とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑪〔演劇による「羅生門」授業〕

2019-02-28 13:14:03 | 国語
 今年度実践してみた「羅生門」の授業を紹介する。内容は「羅生門」の演劇発表である。

①【目的】
「羅生門」を深く読み込むために、演劇的活動を行うことによって、登場人物の心理を読み解き、心理の変化を主体的に探究させることを試みる。同時に表現活動をおこない、4技能の育成を目指す。

②【計画】
1.全体を読み、漢字の読みや語句を調べる。(2時間)
2.下人と老婆のシーンを演じる。(2時間)
3、冒頭のシーンと結末のシーンを作り上げ、全体を一つの演劇とする。(2時間)
4.発表会 まとめ(2時間)

③【細かな計画】
1.全体を読み、「学習課題ノート」を使い漢字や語句を確認する。

2.①3人組を作る
  ②演出、下人役、老婆役を決める。
  ③教科書を読みながら3人でどういう風にセリフを読むべきかを考える。
羅生門の楼の場面 である。
    ・下人と老婆の心理を推測する。
    ・下人の心理と老婆の心理がどうセリフに反映するか考える。
      セリフは心理をそのまま映すわけではない。
なんらかの意図があり、心理を隠すこともある。
とういうより心理とセリフが乖離しているのが普通。
  ④実際に読んでみる。
  ⑤他の班と読み合いをする。

3.班を解体して、4人組の班をつくる。(前の班とまったく違うメンバーにする)
  ①演出、下人役、老婆役、もう一人の役を決める。
  もう一人の役とは、下人が羅生門の下で雨止みを待つ間、下人と会話を交わす人物。
   その人物は下人が羅生門から飛び出した後にもう一度会う。
その時にもう一度会話を交わす
  ②班員で下人ともう一人の役の最初の場面の会話を考える。
   下人がどういう状況かを簡単な会話から感じさせるように考える。
   説明的になってはいけない。
   なんとなく下人の気持ちが伝わるような会話を考える。
  ③最後の場面を考える
   最初の場面と最後の場面の違いが明確になるようなセリフを考える
   話が結末するような場面をつくる

4.発表会をする
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新国立劇場でオペラ『紫苑物語』を見ました。

2019-02-25 08:29:25 | 演劇
【スタッフ】
原作:石川 淳
台本:佐々木幹郎
作曲:西村 朗

指揮:大野和士
演出:笈田ヨシ

【キャスト】
宗頼:高田智宏
平太:大沼徹
うつろ姫:清水華澄
千草:臼木あい
藤内:村上敏明
弓麻呂:河野克典
父:小山陽二郎

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

 私はオペラはほとんど見たことがない。だからどう評価していいのかわからない。今回、私の好きな石川淳の作品のオペラ化ということで、見ておかなければならないと思った。

 全体的にはすばらしい作品だった。ラストに向けて盛り上がっていくのを感じた。舞台装置も鏡や映像を使った斬新なもので、視覚的にもおもしろい試みがなされていた。新作でここまでのチャレンジができたことは称賛に値する。

 ただし、原作の持つ象徴性が再現されたのかは疑問である。「紫苑物語」は非常に象徴的な小説である。「歌(和歌)」と「弓」の戦い、それが「魔」を生み、すべてが「死」んでいく。そこには「紫苑」が咲く。この象徴性がまだ表現しきれていないように思われる。

 この象徴性を表現するためには音楽によるべきである。だからオペラという手法はすばらしい発見であった。しかし私のような素人には申し訳ないが現代風のセリフを音に乗せているだけのオペラは音楽に聞こえない。1曲でいい、メロディーラインのしっかりとした歌があればよかったと思う。オペラ好きの人には怒られる意見なのであろうが、雅俗合わさってこその石川淳作品である。
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「羅生門」⑩〔下人の行方は誰も知らない〕

2019-02-24 19:25:40 | 国語
「羅生門」の最後の一文、
「下人の行方は誰も知らない。」
は「羅生門」の授業でよく扱われる部分である。今回は最初にいくつかのの授業実践例をあげ、そのいい点と問題点を簡単に説明する。そして最後に「語り手」を意識した私の解釈を紹介し、その可能性について考えたい。

