とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』

2018-04-30 08:06:42 | 映画
山形県の酒田市に「グリーンハウス」という映画館があった。当時酒田市にはいくつかの映画館があったが、邦画の映画館と洋画の映画館に分かれており、洋画の映画館はグリーンハウスだけだった。その映画館は華やかな雰囲気のある映画館で、しかもこだわりがある映画館であった。酒田市民に愛された映画館であった。

 私が中学2年の時に「酒田大火」と呼ばれる大火事があった。酒田市は冬になると強い季節風が吹く。当時も秒速20メートルを超える暴風が吹いていた。その日、グリーンハウスが火元になり、火事が発生した。その日は暴風のせいで次々と延焼した。酒田市中心部の商店街約22万㎡を焼失してしまう大火事になった。しばらくして火事の後を見に行くと、街の中心街がすべてなくなっていた。ものすごい喪失感であった。

 そのグリーンハウスと縁のあった人たちがグリーンハウスの思い出を語るドキュメンタリー映画である。私にとってとても感慨深い映画である。おそらく当時酒田市に住んでいた人々にとってみんななんらかの思いのある映画であろう。

 地方都市は今と違って活力があり、みんな地元の文化を大切にしていた。今地方は活力を失っている。個性を失っている。地方に活力がなければ国の活力もない。

 失ったものの大きさを感じさせる映画だった。
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劇評『PHOTOGRAPH51』(4月21日昼マチネ東京芸術劇場シアターウェスト)

2018-04-25 08:12:09 | 演劇
作:アンナ・ジーグラー
演出:サラナ・ラバイン
出演:板谷由夏、神尾佑、矢崎広、宮崎秋人、橋本淳、中村亀鶴

 DNAの二重らせん構造の発見において、キングス・カレッジ・ロンドンで働いていたX線結晶構造解析者のロザリンド・フランクリンが重要な役割を果たしている。この作品は、そのフランクリンを描いている。戯曲がとても「美しい」。「2重らせん」のイメージがみごとにドラマとオーバーラップしている。

 「らせん構造」は終わらない形だ。我々が生きている時間というのは直線のようにイメージされがちだが、古来の時間のイメージは「らせん」である。1年は円のように循環し、また同じ季節にもどる。しかし、去年とは違う今年の季節がそこにはある。人間の一生も生まれてから死ぬまでが一つの循環である。しかし単なる循環ではない。死んだ後にその人の業績が残り、生まれる前とは違う世界がそこにはある。始まりと終わりは近い位置にはあるが、少しずれている。いずれも「らせん」のイメージと重なる。

 フランクリンは言う。
「仕事は終わらない。しかし、体は終わる。」
それが彼女の追い求めていた「らせん」だったのだ。このイメージはとても美しい。

 さらに、この「らせん構造」は二重なのだ。フランクリンは1人であることを好んでいた。しかしフランクリンは最後は1人ではない。仕事上のパートナーを認め、ライバルを認め、他者がいてからこその自分を認める。そのことに気づいたときフランクリンの人生は終わっていく。自らが追い求めていた「二重らせん構造」が他者の存在を気づかさせるのだ。科学的真理を追究していく中で、DNA構造のような美しい構造を人生の中に発券していくドラマとなっている。
 
 また、主人公は言う。
「下手な女優の名前が思い出せない。」
名前をこの世に残したい。そのためには努力するしかない。そんな努力した生き方こそが彼女の生き方であった。

 ロザリンド・フランクリンという人は一般的には成功した人ではないのかもしれない。しかし、この戯曲の中では美しく輝いている。そんな芝居だった。

 板谷由夏さんは、凛とした女性をうまく演じていた。初舞台だというが頑張っていた。ただし、「父」のイントネーションが気になった。このイントネーションでいいのだろうか。

 他の男優さんは役をしっかりとこなしていた。しかし微妙な心の変化まで演じ切っていたのかというとそこまでは感じることはできなかった。ウィルキンズの最後のフランクリンに対する態度の変化は唐突に感じた。
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劇評『ヘッダ・ガブラー』(4月22日 シアターコクーン)

2018-04-24 06:21:32 | 演劇
作:ヘンリック・イプセン 
演出:栗山民也 
出演:寺島しのぶ、小日向文世、池田成志、水野美紀、佐藤直子、福井裕子、段田安則

 イプセンの芝居を初めてみた。古い人のようなきがして古い作品のような気がしていたが、計算されたよくできた脚本で人間ドラマが見事に描かれており、時代を超えた作品であった。

 寺島しのぶ、小日向文世、池田成志、水野美紀、段田安則が言ってみれば五画関係であり、この関係が時間とともに明らかになり、そして後半になると見事に変化していく。登場人物すべてに裏と表があり、それが表面にでる場合もあり、自分でも裏の部分が気がつかず、表にでてこない場合もある。寺島しのぶ演じる「ヘッダ・ガブラー」は表面上強い女性である。しかしある意味の「弱さ」がずっと奥に潜んでいる。それが悲劇的な結末を生むことになる。

