とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

1年前シリーズ 「高校野球全国大会のあり方はおかしい」

2019-07-31 20:34:11 | 教育
 1年前のブログを振り返るシリーズ。

 1年前も高校野球についての批判を書いていた。そういえば去年は猛暑だったのを思い出した。今年は7月当初は涼しかったが、今はやはり猛暑であり、去年と同じ状況になった。こんな暑い時になんで野球をやらなきゃいけないのか。感情論ではなく、原理原則を議論してほしい。

 高校野球の全国大会に対する反対意見が多く見受けられるようになった。この意見は炎天下での試合はよくないという趣旨からのものである。確かにそれはそうである。しかし私はそれ以上に高校野球の全国大会が阪神甲子園球場というたったひとつの球場で行われることのほうが問題だと考えている。なぜなら、大会の期間が異常に長くなるし、しかも無理な日程になってしまうからである。

 甲子園球場だけで大会が行われるので、どうしても大会期間が長くなってしまう。仮に50校が参加しようとすれば49試合になる。一日4試合するとすれば単純計算で13日かかかる。決勝の日はは1試合、準決勝の日は2試合となるので、それよりもかかることになる。つまり大会期間が2週間を超えてしまうのだ。オリンピック並みだ。どこまで勝ち進むかもわからないし出場チームの遠征費もかかる。そもそもそんなに高校生を部活動で拘束しなければならないというのが異常である。高校生の大会という枠を超えている。

 日程的にも無理がある。決勝に残るチームは大会終盤に何試合もしなければならない。エースピッチャーは連投になる。当然大きな負担となり故障をかかえてしまうリスクを負うことになる。将来ある高校生の大会としてふさわしいものではない。

 やはり複数の球場を使っての大会にすべきであろう。サッカーだって、ラグビーだって選手権大会は複数のグラウンドを使用しての大会である。野球だけ特別にする理由はない。野球は特別なのだという人もいるかもしれないが、高校の部活動で特別扱いするのはあってはならない。

 最近行き過ぎた部活動について話題になることが多い。日本の部活動は悪い面ばかりではなかったのは認める。しかし教員にも、生徒にも無理な負担をかけてきていたのは事実なのだ。甲子園大会はその悪しき部活動の象徴となっているというのは如何ともしがたい事実である。文科省が積極的に高野連に改善案をしめしていくべきであろう。熱烈な高校野球ファンからは強い反対があるかもしれないが、筋を通っていれば強い反対はないはずだ。改革を望む。
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書評『「私」をつくる 近代小説の試み』(安藤宏著)

2019-07-31 06:28:12 | 読書
 例えば素人が小説を書こうと思った時、普段読んでいた小説がどういう風に書いていいのか実はわかっていないことにすぐに気づく。一人称にすべきなのか、三人称にすべきなのか、三人称にした場合、登場人物の心の中をどこまで書いていいのか、実は何もこれまで考えていないで小説を読んでいたのだ。このように近代小説とは何かを考えたとき、語り手の存在にぶつかる。作者は「語り手」を意識しなければ小説が書けないのである。

 逆に言えば作者は必然的に「語り手」を効果的に創造する。語り手がどういう存在だと小説にどういう効果を与えるかを考えざるを得ないることになる。だから小説は「物語を語る語り手どう描くか」という視点で見つめなおすと解釈が広がっていく。

 日本の小説はそもそもが西洋の真似で生まれたものではなく、日本人の作家たちの努力によって作り上げられたこともわかる。すばらしい考察である。

 一部私の勉強不足のためかわかりずらいところがある。再読して考えたい本である。
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高校部活動のあり方を考えなければならない

2019-07-28 07:01:59 | 教育
 岩手県の大船渡高校の佐々木投手が、夏の高校野球の県大会の決勝で登板しなかったことが物議をかもしている。これに関しては外野があれこれ言うことではあるまい。当事者が悩んで行った判断を、周りの人間が平気であれこれ批判するなんてあってはいけないことだ。