 まずはよく行われる授業実践例をいくつかあげる。
 
①一番授業でよく行われる単純な発問ならば、
「下人はその後どうなったのか。」
というものがある。本文で「誰も知らない。」と言ってるんだから、そんなこと考えてはいけないとつっこみを入れたくなるが、それでも考えたくなる問題ではある。小説の読解で大切なことは人間の心理の変化を読み取ることである。羅生門における老婆との出会いが「下人」をどう変化させたのかは小説の中核であり、それを考えさせる意味では悪い発問ではない。しかし、やはり作者の意図は「その後」は「知らない」というものである。下人のその後を考えることは作者の意図からは離れていくものであるということは肝に銘じる必要がある。

②最後の一文の直前の部分から引用する。
「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は誰も知らない。」
下人は行方不明になったのではない。闇に消えたのだ。そこで、
「なぜ下人は闇に消えなければいけなくなったのか」
という発問もできそうである。
この発問は、「その1」よりは無理矢理感が少ないが、授業者が誘導しているようにも感じられる。なぜなら「黒洞々たる夜」という表現に、人間の心の闇を読み取ってしまうからだ。「犯罪者」「裏社会」「汚れた心」など悪い言葉がどうしても連想される。この発問からは下人のその後が限定されてしまいそうなのである。しかし下人の行為はそこまで非難されるべきなのか。下人の行為だけでそこまでの闇を表現したかったのか。私にはそれこそSentimentalismeにすぎる解釈のように思われる。

その3
 芥川龍之介は「羅生門」の最後を何度か書き換えている。
 雑誌初出時
「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。」
 短編集収録時
「下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」
 そして現在のもの
「下人の行方は、誰も知らない」 
 これらの違いを考えさせ、作者の意図をさぐることもできそうである。

 しかしこれも作者の意図を限定させることにつながる。基本的には現在流通しているもので解釈するのが正当である。

 以上のようにどれもおもしろい授業になる可能性があるが、問題がないわけではない。

 今回「作者」と名乗る「語り手」について考えてきたので、それを踏まえてこのラストの部分を考えてみる。

 ラストの場面をもう一度読んでみよう。

「しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪をさかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
  下人の行方ゆくえは、誰も知らない。」

 一般的に「語り手」は誰か特定の人物だけに焦点をあてる。複数の人物に焦点があたることはあるが、あまりに多くの人物に焦点があてるとまだろっこしくなるので、あまり多くの人物に焦点はあてない。多くの場合は一人だけに焦点が当てられている。

 「羅生門」の場合は「語り手」の視点は下人に焦点があたっていた。時には下人の心の中を描いたほど、「下人焦点」の語りであった。しかしここで引用した「しばらく、」の後は老婆に焦点があたり、そして最後の「下人の行方は誰も知らない。」においては焦点を失っている。そこで次のような発問が考えられる。

「『作者』と名乗る『語り手』は『羅生門』においてずっと下人に焦点を当ててきた。しかし最後になって「語り手」は下人に焦点を当てるのをやめてしまった。それはなぜか。」

 面倒くさい発問になってしまうが、決して無理な発問ではない。

 私自身の解釈はこうだ。「語り手」はもはや下人に焦点を当てる必要を感じなくなったのである。なぜなら、下人は若気の至りかもしれないが正義感があった。その正義感と、生きるためにもがく心の間でゆれていた。その心のゆれこそが文学に値するものであった。この心の揺れがあったから語りかったのだ。ところが老婆から自分勝手な理屈で髪と服をぬすんでしまった下人は「普通の人」になったしまった。生きるためには生きるだけの「普通の人」になってしまったのである。もはや下人に対する興味はないのである。だから「語り手」から焦点をはずしてしまう。

 そもそも語り手はその気になればどこまでだって下人に焦点を当てるのはかのうなのである。ところがやめてしまったというのは語り手の都合なのだ。

 今、「語り手」はもはや下人に焦点をあてる必要を感じなくなったと書いたが、正確に言えば、作者が「語り手」の下人に対する焦点を外してしまったのである。この最後の瞬間、読者は「下人」だけでなく、「語り手」も相対化され、客観的に「下人」や「語り手」を見る目を獲得することができる。これによって、以前から言っているように「語り手」は全能の人物ではなく俗物なのではないかという印象も与えることができる。見事な終わり方である。
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スマホ持ち込みは賛成するが、その前に考えるべきことがある

