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『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ③

2020年04月16日 | 坂口恭平を読む
 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ③


 3. 物語の渦中で、「医務局」とは何か


 物語世界が、現在の世界を呼吸する作者によって構築された幻想の世界である以上、そこには現在の世界にある風物が作者の意識的あるいは無意識的な選択により写像されてくる。そして、その選択には街の風景の描写のように割と自然な場合もあれば、物語世界に欠かせないものとして選択される場合もある。次の「医務局」は、後者の例のように見える。本文中から、「医務局」に関わる表現を拾い出してみる。


3.「医務局」に関わる言葉から

A.
 タダスの話によると医務局という場所があり、混乱した人間たちはそこに運ばれるという。モリと呼ばれていた医務局は、いま働いている現場、C地区の中にある。C地区は広大で、医務局だけでも三つあるという。
 (『建設現場』P33 みすず書房 2018年10月)


B.
 「今日は定期検診だ」
 しばらくするとロンがまた口を開いた。定期検診など受けたことがなかった。体調の悪い者は、自己申告すればいつでも医務局で診てもらうことができた。わたしは健康体そのもので、自分が普段思い巡らせているこのよくわからない頭の動き以外は風邪一つ引かなかった。★定期検診という存在自体知らなかった。ロンに聞くと、それは誰もが受けるわけではなく、定期的に無作為に一人の人間が選ばれ、その人間を診察し、他の労働者たちの体調を予測するためにデータを取るという。それで今回はわたしが選ばれたというのだ。★
 「どうやって選ばれるの?」とわたしは聞き直した。
 (『同上』P71-P72)


C.
 医務局での女による面接・質問の場面 (『同上』P76-P81)

 女はそこで質問を終えた。一切、わたしに触れることもなく、血液検査などもなかった。問診というよりも、ただの質問だった。★わたしに関することを異常に詳しく知っていた。わたししか経験していないはずのことを、なぜ女が知っているのか。もちろん労働者の行動は人工衛星で管理されている。しかし、女はわたしが見た夢のことも知っているような気がした。ただそんな気がしただけだが、そういうかすかな気づきですら女は感じ取っているように見えた。人工衛星で管理しているといっても、わたしの思考回路まで知ることはできないだろう。それなのに、女はわたしのことをすべて知っているような気がした。しかも、頭の中まで感じ取っていた。★
 (『同上』P80)


D.
ウンノは「おれ、建設現場から離れて医務局にいた」と言った。
 「ぼくも定期検診の途中なんだけど」とわたしが言うと、ウンノは何かわかっているのか、笑顔で「冗談は寄せよ」と言った。
 「ここはサイトって呼ばれてて、医務局を出てきたやつら、つまり入院中だった労働者がリハビリを行うところなんだよ。本格的に建設現場へ戻るまでの間、しばらく集団生活をするんだ」
 ウンノは説明しながら、わたしを二階建ての白い建物の前に連れて行った。
 (『同上』P97)


E.
 医務局内の椅子に三十人くらいの労働者が座っていた。実際に働いた経験のある者は一人もいなかった。しかし、手は汚れ、作業服も破れていた。中には女もいた。女はどうしてここにきたのかわからないようで、ひとりごとをつぶやいていた。
 ★医師たちは労働者たちの疑問に答えることなく、黙々と診察をはじめた。★目を開き、小さなライトを当てると、瞳孔の動きを確認した。瞳孔をカメラで撮影したあと、大きく壁に映し出した。いくつかの測定を同時に行っていた。
 労働者たちは働く必要がないと気づくまでにしばらく時間がかかったが、それがわかるとみな笑顔になった。食事は好きなときにとることができた。医務局に十年以上滞在している者もいるという。中にはここで結ばれた者たちもいた。
 家族をつくった労働者たちには仕事が与えられた。仕事の内容は、いくつかの薬を飲みながら、家族と生活を続けていくというものだった。はじめは彼らも戸惑っていたが、そのうちにどうでもよくなったのか、家族ですらないものも、家族の一員だと言い張ったりしだした。しかし、医師たちは彼らの言う通りに従った。
 医務局では患者たちにすべての決定権があった。彼らの意見は法律よりも強かった。「動物国をつくりたい」と子どもが言った翌日には建設がはじまった。しばらくすると彼らは医務局の敷地すべてを、彼らが見た夢の世界と同じものにつくりかえてしまった。●完成までには長い歳月がかかっていたが、実際は一瞬の出来事だった。●医者は労働者たちの一瞬の思いや記憶、創造性に注目していた。
 (『同上』P141-P142)


