とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

シベールアリーナ存続 東ソーアリーナへ

2020-03-31 18:15:31 | 社会
 山形市のシベールアリーナが危機に陥っていることを以前書いたが、この度「東ソー」がネーミングライツを獲得し、存続することになった。3年契約である。

 「東ソー」さん、ありがとう。

 最近、悲しいニュース、心配なニュース、腹が立つニュースなど悪いニュースばかりだったので、このニュースはうれしかったし、日本の企業もやるじゃないかと心が軽くなった。

 シベールアリーナは決して儲かる劇場ではない。交通の便もよいわけではなく、使い勝手のいい劇場ではない。しかも経済状況があやしくなっている。そんな中で契約してくれたのである。ありがたい話だ。

 シベールアリーナは貴重なものを見る機会を多く作ってくれていた。これから「東ソーアリーナ」に変わるが引き続き山形ではあまり見る機会のないものを見せていただけたらと期待している。
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信頼できない安倍政権 「どうせ死なないんだから数字を操作してもいいさ」

2020-03-29 10:29:20 | どう思いますか
 コロナウイルスの感染者数について疑念がある。

 コロナウイルスの感染者数について、オリンピックの中止を避けるために抑えていたのではないかという報道がある。私もおかしいと思っている。

 振り返ってみれば2月末の学校の休校要請も唐突であった。感染者数がまだ増えていないのに、安倍総理は準備期間もなしに突然休校を要請した。学校は大混乱し、保護者のいない卒業式を行わなければいけなかった。誰も要請を批判しているわけではない。問題は唐突すぎたということだ。この時は「桜を見る会」の批判を避ける狙いがあったと感じられた。

 さらなる混乱は3連休前にあった。感染者数はまだ増加しているという状況ではなかった。それなのに専門家会議は厳しい予測を述べていた。今考えればあきらかに正しかった。それなのに政府は学校を再開する方向を表明した。これによって国民は気が緩んだ。たぶん重大局面ではないのだろうという気持ちにみんななってしまった。

 この背景にはオリンピックが絡んでいたと指摘する人が多い。日本はコロナウイルスが蔓延していないという状況を世界に発信し、日本は開催できる状況にあるが、世界の情勢がコロナウイルスに蔓延しているために今年のオリンピックはできないという論理を作り上げたのだ。日本のせいでないから中止はひどい。延期しかないでしょ。という論理だ。もしそうだとしたら、オリンピック中止を避けるために国民みんなをごまかしていたと考えらる。

 案の上、オリンピックの延期が決まった瞬間から感染者数が急激に増え始め、小池都知事や安倍晋三氏がマスコミに向かって「やってる感」をアピールし始めた。

 日本のコロナウイルスの検査は他国とは違って選ばれた人だけを検査している。ということは検査をする人をコントロールすればどうにでも結果を変えることはできるということである。数字と政府の対応の差を考えると、政府は別の根拠を持って新型コロナウイルス対策をとっているとしか思えない。政府は国民や世界を騙しながら政策を進めているとしか考えられない。そこには「どうせ日本は医療が進んでいるからどうせ死なない。だから数字なんて操作してもいいのだ。」という気持ちがあるようにしか思えないのだ。

 日本の新型コロナウイルスによる死者数が増えないという説もあるが、しかしこの時期になくなった高齢者の死者のうち新型コロナウイルス感染者が多くいた可能性も否定できない。調べなかっただけなのだ。

 検査能力があるのに検査をしないということは「信頼」をなくす。「信頼」がないのが日本の政治の本質なのではないかと思えてしまう。

 安倍政権下における森友学園問題、加計学園問題、「桜を見る会」問題、大学入試問題、アベノミクスの成否の問題、外交問題、すべて不正や失敗を表面的はごまかしているようにしか思えないのである。
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映画『三島由紀夫vs.東大全共闘』を見ました。

2020-03-28 08:39:12 | 映画
 東大のおぼっちゃんたちの青臭い論理に青春を感じます。そんな青臭い論理をしっかりと受け止め議論を前に進める三島由紀夫は教育者そのものです。自分のない思想は無意味です。東大のおぼっちゃまたちの言葉は無意味です。その無意味さを三島由紀夫に学んでいるようにしか見えません。タイトルは「三島由紀夫vs.東大全共闘」となっていますが、「東大全共闘、三島由紀夫に学ぶ」というタイトルのほうがふさわしい内容でした。興味深い内容の映画でした。

(映画の内容)
 1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸に、三島の生き様を映したドキュメンタリー。東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が69年に行われた。三島由紀夫は警単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。

 全共闘の理論は現代思想を借りてきただけの理論なので、わかったつもりにはなっていても、実は自分でも何を言っているのかわからないような物だったのだと思います。議論はかみ合うはずがありません。しかし三島由紀夫は議論をかみ合わせようとします。そこに見えるのは議論の対立というよりも、言葉を戦わせるとこによる連帯感の芽生えです。全共闘の人たちは三島に親近感をいだきはじめ、もやもやしている中で両者は近づいていきます。映像はその経緯を示します。理論を追求した若者が欲していたのは人情にすぎなかったことが見えてくるのです。

