度経済成長や列島改造などとして社会的に積み重ね滲透させてきたその水圧から花開くように、サービス産業や消費ということが中心に躍り出た消費資本主義の段階を迎えています。ここでは、従来的な人間と生の一次的な自然との付き合いから、それが1次元繰り上がってしまった人工的な自然と人間との関係の段階になってきています。それは社会のあらゆる分野、あらゆるシステム全体にわたっていくものであり、今後次々に高度化されていくはずです。それと並行してわたしたちの自然認識も従来のものを次々に更新して新たな次元の自然認識という水準を形作って行きます。もちろん、従来的な人間と生の一次的な自然との付き合いも残存していきますが、新たに構成されていく自然認識からの反照を受けたイメージがそこにも付加されるだろうと思われます。この段階は、サービス産業や消費が中心になった消費資本主義の現在に当たっています。付け加えれば、自然認識の1次元から3次元が人間と生の一次的な自然との関わりだったとすれば、この自然認識の4次元の現在はそこからの次元を異にするほどの大きな飛躍に当たるから、このことは、次の大きな段階への端緒となるような気がします。



 ところで、『チベットのモーツァルト』(中沢新一 講談社学術文庫)の「解説」を吉本さんが書いています。本書の中沢新一の「学術文庫版まえがき」によると、2003年近くに書かれた吉本さんの文章ということになります。



 ヘーゲルやルソーのような近代の哲学者が定めた野蛮や未開から近代までの歴史展開の「段階」は、たぶん小「段階」で、ほんとうは大「段階」の一つをまた小さな段階で区切ったものにすぎない。近代の哲学者は、近代までの一つの段階にすぎないものを人類の歴史のすべてと見なし、それを西欧近代の文明・文化を史観によって刻んで頂点として進歩の順に並べて見せた。しかし人類が種としての種から分岐し、独立したのは百万年単位の以前であり、地域によって種族語に分割され、共通の母音をもちながら種族語に分岐したのは十万年単位の過去だったとすれば、ヘーゲルのような小「段階」を区切る進歩主義の単純な展開では、この種としての分岐と種族語としての言語の地域分割との間の期間はすべて同一な動物性ということになってしまう。
 近代哲学者たちが言う野蛮、未開とは、ほんとうはそれ以前の大「段階」の終焉であり、同時に現「段階」の初期であると考えるべきで、現在の大「段階」の終焉の後には現在確定し難い次の大「段階」に移行する。そう見なすべきではなかろうか。
 わたしたちが現在、野蛮・未開の小「段階」の認識法を継承しているアフリカ大陸や南北アメリカの原住民や、東アジアやオセアニアの島々の知識人(呪術師)の認知法のなかに、神秘性・非科学性、不可解な妄想やこじつけとしてしか見なしえない認知法、としかかんがえられない部分があるとすれば、未発達な社会の迷蒙な認識とかんがえるべきではなく、野蛮集団から現在までの大「段階」以前の大「段階」から引き継がれたものであるのに、その思考の意味するもの、その核心が何なのかなどが判断できず、謎に満ちていると見なされているのではないか。わたしなどの段階論からすると、そんな仮説ができるように思える。
  (『チベットのモーツァルト』「解説」P329-P330 吉本隆明)




 わたしはこの吉本さんの「解説」を身震いするようなある感動とともに読んだ覚えがあります。それはこんな深みまで吉本さんの視線や言葉は届いていたのかという驚きでした。そして、そのことによって、人間という存在の始まりの不明の闇がいっそう深まり、ということは人間はこれからどのような道を踏んでいくのだろうかという不明さにも通じているという思いがしました。

 この吉本さんの「解説」を踏まえれば、ここでわたしが覚書程度に設定してみた自然認識の水準の2から5の途方もない時間も含む「小『段階』」をひとまとめにしてひとつの「大『段階』」と見なせば、1以前はまたそれ以前の「大『段階』」ということになります。この場合、現在的な人間的次元の始まりに当たる言葉を生み出す端緒の時期からをそれ以前とは画するものとしてひとつの大『段階』と見なしていることになります。人間も原始生命体から進化して現在の姿になったという現在までの知見によれば、さらにそれ以前にもいくつかの「大『段階』」が想定できそうです。その場合、「自然認識」ということはほどけてしまって「自然との関わり合いの水準」とでも言うべきものになります。


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