とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

東京都の受動喫煙防止条例が国の法案になってほしい

2018-06-28 08:26:30 | 社会
 東京都の受動喫煙防止条例が成立した。すばらしいことである。なぜなら喫煙しない人間にとってたばこの煙は害でしかなく、たばこの煙からのがれるのは当然の権利であるからである。

 条例案は次の通りである。政府が国会に提出した健康増進法改正案は、客席面積100平方メートル以下の店を規制対象外としたが、都は面積に関係なく対象になり都内の飲食店の8割以上が対象になる。政府が国会で審議中の法案よりも厳しいものである。小中高校や保育所、幼稚園は敷地内禁煙とし、屋外の喫煙場所の設置を認めない。大学や医療、行政機関も敷地内禁煙だが、屋外の喫煙場所の設置は可能にする。

 私はかつてはヘビースモーカーだった。そのころは受動喫煙はこれほど騒がれていなく、みんな堂々と様々な場所で煙草を吸っていた。しかし私は体調を壊し禁煙した。すると煙草の煙が周りの人にどれほど迷惑をかけていたのかがよくわかった。自分がかつてどれだけ迷惑をかけていたのか、今頃になって心が痛むのである。だから受動喫煙防止条例はできるだけ厳しくすべきだと考えるのである。

 確かに喫煙者にも権利がある。ヘビースモーカーにとってたばこを吸えない苦しみがどれほどのものかは私にもよく理解できる。しかし非喫煙者の受動喫煙から守られる権利はより強いものである。非喫煙者にとって煙草の煙は暴力と同じだからだ。

 私は喫煙者を責めたいわけではない。すべての人が禁煙すべきだという権利もない。しかし喫煙者は自身で気をつけないと、知らず知らず他者に迷惑をかけているのだということを知るべきである。
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坂東玉三郎トークショー

2018-06-26 16:02:50 | 日記
 6月24日山形市シベールアリーナで坂東玉三郎トークショーが開催されました。期待以上にすばらしいものでした。

 玉三郎さんは照明の話から始め、演出の話、歌舞伎の話、新派や新劇出演の話、そして海外旅行の話、そこで見た演劇の話、絵画の話と、むずかしいことではあったのですが、自分のことばで話してくれました。自分のことばなので難しいのにすっと心に入ってきます。シベールアリーナというのは井上ひさしさんのゆかりのホールです。井上ひさしさんの有名なことば「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」を意識したのかどうかわかりませんが、玉三郎さんのお話はその通りの話でした。

 照明の話では戦前の照明さんの照明と、戦後の照明さんの照明ではまったく違う。昔の照明は自然の光や、電球の光を基本としていたので暗いが方向性があり、その方向性によって時間を表現できる。しかし今の照明は蛍光灯の明るさが基本となっているので、明るいのが当たり前で、影をつくるために逆に影をつくる照明を当てなければならない。玉三郎さんはやはり昔の照明の方がいいと言っていました。私もその通りだと思いました。

 現代はたくさんのことを手に入れたように見えるけれど、残念ながら気づかぬうちにそれ以上に大切なことをうしなっているのかもしれません。そのことを考えさせられる時間となりました。



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根拠をもとにした議論を

2018-06-25 12:53:35 | どう思いますか
 高校の評論文の授業をで、筆者の主張とその根拠を明確にする指導をしている。

 評論文というのは筆者が明確に何か主張したいという目的があるから書かれるものである。だから読者は筆者が主張していることが理解できればそれだけでいい。しかし筆者は当たり前のことを主張することはめったにない。これまで言われていることと何かしら違うことを主張したいからわざわざ文章にするのである。だとすると、筆者の主張は多少なりとも読者に受け入れにくい可能性が高い。そこで筆者は論理を作り上げる。その論理において必ず必要になるのは根拠である。根拠のない文章は「私の言うことは正しいに決まっているから正しいのだ」ということになり、説得力がない。根拠というのは事実である。統計的な事実であったり、歴史的な事実であったり、事実にはいろいろある。その事実が根拠にならなければならない。仮定を根拠にしたり。ある人の意見を根拠にしてはいけない。

 近年の日本人の議論は、そのような仮定を根拠にしたり、ある人の意見を根拠にしたりすることが多すぎる。これが一番いけないことである。これでは議論にならない。

 日本人が議論が苦手なのは日本語が非論理的であるからではなく、日本人の気質の問題でもなく、議論の訓練がなされていないからである。日本の国語教育でもっとしっかりと議論のトレーニングをすべきである。
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「雨の日は、しんみり物を考えるにはもってこい。人間にはそんな日が必要なのだ。」(朝日新聞「折々のことば」より)

2018-06-23 08:13:49 | 折々のことば
 2018年6月23日の朝日新聞「折々のことば」から。アニメ『アルプスの少女ハイジ』の「アルムおんじ」の言葉である。時間に追われながら毎日動き続けなければならない現代に警告を発している言葉のようにも感じられる。

 『アルプスの少女ハイジ』は奇跡的なアニメだ。1年間放送されたアニメだが、その間飽きさせることなく、最後まで構成がしっかりとしていた。そしてその中にたくさんの作品としての発明、工夫があった。ものすごい作品だ。『アルプスの少女ハイジ』は時間をかけてじっくりと作られた作品だったのだ。雨の日があったからこそ生まれた作品と言っていい。

 『アルプスの少女ハイジ』を演出したのが最近亡くなった高畑勲さん、場面設定・画面構成には宮崎駿さんだ。日本のアニメを世界の文化にした作品といってもいい。じっくりと人を育て、十分に時間をかけ、そして職人のように作品が作り上げる、そんなすばらしい日本の文化の中で生まれたのである。

 今、日本は毎日が追いまくられ、毎日動き続ける。国民みんなが自転車操業である。すりへるために生きている、そんな世の中になってしまった。「雨の日」をとりもどしたほうがいいのではないだろうか。

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加計理事長の記者会見は人を馬鹿にしている

2018-06-20 08:15:54 | どう思いますか
 昨日、どさくさのように加計理事長が記者会見をおこなった。ちょうど大阪地震とワールドカップの日本戦の間に、しかも唐突に記者会見を行うという姑息さだけが目立つものであった。こんな奴なのだ、この理事長は。こんな人間が「教育」を行っている。そのことが異様である。

 安倍首相の様々な対応を見ても「こんな奴」という感想しかでないし、他の現在の閣僚も似たり寄ったりである。国民を馬鹿にしているのだ。その対応に非常に腹が立つ。この国はいつの間にか誠実さを失ってしまったのだ。

 世の中の雰囲気は「加計学園問題」は終わったようになってしまっているが、それではいけない。別にいまさら獣医学部の認可を取り消せと言いたいわけではないが、前川前次官の言っていた通り、「行政がゆがめられた」という事実は動かしがたいということだけは我々国民は心に刻んでおくべきである。

 世の中にはもっと大切なことがたくさんある。こんなことで国会がストップしてはいけない。しかしこの問題が終わったというわけではない。野党もマスコミもしっかりと対応してほしい。
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