とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「城の埼にて」の授業メモ

2021-10-29 17:11:59 | 国語
 志賀直哉の「城の埼にて」を授業で扱いました。この小説は結局何を言いたいのかわからずに悶々と教材研究をしていました。

 「城の埼にて」はあきらかに「死」がテーマにしています。自分が命拾いをした体験と、3つの小動物の死のエピソードを並べて、生と死について語っています。蝉のエピソードでは静かな死に親しみを感じます。ねずみのエピソードでは死に到達するまでの「動騒」(暴れ騒ぐこと)を恐ろしいと言い、自分だって同じようにしたであろうと語ります。しかし「ふだん考えているほど、死の恐怖に自分は襲われなかったろう」と言っています。いもりのエピソードでは「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではな」いと感じています。

 これらの「自分」の感想を読んで、最初は私はこんな自分勝手な奴がいるのかと憤慨しました。「死」をそんなに簡単に受け入れられるものではない。「死にたくない」というのが人間の本音であり、生きるためにもがき続けるのが人間である。「静かな死に親しみを感じる」ことなんてあるはずがないし、あってはいけない。カッコつけすぎだろう。おそらくこれを読んだみなさんも同じような感想をもったのではないでしょうか。志賀直哉はカッコつけている小説家にしか見えません。

 しかし、この小説を少し距離を置いて見つめ直してみましょう。

 「羅生門」を学習したときも、「主人公」と「語り手」は違うということを確認しました。さらには「語り手」と「作者」も違うんだということを確認しました。同じようにこの「城の埼にて」も「語り手」である「自分」と「作者」は違う存在であると考えられます。つまり、語り手の言葉をそのままうのみにする必要はないのです。疑うべき根拠があれば疑ってみてもいいのです。

 そういう視点からもう一度、この小説を見つめなおします。すると一番最後の一文が気になり始めます。

 「三週間いて、自分はここを去った。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。」

 脊椎カリエスは死に至る病です。「自分」はやはり死を迎えるのは怖かったからこそ、「自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。」という本音を最後に書き残しているのです。静かな死とか、生きていることと死んでしまうことに差はないといいながら、多くの人と同じように実は「死」を恐れているのです。「語り手」はそれを最後にさらりと示しています。だとすればなぜ「自分」はその死を「静かな」ものととらえようとし、「生」と「死」は「差がない」と言ったのでしょう。

 私はこう考えます。

 「自分」は死が怖かったのです。死が怖くて怖くてしょうがないからこそ、「静かな」ものと考え、生と死の差はないと思おうとしたのです。自分が死を受け入れなければならないと考えたときに、死を受け入れるために理屈づくりを無意識に始めていたのです。死を受け入れられない人間が、死を受け入れなければならない状況に追い込まれたときに、どうやってそれを可能にするのかが描かれているのがこの小説なのではないかと私は考えます。

 「死」を受け入れなければいかなくなった時、人間はなんとかそれを冷静に受け止めるために受け入れる準備をし始めます。あがき続けるのも人間ならば、あがくことを嫌うのも人間です。自分に迷惑をかけないように、理屈をつくりなんとか「死」を受け入れようとするはずなのです。

 実はこの小説の書かれたころ、日本は第一次世界大戦に参戦していました。太平洋戦争ほどの被害はなかったものの、戦時下ですので死を意識しなければいけない世の中であったのだろうと考えられます。戦時下における人間の心理が現れているという読み方もできるかもしれません。

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「成長なくして分配なし。」とは言うけれど

2021-10-25 17:59:56 | 政治
 「成長なくて分配なし」というのは正しいものだと思います。経済が停滞していては分配しようとは思わない。それはその通りだと思います。

 しかしこれまでの日本は「成長しても分配なし」でした。これはアベノミクスの時に如実にあらわれていました。東京はどんどん景気がよくなっていましたが、そのころ地方の景気はなかなか上がってはきませんでした。山形県のような貧乏県はどんどん貧乏になる一方です。唯一あった大沼デパートもなくなり、本当に厳しい状態が続いています。「成長して分配があ」ったのはバブルのころしかなかったのです。

 政治家たちは東京しかみていません。東京さえ景気がよければ景気がいいと思います。マスコミも同じです。かれらの「分配」は一部の潤っている地域におこなわれればよかったのです。

 もっと今般的に考えなければなりません。「成長」と「分配」は別物です。「成長」も「分配」もどっちも同列であり、同時にしなければならないのです。
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「清水ミチコ大感謝祭〜作曲法SPECIAL〜」に行きました。

2021-10-24 10:09:42 | 音楽
 先日山形市「やまぎん県民ホール」で開催された「清水ミチコ大感謝祭〜作曲法SPECIAL〜」に行ってきました。芸歴35年の蓄積された彼女の独自な芸の見事さに感動しました。

