とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。8

2024-04-30 16:54:07 | 夏目漱石
第八章

画工は、宿の主人つまり那美の父親の部屋でお茶を御馳走になる。相客は観海寺の和尚、大徹と、那美のいとこの久一である。久一も画工と同様に西洋画をやっていることがわかる。「鏡が池」の写生をしていたこともわかる。久一は志願兵として満州に立とうとしている。
 
老人は当人に代って、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸る時が来るかも知れない。この青年の腰に吊る長き剣の先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を捲く高き潮が今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。

この小説の世界のすぐ外に現実世界があることが示される。戦争がすぐそばにあるのだ。それを那古井という町は隠蔽しているかのように感じてしまう。那古井を桃源郷のように感じていた読者もそのことに気付くはずである。那古井は現実を隠蔽する装置でしかないのである。みんなが平和ボケになっている。そういう村なのだ。ここを見逃してはいけない。

久一の存在によって画工は相対化され、今戦争が行われている時代に呑気な生活を送っていることに気付かされる。小説が異化される。
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夏目漱石の『草枕』を読む。7

2024-04-24 17:29:32 | 夏目漱石
第七章

印象に残る風呂場の場面である。

画工は風呂に入る。

余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。

前章の漠然とした恍惚感を風呂の中で味わっているようにも見える。湯気が漂う中、湯に体を浮かせれば、体も心も宙に浮いたような感覚になるのであろう。画工はここでもミレーのオフェリアが頭に浮かぶ。そういえば、画工が茶店の婆さんに那美のことを初めて聞いた時に頭に浮かんだのも、オフェリアだった。やはり那美はオフェリアを想像させ、画工に「私に同化しなさい」と迫って来るのである。

案の定、那美が風呂に入って来る。那美が入ってきたのは偶然かもしれない。しかし画工にとっても、読者にとっても必然であろう。

しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。

画工が部屋で考えていた恍惚とした情景がそこに出現したのである。那美はあきらかにこの出来事を楽しんでいる。恥ずかしさとは無縁な態度で消えていくのだ。那美の態度は画工に対して「私に同化しなさい」と言っているように感じられる。エロチックであり、恍惚感が極まる。
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夏目漱石の『草枕』を読む。6

2024-04-22 17:05:40 | 夏目漱石
第六章

画工は宿に戻る。宿の人はどこかへ行ってしまったのか静かである。芸術について考える。
 
ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。

画家や詩人が表現したいものとは、自分の心を奪った物である。それを表現するためにはその物に同化する必要がある。しかし自分の心を奪っているものが明確でない場合がある。

余は明かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。

画工は漂っている。漠然とした恍惚感とでも言うしかない。何にも同化できない。このような境地をどのように表現すべきか、画工は考える。そして、「こんな嘲笑的な興趣を画にしようとするのが抑もの間違」だと考え、他の表現手段を考えるが、うまく行かない。

そうこうしているところへ現れるのは、やはり那美である。部屋の入口が開いている。そこに振袖姿の女が寂然として歩いているのである。何の目的なのかもわからない。ただ行ったり来たりしている。振り袖姿は華やかでありつつ、景色のなかに溶け込み、「有と無の間に逍遥している」ように感じられる。次第に雨が降り出し、女は雨の景色の中に消えていくように感じられる。雨に同化していき、自身が風景になるのだ。おふろで湯船に浮かぶように、今雨の中に漂っている。

この場面、那美はいったい何をしていたのであろう。画工の考えていることを受けて画工のために自分が恍惚とした情景を創り出そうとしているのである。画工も、わざとらしさを言及することもなく、それを素直に受け入れているようである。画工の思い通りの行動を那美がしているのである。
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夏目漱石の『草枕』を読む。5

2024-04-08 16:51:26 | 夏目漱石
第五章

画工は床屋に行く。この床屋の鏡が歪んでいて鏡の役に立っていない。

今余が辛抱して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くと蟇蛙を前から見たように真平に圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。

この鏡は歪んでいて、光が乱反射して事実を映してはいない。これは那古井の世界のいびつな空間を象徴している。つまり那古井の内部では真実が見えないのである。那古井の内部では人々は共同幻想に支配されているのだ。狭い村社会ではよくありそうな、噂をみんなが信じ込む社会である。みんながゆがんでいるのであるが、歪んでいるのが当たり前になっているのでその歪みにだれもが気付かない。たまたま外部の人間がそこに来ると気が付くのだが、しばらくいればその社会に取り込まれていく。暴力的な共同幻想である。

画工が志保田に泊っていると聞くと床屋は那美の話をし始める。この那古井の中では那美は気違い扱いされている。村の共同幻想をみなが信じ、那美も自分を気違いのように演じる必要がある。

床屋は那美が観海寺の坊主、泰安に手紙をもらったエピソードを話し始める。その泰安が和尚とお経を上げているところに那美が飛び込み、「そんなに可愛いなら、仏の前で、一所に寝よう」と「首っ玉にかじりついた」という。その話だけを聞くと確かに那美は気違いである。その後泰安はいなくなった。

床屋に了念という小坊主がやってくる。頭をそってもらう。了念の話では、泰安は今は陸前の大梅寺に行き、修行三昧だという。床屋の話とは少し食い違っているようである。
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夏目漱石の『草枕』を読む。4

2024-04-06 08:11:49 | 夏目漱石
第四章

 夜中の侵入者はおそらく衣類を持ち出したようである。写生帖を見ると明け方に作った俳句に句がつけられている。この付け句の存在は注目すべきものなのかもしれない。

 昼近くふたりの足音が聞こえる。部屋の前につくと、一人は引き返す。もう一人が入って来る。小女郎である。食事を持ってくる。その小女郎との会話から、この宿にいる若い女が、出戻りの娘つまり那美であることがわかる。その女の部屋が画工の泊っている部屋であることもわかる。夜中に部屋に忍び込んだのも、付け句も那美の仕業であろう。

 食事が終わり、しばらくたつと那美がお茶を出しにくる。画工は茶人がきらいなようだ。画工と那美の会話が進み、興味深い会話がなされる。

「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色を伺うと、
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹ね」と云って退けた。

 これは画工の冒頭の言葉と対応する。どこへ行ってもこの世は住みにくいのだ。だからこそ画工は画や詩の意味があると言っていたが、那美は画になることを拒絶するのだ。ここに「草枕」大きなヒントがある。

 鶯が鳴き、それを那美は「本当の歌」だという。人間と関わらない自然そのものの中に自由を見ているのであろう。

 那美は「本当」ではない。那美は那美を演じているのである。演じるということは同化と異化の反転運動を続ける。本物の那美に近づくと思えば、本物の那美を相対化する。それによって自分を確認しながら自分であろうとする。二重の自分が生まれる。それは鏡に写る自分を見るようなものである。
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