とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「終わり」

2018-01-31 19:25:47 | 折々のことば
 今日の朝日新聞の「折々のことば」。

 生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく。そのことが、人間の生を、いっそう引きしめ、切実に整える……(いしいしんじ)
 人は自分という存在の始点も終点も知らないし、知りえもしない。自分がどこから来てどこへ行くのか。いずれも霧の中だ。でも、人の生が「終わり」を孕(はら)んでいるのは確か。だとすれば、旅にせよ、茶事にせよ、小さな「終わり」をくり返し「からだの芯へ収める」ことで、中途としての人生にも光が射(さ)す。作家の『且坐(しゃざ)喫茶』から。(鷲田清一)


 昔は「終わり」は「ウザイ」ものだった。しだいに「いや」なものに変化してきた。そして今「終わり」に恐怖を感じている。いずれにしてもいつも「終わり」を避けてきた。そろそろ「終わり」を受け入れる準備をしなければいけないのかもしれない。「終わり」をしっかりと見つめることができた時、心が豊かになるような気がする。
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感覚の形容詞はネガティブ?(「折々のことば」より)  

2017-12-23 09:59:00 | 折々のことば
 今日の朝日新聞の「折々のことば」で日本語学者の森山卓郎さんのおもしろい発見が紹介されている。

 感覚について言えば、不平不満が「形容詞」には渦巻いているようでもある。(森山卓郎)

 色名は無数にあるのに、まずい、辛い、苦い、酸っぱいなど、味覚を表す形容詞は意外に少ない。昔の人は素材をそのまま食し、どうもいけない、というヤバい味をおもに「○○い」と表現したからではないかと日本語学者は推理する。痛いや痒(かゆ)い、暑いや寒いもそう。感覚とは微(かす)かな異変の察知のことを言うのかも。連載エッセー「日本語ノート」(「船団」第115号)から。(鷲田清一)


 「快」の状態は当たり前なので「言葉」にならないが、「不快」な状態は当たり前でなくなるので、他者に伝えたくなる。なるほど、言われてみればその通りかもしれない。
 
 それをさらに発展されれば、人間が話し合うということは、「不快」を訴え合うためなのかもしれない。そう考えれば人をほめるという行為は本来的な人間の活動とは違う。意識的に行わなければならない行動である。逆説的に言えば、だからこそ、人間的な行為なのかもしれない。

 
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朝日新聞「折々のことば」より「俺たちは会話して、心に刺さった小さいとげを抜いているんだ」(7月28日)

2017-09-28 08:25:03 | 折々のことば
 俺たちは会話して、心に刺さった小さいとげを抜いているんだ(イスタンブールの運転手)

 女優・劇作家のわかぎゑふが、旅行中に知りあった運転手に「トルコの人はお喋りが好きだね」と言った時に返ってきた言葉。人の心は繊細で、すぐ傷がつく。刺さった棘は放っておくと血管を巡りやがて心臓に突きささる。だからそのつどこまめに抜いておくんだと。我慢を重ねるのは徳ではなく毒? わかぎの脚本・演出による劇「向日葵(ひまわり)のかっちゃん」の公演パンフレットから。(鷲田清一)


 よくわかる言葉である。人間は言葉によってコミュニケーションしている。その言葉のやり取りの中で傷つけあうこともある。では言葉を発しなければどうなるのか。人間は言葉によって考えている。一人で考えていてもその言葉は常に自分に返ってくるので自分の心を傷つけることがある。やはり同じなのだ。言葉はとても危険な存在なのだ。

 その時助けてくれるのはやはり言葉でしかない。他者の言葉を聞いてあげる。それが大切なのだ。そういう存在になれる人になりたいが、まだまだ私は自分が勝ちすぎている。

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折々のことばより「言葉は、共有する記憶を表わす記号なのです。」

2017-09-12 08:06:51 | 折々のことば
 9月12日の朝日新聞「折々のことば」から引用します。

 「言葉は、共有する記憶を表わす記号なのです。」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)

 詩や小説を書くとき、言葉で編まれた歴史としての「事実」よりも、時間を超えた「より深い何物かにとって真実」であるような「夢」や「観念」や「想像力」に忠実であろうと努めてきたと、アルゼンチンの作家は言う。自己「表現」ではなく、未(いま)だ掘り起こされていない記憶を読み手とともに探ってゆくような「暗示」になればよいと。『詩という仕事について』(鼓直訳)から。(鷲田清一)


 作家というと何か新しいものを生み出していると私たちは思っている。しかし言葉はそもそもが人類の記憶の断片である。だから言葉には人類の記憶が内在的に備わっており、生み出されたものは人類の共有する記憶でしかないはずだ。

 「近代」は「新しいものはいいものだ」という時代であった。次々新しいものを生み出し、古いものを無用のものにしてきてしまった。しかしそれは「近代の思い込み」でしかない。われわれは人類の時間の中で生きているのだ。
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「これはいい手だと思って指す手は、あまりいい手じゃないことが多いんですね。(羽生善治)」

2017-08-30 07:47:46 | 折々のことば
 8月27日の朝日新聞「折々のことば」から引用します。

 「これはいい手だと思って指す手は、あまりいい手じゃないことが多いんですね。(羽生善治)」
 いい手と思って指す手は、相手にしても狙いが明確なわけで、可能性の幅は広がらない。感覚的に確信のもてない手、ということはにわかに読みのきかない意外な手の応酬のほうが、将棋では深みのある名局になりやすいと、棋士は言う。人との語らいも思わぬ展開になる時が楽しい。

 的を射た言葉だと思います。霧が晴れたような瞬間を感じる時がありますが、それは実は錯覚だった。逆にその勘違いによって後で苦しくなるという体験は誰もが持っているのではないでしょうか。

 私たちは生きている限り立ち止まることはできない。いや立ち止まることができないということが生きているということなのかもしれません。
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