とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

安倍元総理の「国葬儀」の感想

2022-09-28 18:50:29 | 政治
 安倍元総理の「国葬儀」については、多くの人が語っているので今さら私が意見を言うまでもないのだろうが、2点だけ感想を述べる。

 1点目。葬儀の当日まですぐ近くで反対デモをするのは、さすがにいかがなものかと感じる。今回の「国葬」には私自身も反対である。安倍晋三氏に対しては政治家として反感を覚えることのほうが多かったのは事実である。しかも閣議決定で「国葬」を決めるというのはこれまでなかったことであるという。最近の政治家の自分勝手さにあきれると同時に怒りを覚える。とは言え、儀式の当日にしかも日本武道館のすぐそばで反対デモをするというのは、さすがに遺族に失礼だ。強く反対する気持ちは、最終的に選挙で意思を示すしかないのである。こんなバカなことをしていれば、反対派に対する反感も高まるであろう。常識的な判断をしてもらいたい。

 2点目。自衛隊が目立ちすぎだ。日本は平和国家だ。それなのに自衛隊の参列者があまりに多く、しかも空砲を打つなど、軍事色の強いイベントになっていた。一見右翼集会のようにも見える。誤解のないように申し上げるが、自衛隊が悪いと言っているわけではない。自衛隊に対する反感もない。しかし日本は敗戦国であり、そこから平和国家であろうと努力してきた国だ。あそこまで自衛隊が前面にでる必要はあるまい。

 今日本は経済的に大変な状況だ。外交面でも多くの問題がある。政治家にはもっとまじめに政治をおこなってほしい。
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超低金利政策と国債

2022-09-27 08:08:56 | 政治
 普段の買い物でも、物価の上昇を強く感じるようになってきた。感覚からすれば去年より5割増しのような気がする。5割までの物価上昇ではないと思われるが、急激に物価が上がっているのは明らかだ。インフレ傾向であると言っていいだろう。
 
 諸外国では金利を上げ、インフレを抑えようとしはじめた。しかし日本だけは違う。超低金利政策を維持し続けると宣言した。本当に大丈夫なのか。

 日銀が7月4日に発表した国債の保有銘柄別残高によると、日銀の国債保有額は6月末時点で517兆円となり、5月末時点の513兆円から4兆円ほど増えたということだ。

 専門家によると長期金利をあげてしまうと国債が暴落するという。なぜ長期金利が上がることが国債の暴落につながるのかというと、低い金利の時に発行された債券を売りに出す際、高い金利の時に発行された債券と同じ条件になるためには、低い金利の時に発行された債券はその価格を下げる必要があるためなのだという。経済の素人には今一つ理解できないのであるが、マーケットでは金利と国債価格は逆に動くという法則があるのだという。金利が低金利で抑えられていれば、国債の価格も高い値を維持するのである。

 日銀が金利をあげないのはそのためだという説明をする人もいた。もしそれが事実だとすればもはや日本の経済はぎりぎりのところに来ていると言っていい。泥船であり、それを見越した投資家は、日本売りを始めているようにも感じられる。

 黒田総裁は説明不足である。世界の傾向に逆らってまで低金利をするめるのならば、必死に国民を説得しなければならない。
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村上春樹「鏡」について⑥(2-6.作者は何を言いたいのか)

2022-09-23 09:09:34 | 村上春樹
2-6.作者は何を言いたいのか

 「鏡」の「語り」の構造については、以上のように作品との関連から明らかになる。しかしそれによって何が表現されているのか。つまり作品の意図は何なのかという問題が残っている。

 近代小説は「私」がテーマであった。近代になり、西洋においては神が支配していた時代が終わり、日本においては「家」という制度が崩壊し、個人が主役の時代となった。そして近代において人類が直面したのは「私」という存在である。近代は「私」と格闘している時代であるともいえる。

 近年「私」を客観的にみるメタ認知が重要になってきた。メタ認知によって「私」を客観的に見ることが可能になってきた。しかし「客観的」に見る「私」と主観的に見る「私」は同じであろうか。いや、私たちは他人が見る「私」とのずれを常に感じている。だから鏡を見ることによって安心する一方で、鏡を見ることを不安に思うのである。

 私はこの小説の根底にあるのは、「私」の不安定さだと考える。近代人は不安定な「私」を常に感じているのである。
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村上春樹「鏡」について⑤(2-4.「鏡」と「羊をめぐる冒険」との関連)

2022-09-21 14:26:48 | 村上春樹
2-4.「鏡」と「羊をめぐる冒険」との関連

 「鏡」と「納屋を焼く」の直前に書かれたのが「羊をめぐる冒険」である。その関連にも簡単に触れておく。

 第八章「羊をめぐる冒険Ⅲ」の「9鏡に映るもの・映らないもの」に次のような関連する記述がある。列挙して引用する。 

 「夕方になって鼠の部屋に新しい本を取りに行こうとして、階段の上りぐちにある大きな姿見がひどく汚れていることに気づき、雑巾とガラス磨きスプレイで磨いた。しかしどれだけ磨いても汚れは落ちなかった。(中略)
 磨き終わったあとにはくもりひとつ残らなかった。(中略)ただ鏡の中の像は必要以上にくっきりとしていた。そこには鏡に映った像特有の平板さが欠けていた。それは僕が鏡に映った像を眺めているというよりは、まるで僕が鏡に映った像で、像としての平板な僕が本物の僕を眺めているように見えた」