 寺島しのぶはすばらしい。現在日本一の女優だろう。さすが歌舞伎の家で育ったので、型がしっかりしていてぶれることがない。窓のそばに立つ姿はそのまま美術館の絵のようである。見事な存在感だ。他の役者もすばらしい。バランスがとれており、演出家も地味ではあるがしっかりと仕事をしているのがわかる。

 地味な作品のような気がしていたが、とてもいい作品と出合えてうれしい。
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劇評『1984』(4月21日ソワレ 新国立劇場)

2018-04-22 08:16:32 | 演劇
原作:ジョージ・オーウェル 
脚本:ロバート・アイク ダンカン・マクミラン 
翻訳:平川大作 
演出:小川絵梨子
出演:井上芳雄/ともさかりえ/森下能幸/宮地雅子/山口翔悟/神農直隆/武子太郎/曽我部洋士

 構造がわかりにくい芝居なので、最初にプログラムにある「ものがたり」を引用する。

 2050年以降のいつか、人々が小説『1984』とその"附録"「ニュースピークの諸原理」について分析している。やがて小説の世界へと入って行く・・・。
 そこは1950年代に発生した核戦争によって、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの国に分割され、統治のために絶え間なく戦争が繰り返される「1984年」の世界。主人公ウィンストンの生きるオセアニアでは"ビッグブラザー"を頂点とする党により思想、言語、行動などすべてが管理され、統制されていた。ウィンストンはある決意を胸に、無謀とも思える行動に出る・・・。


 言論が統制され、思想がコントロールされる時代。SFの世界であるように思っていたが、現代はそれに近づいている。情報操作によって人々の思想はコントロールされているのだ。知らず知らずに、あらゆることが権力者の思うままに導かれている。いや、そもそも権力者さえも何か別の力によってコントロールされているのではないか。われわれは本当に自由なのか。改めて考えさせられる。

 「党」は言葉を制限することによって人々の自由を奪っている。真実を言い当てている。人は言葉を創造することができる。言葉を創造することによって自由を勝ち取ってきたのだ。人間が言葉を失えば、創造性を失い人間としての機能を失う。もはやそれは人間の社会ではない。

 これは絵空事ではない。昨今の現実の状況は言葉はどんどん失われ、監視カメラで監視され、インターネットによる購入記録、発信記録などが個人情報となり、すべてがコントロールされていく。

 世界はアメリカ、ロシア、中国の3極体制に集約されつつある。昔はまだ未開の地があったからその土地の取り合いでよかったのだが、今はもはや未開の地はない。すでにあるものの奪い合いである。そのためには情報操作による思想操作が一番だ。現実が小説に近づきつつあるのだ。

 とてもおそろしい芝居だった。


 映像を多く使う芝居で、少しつかれる。

 出演した井上芳雄さんは誠実さを演じている。好演である。しかし狂気がすこし足りない。ともさかりえさんは存在感がある。

 急逝した大杉蓮さんが出演予定だった芝居である。代役の神農直隆さんは好演している。すばらしい役者だ。が、大杉さんだったどうだったろうかとやはり考えてしまう。
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テレビ朝日はもっときちんと説明を(財務省セクハラ問題)

2018-04-19 09:24:45 | 社会
 財務省のセクハラ問題については財務省や福田財務事務次官の対応は傲慢でありひどいものだ。もっと事実を明確にすべきである。そして事実であるならば許しがたいことであるのは当然である。

 以上のことを前提としてではあるが、このタイミングでテレビ朝日がこの相手は自社の記者であることを公表したことに関して、内容に疑問に感じてしまうことがある。その疑問というのはこれだけいやな思いをしながら、この記者は何度も会食を繰り返してきたということである。もちろん記者としていやな思いを覚悟しながら取材を続けてきたのではあろうが、会食をするということは、知人として打ち解け合っていたということなのではないかも思われるのである。そういう仲間内の猥談だと認識できるような状況だったといしたら、福田次官にも同情の余地はあるのではないかと思われるのだ。もちろん、福田次官は発言自体を否定しているので弁解の余地はないが、テレビ朝日の記者が意図的にセクハラ発言を誘導したようにも見えてしまうのである。疑いたくはないが、腑に落ちない会見で会ったことも事実である。

 テレビ朝日はここまで公表したのは、真実を明らかにしたいという意図からである。セクハラというナイーブな問題ではあるが真実を明らかにするためにはもう少し詳しい説明をしなければいけない。財務省ももちろんだが、マスコミも真実を明らかにしなければ信が立たない。
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