 当時の東大全共闘世代は、その後自分の愚かさに気づき苦しめられたと思います。若気の至りとは言え、「至りすぎ」だからです。彼らの理論には自分がなかったのです。自分がない理論は他人の理論です。それでは議論が成立するはずがありません。大人になるにしたがって自分の敗北に気づき、自分に折り合いをつけることに苦しむはずです。いいえ、苦しまなければいけません。

 三島由紀夫は自分に落とし前をつけます。それはそれで行き過ぎです。残念な結果です。

 現代思想に酔った当時の学生が学術界に生き残り、現代思想ブームが起こります。その結果国語の現代文の内容が無意味に難しくなったのではないかと私は考えています。その意味ではまだ「総括」は終わっていません。
コメント (1)
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源氏物語を読む⑧「花宴」

2020-03-27 19:58:32 | 源氏物語
 「源氏物語を読む」シリーズの8回目。「花宴」です。メモとして書き残しておきます。

・季節の移り変わりを楽しむ
 直前の帖が「紅葉賀」でした。1年と少しが過ぎ、「花宴」が催されます。季節の華やかさが描かれます。季節の華やかさとは別に藤壺の苦悩は増していくばかりです。一方では源氏は深刻には感じていないようです。「花宴」の夜に右大臣家の娘、朧月夜の君との関係を持ってしまいます。朧月夜という名前も季節感があります。しばらくして源氏は右大臣家で催された「藤の宴」に招かれます。地味ながら藤の花も風情のある花です。このようにこのあたりの季節の移り変わりが楽しめる流れになっています。

・ドツボにはまり始める源氏
 朧月夜の君は右大臣家の娘です。右大臣家の娘といえば弘徽殿の女御もそうです。朧月夜の君は弘徽殿の女御の妹なのです。弘徽殿の女御といえば、光源氏の敵役です。しかも朧月夜の君は東宮に入内する予定になっていたのです。これは大変なことです。源氏と右大臣家との対立は決定的になっていくはずです。源氏の不遇のきっかけとなる帖ということです。

・朧月夜の君は姉の子と結婚?
 東宮は弘徽殿の女御の子供です。ですから弘徽殿の女御は姉の子と結婚しようとしていたのです。


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ナショナルシアターライブ『リーマン・トリロジー』を見ました。

2020-03-26 17:44:00 | 映画
 イギリスの舞台を映画館で上映するナショナルシアターライブ。演劇好きにとってはとてもいい企画です。問題は上映する映画館が都会に限られるということと、その期間が短いということです。私のような地方在住者はほぼ見ることができません。『リーマン・トリロジー』は大きな話題となった作品で、そのおかげで、シネリーブル池袋で比較的長い期間再上映しています。わたしも都合が合い見ることができました。評判通りすごい作品でした。

 「リーマンショック」というのは「リーマンブラザース社」の破綻による経済危機です。この映画はその「リーマンブラザース社」の創立から破綻までの150年ぐらいを描いています。ドイツからアメリカに渡ったリーマン3兄弟がどうやって会社を創立したかからはじまり、その子孫がどのように会社を大きくしたか、そして世界大恐慌をどう乗り切ったか、そして破綻のときまでを描きます。

 この大河物語をたった3人の役者で描きます。劇の構成と役者の演技の見事さによって時間があっという間に過ぎていきます。

 この演劇によって経済の近代史が描かれます。次のようなセリフがあります。「昔は必要だからものを買った。しかし今は、ものを買いたいと思うからものを買うようになった。」つまり、消費意欲を無理焼き喚起され、人々は消費するように変化したということです。

 一昔前までは私たちは生活に必要なものが主な消費の対象でした。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、電気釜、電子レンジ、自動車など、今となってはないと困るものです。そういうものを買い求めることが消費だったのです。ところが今は高いお金をだしてまで買わなければならないものはほとんどなくなってしまいました。今は生活に必要なものは食料品ぐらいです。それ以外のほとんどのものは家にすでにあり、しかも性能が向上し壊れにくい。ですから生活だけならばあまりお金を使う必要はありません。それでは商売はなりたちません。経済が停滞します。企業はなんとかお金を使わせなければなりません。そこで企業は消費をあおるようなコマーシャルによって消費を創造します。経済は実態と離れはじめます。現代の経済は本質的にバブルになってしまったのです。

 今はほとんどの人間にとって社会の姿が実感としてとらえきれなくなっています。私たちの消費活動は誰か知らない人たちに操られているように感じられます。目に見えない敵は常にどこかに潜んでいるのです。現代を実感できる作品でした。

 演出はサム・メンデス。『1917』の監督です。才能の豊かさを示しています。
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