2019-02-20 22:05:02 | 社会
 文部科学省が携帯電話やスマートフォンの小・中学校への持ち込みを原則禁止した通知を見直す方向で検討しているという。それ自体は賛成する。スマホを小学生が持つことは連絡を取る上でも必要であるし、迷子防止などの危機管理的な視点からもいいことである。

 しかし考えなくてはいけないことがある。スマホで今問題なのはゲームである。テレビゲームには中毒性がある。一度やったら抜け出せなくなる。

 私自身パソコンのトランプゲームにはまってしまってそこから抜け出せなくなった時期があった。スパイダーソルティアというゲームだった。これではだめだとパソコンから削除するまで精神的な葛藤があった。やめたいのにやめられない。つらかった。私の場合この中毒はいい年になってからである。しかしこれが小学生のころからはじまってしまう子供が数多くいるのである。そういう小学生が本当に多い。そしてそのまま高校に来てしまっている。もはや手が付けられない状態だ。

 スマホが悪いのではない。幼いころからスマホゲームにはまってしまうと大変なことになることが問題なのだ。ゲームだけではない。ラインなどのSNSも中毒性がある。ゲームやSNSに子供たちが縛られて、大切な時期にスマホを見つめるだけになってしまうのだ。

 この話をすると、教育の力で何とかしなさいという話になる。ふざけてはいけない。すでに病気になり医者の力が必要になった人間を、教育の力で治療することは困難である。目の前にある御馳走を食べることをやめさせることなんかできやしないのだ。

 スマホの電話やメールの機能だけならば子供たちに与えるべきだとは思う。しかしスマホを与えなさいというのは、携帯会社に騙されているとしか思えない。携帯会社はもしかしたら自分たちが世の中を破壊しているのではないかという危機感をもってほしい。ただ売れればいいのではなく、子供たち向けのスマホを作り、よりよい未来を創るために努力してほしい。そして政治も子供には子供のスマホを義務付けるような法整備をお願いしたい。
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「羅生門」⑨〔直接話法? 間接話法?〕

2019-02-18 16:07:25 | 国語
 「羅生門」における「語り」の問題として、次の点もよく取り上げられる。

 ラストに近い、老婆が自分の行為を正当化する場面である。少し長くなるが引用する

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」

 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、飢死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 老婆は、大体こんな意味の事を云った。

 以上の場面、「語り」に注目すれば、すぐに「語り」のおかしな点に気づくであろう。カギ括弧の中は老婆が実際に話したように書いている。しかしこれを受けた語り手は「大体こんな意味の事」といっている。もし「こんな意味の事」ならば、カギ括弧などは使わずに、しかも老婆の話し方を描写するような書き方をしないはずだ。老婆の言ったことを語り手が要約して内容だけを書くはずである。直接話法のような記述をしないで、内容だけをまとめて間接話法で書くべきなのである。作者がこの不自然な書き方を選んだのはなぜなのだろうか。

 いくつかの可能性が考えられる。

①作者の芥川龍之介は現在私たちが読んでいる「定稿」になる前は、この老婆のセリフはカギ括弧のない間接話法で書かれていたことがわかっている。そこで、芥川龍之介が話法の乱れに気が付かず、そのままにしてしまったという可能性があげられる。

 しかしこの説はちょっと情けない。この作品においても様々なところで注意を払っている芥川が、これを見逃すとは思えない。

②老婆は「蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら」言ったのであり、それを正確に聞くことはできなかった。それゆえに、直接話法のように老婆のニュアンスを正確に記述する方法をとりながら、細かいところまでは正確には伝えられていないということをしめすために、「老婆は、だいたいこんな意味のことを言った。」と書いた。

 この説はそれなりに納得できる説である。

③そもそも老婆のセリフはこの部分とその直前の
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」
しかない。このセリフも「その時、その喉から、鴉の鳴くような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へ伝わってきた。」とあるように、下人の耳に伝わってきた音の描写ととらえることができる。そもそも「作者」と名乗る「語り手」は、この場面において下人にしか焦点をあたえていないのではないか。老婆は下人のフィルターを通した後の存在なのである。とすれば、ここの話法の乱れはそれほど重要ではない。下人にとって老婆の言ったことを描写したらこうなったということなのだ。

 この説が一番説得力がある。

 もしこの説が多くの人の支持を得られるようであったら、「語り手」の視点の問題も浮き上がり、授業において取り上げるべき事柄になる可能性が広がる。つまり「語り手」がだれの心に入り込むことができるのかを考えることができるのだ。

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