F.
 「なぜ医務局に戻ってきたの?」
 「報告のためです。わたしは感じたことを、さらに進めました。地理的調査と同時に、そこで暮らす人々の頭の中で起きていることも記録に残しました。それは思考回路とは幾分異なるものでした。彼らは手足を動かすのと同じように頭の中で見つけた風景のことを写真に写したり、そのための機械をつくりだしたりしています。その行為のもとになるもの、●その力そのものの研究を行うために、わたしは毎日、歩き続けました。しかし、一歩も外に出ていないような気もしています。足は一切汚れてません。●むしろ、体はだるく、外の空気を吸った実感がまるでないのです。」
 「あなたの名前は?」
 ★「サルト。名前は自ら思い出しました。しかし、以前にもサルトと名乗る人間がいたことがわかっています。B地区内にある登録課で判明しました。・・・中略・・・わたしはサルトという名前が、ある動物から発生したのではないかと考えています。しかもこのことが現在、A地区の工事が遅れている原因と関連がありそうなのです。★しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」
 (『同上』P172-P173)


G.
 わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。


今では医務局にいたせいか分からないが、勝手に自分の意見ではないことまで頭に浮かぶようになってしまった。それで困っていると、また次の薬、それを止めるためにまた次の新しく開発された薬が投与された。わたしは薬物中毒になっていた。それでもまだ逃げることができた。ほとんどの人間は逃げる気なんかなくなってしまって、うめき声なんかひとつも聞こえず、聞こえてくるのは恍惚とした声ばかりだった。
 わたしの頭は少しばかりおかしくなっていたからか、いつも別の景色が見えていた。それはこの近辺の景色だった。昔の姿なのか、これからの姿なのか、わからないところもたくさんあった。それでも見えていたことは確かだった。
 (『同上』P222-P225)



 この作品に出てくる医務局関連の部分を抜き出してみた。そのA~Gの部分の中で、★・・・★で囲った部分は、わたしたちが病院に対して持つ一般的なイメージと違う部分であり、作品世界の「わたし」≒「作者」の疑念や被害感からの表出ではないかと思える部分である。Fの★・・・★で囲った部分の後には、「しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」という言葉が付け加えられている。これは、「わたし」(サルト)の相手に投げかけられた内省の言葉であると同時に、「わたし」≒「作者」の作品世界に対する内省の言葉でもあるような気がする。いわば、★・・・★で囲った部分の自己の了解に対する留保の言葉になっていると思う。

 次に、A~Gの部分の中で、●・・・●で囲った部分は、物語や話の現実性としては矛盾する表現の部分である。たとえば、普通では「完成までには長い歳月がかかっていた」=「実際は一瞬の出来事だった」は成り立たない。しかし、作品世界の「わたし」≒「作者」にとっては、二つのイメージの等号あるいは接続は認められている。作品世界の「わたし」≒「作者」には、そのようなイメージ流として体験されたということを意味している。

 Bによると、「定期検診」は、「わたし」含めて受け身的なものと見なされている。毎月1回通院しているわたしの場合もそうだが、通院は受け身的なものとして感じている。病院(医務局)とはわたしたちにとってできれば行きたくないようなところだと思う。したがって、「定期検診」が「わたし」に受け身的なものと見なされていることはわたしたち誰にも当てはまることだから別に問題ではない。問題は、その受け身性からCの描写にあるように、「わたし」が人工衛星で管理されているとか頭の中まで感じ取られているというような、追跡されているとか察知されているとかの被害感の存在である。ここが、普通の病院体験とは異質な描写になっている。

 作者がうつ病で病院にかかっていることについては、昔ツイッターで見かけたことがある。また、Gの記述にあるように、処方される薬が薬物中毒をもたらすこともあるとツイートにも出会ったことがある。この作品世界での「医務局」は、普通の病院のイメージとは違っているように見えるが、「医務局」のリアリティーの根っこにはうつ病の作者の通院の体験があるのではないかと思う。その時の体験が作品世界に写像され織り込まれているように見える。


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