 ただし、日本の部活動のありかたについてはそろそろ本気で改革してほしい。真夏に毎日試合があるなんて、高校生をつぶしているだけだ。高校生レベルでそこまでする必要があるはずない。さらには勝利至上主義によってレベルが上がり、過酷さがましてきた現状でこのような大会形式がふさわしいはずがない。どうしてもトーナメントで行わなければいけないのならば、期間をもっと長くして、余裕のある日程にすればいいだけだ。

 そもそも高校の部活動は大人の都合で行われている傾向が強い。部活動自体が悪いわけではない。常識の範囲内での部活動ならば、生徒に自主性と協調性とを身に着けさせるすばらしい教育活動である。ところが勝利至上主義になってしまい、大人の思惑で無理な部活動を行わせている学校がいまだに多い。そういう学校はエスカレートしていくだけだ。勝つことの快感を覚えてしまった指導者は、そこから抜け出すことができなくなっているのである。

 「勝利」の呪縛から解かれた状態で、冷静に部活動のありかたを考えていかなければならない。
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 結局はTV局が悪いのでは?(ジャニーズ、吉本問題)

2019-07-26 15:48:50 | TV
 ジャニーズ事務所や吉本興業の問題がテレビのワイドショーなどで大きく取り上げられている。これらの問題の根本にあるのはテレビ局が力のある事務所の言いなりになっているということである。

 ジャニーズ事務所を辞めたタレントを、テレビ番組から降板させる。これは事務所に忖度しているだけである。権力に弱いというテレビ局の体質がよく表れている。

 吉本興業のタレントが反社会勢力の会合に出席したというだけで、極悪人のようにいじめ始める。一度悪のレッテルを貼ると、死ぬまで追い詰める。テレビ局の「いじめ」体質は許しがたい。しかもタレントが涙の反論会見をすると、反転して今度は事務所攻撃だ。吉本興業内部の問題を永遠と放送し続ける。視聴率だけしか考えていないから、こんなことになるのだ。

 そもそも最近のテレビ局は政権には甘く、権力には弱いことがはっきりしている。自分たちが蒔いた種でスキャンダルを作り出し、それをネタに番組を作る。こんな商売のありかたを許していいはずがない。もはや現在のテレビ局にはかつてのプライドはない。生き残るだけしか考えていない。

 もうやめてもいいんじゃないですか。NHKも含めて。
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敬語の学習と「物語の構造」

2019-07-25 18:05:46 | 国語
 古典の授業の話です。古文では敬語の指導が重要です。敬語では「敬意の対象」を教えます。敬意の対象というのは、ある敬語について、この敬語が誰から誰に敬意を示しているのかというものです。この「誰から」の部分が次元の違う話に突然行ってしまうのです。

 現代語で考えたほうがわかりやすいので、現代語の例を上げます。
「その日源氏の君は、帝のもとに参上なさりました。」
という文があったとします。この中の「参上」は「行く」の謙譲語、「なさり」は尊敬の補助動詞です。ここでこの二つの敬語の「敬意の対象」は誰から誰に対するものでしょう、という問題が出題されます。

 謙譲語は動作の受け手に対する敬意を示すものです。だから「参上」は源氏が参上した相手、つまり帝に対する敬意になります。また尊敬語は動作主に対する敬意を示すものなので、「なさり」は源氏の君に対する敬意です。

 それでは「誰から」はどうなるのでしょうか。これが大きな問題です。この答えはどちらも「物語の語り手」(正確ではないかもしれませんが、高校の勉強では「作者」でも許されます。)になります。ここに次元の違いが出現します。つまり「物語」の次元を超えて、「語りの場」を理解しなければならなくなるのです。「物語の構造」の理解が必要になり、「ナラトロジー」の基礎につながります。これは古文だけの問題ではなくなり、小説の読み方につながります。

 「物語の構造」を学ぶ単元を構成していくことが可能になります。
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