 「僕は台所に新しい缶ビールを取りに行った。階段の前を通る時に鏡が見えた。もう一人の僕もやはり新しいビールを取りに行くところだった。我々は顔を見合わせてため息をついた。我々は違う世界に住んで、同じようなことを考えている。(中略)
 僕は冷蔵庫から新しいローエンブロウの青い缶を取り出し、それを手に持ったまま帰りにもう一度鏡の中の居間を眺め、それから本物の居間を眺めた。羊男はソファーに座ってあいかわらずぼんやりと雪を眺めていた。
 僕は鏡の中の羊男の姿を確かめてみた。しかし羊男の姿は鏡の中にはなかった。」

 まどろっこしい解説は必要あるまい。あきらかに「鏡」と同じ構造がそこにはある。
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村上春樹「鏡」について④(2-3 「鏡」と「納屋を焼く」との関連)

2022-09-19 17:00:24 | 村上春樹
2-3 「鏡」と「納屋を焼く」との関連

 これまで書いてきた思い付きを、単なる思い付きでなく説得力のあるものに 知り合いの結婚パーティで「僕」するために、他の同時期の村上春樹の作品との関連性を見ていく。


 村上春樹が「鏡」とほぼ同時期に「納屋を焼く」が発表されている。この二つの作品に類似点、関連する点がある。

 「納屋を焼く」のあらすじは次の通りである。

 知り合いの結婚パーティで「僕」は広告モデルをしている「彼女」と知り合う。「彼女」はパントマイムが趣味だった。「彼女」は遺産を手に入れ、アルジェリアに行く。アルジェリアからは新しい恋人と帰ってくる。ある日、ふたりが「僕」の家に遊びに来る。三人は大麻を吸う。「僕」が小学校の芝居のことを思い出していると、突然、
「時々納屋を焼くんです」
と「彼女」の恋人が言う。彼は、実際に納屋へガソリンをかけて火をつけ焼いてしまうのが趣味だという。また近日中に辺りにある納屋を焼く予定だという。「僕」は近所にいくつかある納屋を見回るようになったが、焼け落ちた納屋はしばらくしても見つからなかった。「彼」と再び会うと、
「納屋ですか? もちろん焼きましたよ。きれいに焼きました」
と言う。焼かれた納屋はいまも見つからないが、「僕」はそれから「彼女」の姿を目にしていない。

 あらすじだけ読んでもまったくわからないかもしれない。ぜひ作品をお読みいただきたい。

 さて、「鏡」に話をいったん戻す。「鏡」でどうしても気になるところがあった。ラスト近く、鏡の中の自分を見つけ、鏡の中の自分のほうが自分を支配しているように感じた時である。引用する。

「僕はその時、最後の力をふりしぼって大声を出した。『うおう。』とか『ぐおう。』とか、そういう声だよ。それで金しばりがほんの少しゆるんだ。それから僕は鏡に向かって木刀を思い切り投げつけた。鏡の割れる音がした。僕は後も見ずに走って部屋に駆け込み、ドアに鍵をかけて布団をかぶった。玄関の床に落としてきた火のついた煙草のことが気になった。でも僕はもう一度そこに戻ることなんてとてもできなかった。風はずっと吹いていた。プールの仕切り戸の音は夜明け前までつづいた。うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや・・・ってぐあいにさ。」

 この場面、火のついた煙草が、嵐の日の学校に残っていたのである。当然、火事になることの暗示である。実際は学校はすべて焼けて落ち、鏡も焼けてなくなったのだ。「僕」もその火事で死んでしまう。そう、「僕」はすでに死んでいるのだ。ではこの小説の語り手である「僕」は誰なのか。鏡の中の存在の「僕」である。「僕」は鏡の中に閉じ込められたのだ。もはや出口がない。だからこそこの世界には鏡が無くなってしまったのだ。

 「納屋を焼く」も同じ構造がある。「僕」の生きている世界のパラレルな世界では、納屋が焼けてしまい「彼女」は死んでいるのだ。おそらく「彼女」は「彼」の納屋を焼くことを好む性癖を知っていて、「彼」が納屋を焼き、その納屋の中で死のうとしていたのである。「彼女」の死の存在しない世界と、「彼女」の死が存在する二つのパラレルワールドがそこにはあるのである。それはちょうど「鏡」において、学校が焼けて「僕」が死に、「僕」が存在しない世界と、鏡の中に「僕」が残されているという状況と同じなのだ。
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