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6.層成す世界 1

2017年01月17日 | 子どもでもわかる世界論

 子どもでもわかる世界論のための素描
  ―宇宙・大いなる自然・人間界論

 6.層成す世界 1



 例えば、縄文期の土偶を見て、なぜこのような造型になるのだろうか、背後にどのような意識的・無意識的なイメージや考え方や思想があるのだろうか、と思ったことがあります。あるいはまた、鎌倉期の親鸞の〈他力本願〉や〈浄土〉という言葉に何かしっくりこないものを感じたことがあります。その後者について取り上げてみると、現在の社会を見渡せば、いくら〈他力本願〉と言われてもわたしたちは自力中心の世界に居るよなあという実感とのずれはどうしようもないように思われます。もちろん、他者との関係や家族関係や小社会での関係でどんなに〈自力〉を出してもどうにもならないということもあり、そういうことを考慮すると正確には世界の方から関与してくる〈他力〉との関わり合いとしての〈自力〉中心の世界というのがわたしたちの実感に近いと思われます。また、〈浄土〉という言葉についても亡くなった人が焼かれて白い骨になった姿を目にするともはや〈浄土〉というものは実体として存在するとは思えません。それでも、体と魂は別物として魂の実在や〈浄土〉の実在を信じる人が現在でも少数居るかもしれません。

 しかし、輪廻転生が信じられそれらが社会内の風習や行事や宗教や政治と絡み合ってひとつのシステムとして社会に組み込まれていた歴史の段階も太古にはありました。その当時の人々の日々の意識的な活動は、そういう歴史の段階にあるということが無意識的な前提となり、その前提に支えられていたはずです。輪廻転生が信じられていたこの太古の歴史段階では、〈浄土〉という別の世界が実体として存在することに疑いはなかったでしょう。中世期でもそんな実体としての〈浄土〉という考えが輪廻転生期の考え方の残骸のように存在していたようですが、親鸞には〈浄土〉はもはや実感できないものとなっていたはずです。

 このように、互いに歴史の異質な段階を画するようなことから言えることは、各時代はある大きな歴史の段階を無意識的にイメージや考え方や思想の前提としているということです。ここで「無意識的」というのは、その現在に生きている人々にとっては、その前提は生きていく上での空気のようなもので割と自然な前提になっているからです。また、それはわたしたちに気づかれにくい自然なものとしてずいぶん身に付いているから、無意識的な前提とするわたしたちの現在を自覚的なものとして取り出すのはとても難しいと思います。

 古い歴史段階の全体的なシステムから来るイメージや考え方や思想は、新たな大きな変貌の過程で人々の中にあるいは文化の中にそれぞれ下位の層としてひっそりと保存されていくのではないかと思います。これが中世期までも実体としての〈浄土〉というものが残留した理由でしょう。各時代の無意識的な前提とされる歴史の段階が大きく異なっている時、相互間の先端から視線や触手を伸ばした場合はおおきな実感のずれが起こることは確実です。そういうわけで、わたしたちの現在は、知識世界の人や僧である人以外の大多数の普通の人々にとって、〈他力本願〉や実体としての〈浄土〉はもはや実感できないはずです。

 わたしたちは無意識的な前提としている現在を無意識的に携えて、歴史を遡行して行きますが、これが遡行された歴史に感じる実感のずれを引き起こします。たぶん親鸞の生きた中世期は、飢饉や病や動乱に悩まされる人間界はまだ圧倒的にちっぽけで、自然は〈大いなる自然〉としてひとつに溶け合った大いなる威力を持つものとして感受されていたでしょう。親鸞の言う〈他力本願〉や〈他力〉はもちろんそれまでの仏教思想を踏まえた捉え方と言えるのかもしれません。しかし、ここのわたしの〈層成す世界〉という捉え方からすれば、飢饉や病や動乱に悩まされる人間界や〈大いなる自然〉の人々の手ではどう動かしようもない超越性と人々の自力の圧倒的な無力さという対比的な状況を踏まえれば、人間界を超えた、超越性としての〈他力〉という考え方が生み出されることは必然のように見えます。

 こうして、現在からの無意識的な色眼鏡(前提)で過去の世界を見て捉えるということをできるだけ排除して、人類は今までにどのような歩みをしてきていて、これからもどのように歩んでいくのかとも関わる〈層成す世界〉の実情を正しい姿として捉えるには、〈層成す世界〉の構造を自覚的に押さえ自分の視線や考えに繰り込むことが大切だと思います。


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