 清水ミチコさんは昔からよくテレビで見ていましたが、地方に住んでいると生でその芸をみることはなかなかできません。最近、山形市にも「やまぎん県民ホール」という新県民会館ができ、これまで見ることができなかったステージがいろいろと見ることができるようになり、清水ミチコさんも初めて生で見ることができました。期待以上に楽しいライブでした。

 前半は歌モノマネのショーでした。そして真ん中に弟さんの清水一郎さんとの共演を挟んで、後半が有名ミュージシャンの「作曲法」です。この「作曲法」がすばらしい。それぞれのミュージシャンの作曲の癖を再現したメロディーにそのミュージシャンの曲の特徴を説明する歌詞をつけて歌います。モノマネというジャンルがここまで進化と言っていいと思います。

 チックコリアのスペインという曲に歌詞をつけた曲もおもしろかった。この曲は変に印象に残る曲で、その曲に見事にその曲を紹介する歌詞をつけ、演奏し歌う。音楽的な能力と芸人としての能力と、批判的な能力が見事にひとつのものとなっていました。

 楽しいし、その能力に感動するステージでした。
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「くたばれ文部科学省」第一学習社の新課程の高校国語教科書の顛末

2021-10-23 09:33:01 | 国語
 来年度から高校も教育課程が新しくなる。国語は大きな改訂が行われた。ほとんどの現場の教師は今回の改訂は改悪だと考えている。古典か小説がまともに教えられなるからだ。事情は過去に書いているので、それを再度ここに掲載する。

 高校は来年度の1年生から新学習過程に移行する。高校の1年生では多くの学校は「現代の国語」と「言語文化」の二つの科目を学ぶことになる。「現代の国語」は主に評論文を、そして「言語文化」は主に小説と古典を学ぶことになる。これまでは「国語総合」という科目の中で現代文と古典を学んできた。多くの学校では現代文を2時間、古典を2時間学んでいた。単位を5単位に増やしている学校では古典を3時間学んでいた。それだけ古典を重視していたのである。しかし今後はそうはいかない。

 「言語文化」で古典と小説を学ぶために、古典と小説の時間が少なくなる。進学をあまり考えない高校ならば、古典の時間を減らし小説を読むことができる。しかしいわゆる進学校ではそうは行かない。共通テストではこれまでのように古典が国語の半分をしめるのだから、点数をかせぐためには古典重視にならざるを得ない。だから小説軽視になってしまう。古典を重視するか、小説を重視するかによって大きく対応が違ってくることが予想された。

 そんな中、第一学習社だけがまったく違う方向性の教科書を作ってきた。「現代の国語」に評論と小説を入れ、言語文化は古典と韻文を入れてきたのだ。この結果、従来の指導方法に近いものが可能になっているのである。

 さて、ここに来て第一学習社の教科書を採用した学校に次のような指導が文部科学省から来た。「現代の国語」の時間では小説を扱うな、「言語文化」で小説を扱う場合。現代の国語」を副読本として申請しなさいと言うのだ。こういう指導が来るというのは、検定が失敗だったということを認めたと言うことだ。だったらまずは国民に謝りなさい。偉そうに学校に指導するな。

 文部科学省は日本の教育をおかしくしているだけだ。文部科学省は学校教育から手を引きなさい。

 くたばれ文部科学省。
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夏目漱石作『坑夫』を読みました。

2021-10-20 17:36:17 | 夏目漱石
 夏目漱石作『坑夫』を読みました。最初つまらない小説だと惰性で読んでいたのですが、よめばよむほど不思議な魅力に取りつかれる作品でした。

 内容は上流階級だと思われる青年が、恋愛関係のもつれから着の身着のまま東京を飛び出した末に、坑夫になる流されるままに坑夫になってしまう姿を語っていく話です。上流階級のひ弱な青年が、下流階級の男になるような坑夫になって生きていくなんてできっこない、それをみんなからも言われながら坑夫になる決意を固めていく心の揺れが切実に伝わってきます。

 現代人は肉体労働に耐えられる男なんてめったにいません。決して上流階級ではないけれど、明日の生活がままならないような昔の下流階級の人間なんかいないのです。そんな甘い生活をしてきた相当な地位を有つ家の子である19歳の青年が、プライドだけで坑夫になろうとする姿は滑稽です。滑稽ですが意地でそれを成し遂げようとする姿は理解でき、応援したくなります。

 結局青年は健康診断で気管支炎と診断され、坑夫として働けないことが判明します。結飯場の帳簿付の仕事を5か月間やり遂げ、東京へ帰ることになるのです

 この小説の大きな特徴は、語り手がほとんど省略することなく時間軸に従って語っていく語りです。こんなことまで書く必要があるのだろうかということまで語ります。だからさ伊予は面倒くさい。もっとストーリーが展開しないと退屈です。しかしこの語りに慣れてくると、こまかな心の動きがよく理解できるために逆に自分が本当に語り手の境遇になっているような気持になります。

 小説家としての試行錯誤のひとつではあるのですが、しかし単なる実験作ではありません。とても重要な作品であるような気がします。
コメント (1)
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