とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石「野分」を読みました。

2021-03-31 07:45:54 | 夏目漱石
 夏目漱石の初期の中編小説「野分」を読みました。決して小説としておもしろいものではないのですが、夏目漱石のその後の方向性を予感させる作品です。また、近代小説の文体を確立していく過程の作品としての意義もあり、文学史としての貴重な資料とも言えます

 長いものに巻かれることのいやな「道也先生」は、その性格のために教師の職を何度もやめ、結局は東京で貧乏な生活をしています。夏目漱石の小説のテーマといえる「近代知識人」がここでも登場しています。「近代知識人」は理想を掲げ、旧来の日本の制度に対して異議をとなえますが、旧来の「常識」に敗れ去ります。道也先生の怒りは理解できます。今でも日本では同じように旧来の「常識」ははびこっており、なかなか変革できません。昔から同じです。

 しかし客観的に見れば融通の利かない「近代知識人」の滑稽さも浮かび上がります。変えられない「常識」を変えていくのが優れた知識人であり、そのためにどう現実に対応するかを考え、行動しなければならないのです。しかし道也先生はそれができません。道也先生はやはり現実の世界では使い物にならない人間であり、道也先生が苦悩すればするほど、はたで見ている人間は困惑し、嘲笑するしかないのです。

 おそらく漱石自身がそうだったのだと思われます。古い日本の「常識」に嫌気がさしながら、そこにうまく対処できない自分に対するいら立ちも覚え、客観的に見れば自分が「変な奴」でしかないことに苦しめられていたのです。伝統と改革に中に分裂していく自分の姿こそが、一貫した夏目漱石のテーマであり、それが「野分」ではっきりと示されてます。

 文体については次の機会に書きます。

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映画『夏時間』を見ました。

2021-03-29 07:39:58 | 映画
 映画『夏時間』を見ました。子供のころ、死を間近にした家族のいる時に体験する感覚が呼び起こされます。不思議な既視感を覚える映画でした。

監督
ユン・ダンビ
出演者
ヤン・フンジュパク・スンジュンパク・ヒョニョンキム・サンドン

(あらすじ)
少女オクジュと弟ドンジュは、夏の間、大きな庭のある祖父の家にやってくる。祖父は認知症が進み、父親は仕事がうまくいっていない。母親とは離婚している。弟はすぐに新しい環境に馴染むが、オクジュはどこか居心地の悪さを感じる。さらに離婚寸前の叔母までやって来て、ひとつ屋根の下で3世代が暮らすことになる。祖父の具合はさらに悪くなり、施設に送ることを考える。残された家をどうするのか、父と叔母は対立する。

 祖父の認知症は進み、普通の生活をするのは困難になってきています。そこで父と叔母は父親を施設に送ることを考えます。父と叔母はそれをオクジュとドンジュに相談します。子どもにはその相談の意味の本質が分かりかねます。それでも大人として答えなければいけません。この感覚は誰もが経験するものでしょう。しかし相談の甲斐もなく、結局は父親と叔母は子どもたちの意見を無視して父親を施設に送る方向で考え始めます。それが分かった時の悔しさもだれもが経験します。

 祖父の葬式に別れた母親がやってきます。その時だけ家族は昔のように食卓を囲みます。葬儀のときだけ家族が家族になる。そんな感覚が呼び起こされます。

 夏休みという、あの永遠の時間の中で、さまざまな経験をしていたのだと感じさせる、不思議な既視感のある映画でした。
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電通とオリンピック

2021-03-28 09:55:39 | 社会
 電通はオリンピックの開催によって巨額の利益を得るはずであった。電通は国内の大きなイベントを仕切っており、大きなイベントであれば経験がものを言うので独占的に電通が手掛けることになる。だからオリンピックを仕切れるのは電通しかなく、オリンピックは電通にとってもとてつもなく大きな事業であった。オリンピックの誘致のために電通が様々な無理を行ったという噂が流れるのも、巨大利権なのだという理由によるものであろう。

 しかしオリンピックの開催があやしくなってきた。そのために電通は様々なリスク軽減をおこない始めた。そんな電通にとって一番困るのはオリンピックがなくなることである。だからオリンピックを縮小しながらもなんとか開催できるように、様々な無理な方策をとっているように思える。開会式の演出の混乱もそこに端を発しているということは容易に想像できる。

 おそらく身近でオリンピックと関わっている人間にとってはおかしなことの連続なのであろう。だから様々なところから内部告発のような不満があふれている。もはやこの混乱は抑えきれない。

 それでも電通はやりきるしかないのだろう。オリンピックが開催されなければ自社の存続さえ怪しくなるからだ。

 しかし、ここまでいびつな状況になってオリンピックを開催する意義があるのか、そもそもの目的が見えなくなっている。新型コロナウイルスの状況を考えればオリンピックは中止するのが妥当であろう。
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オリンピックの聖火リレーや開会式は必要ない

2021-03-26 07:42:28 | 社会
 オリンピックの聖火リレーは単なるイベントである。オリンピックを盛り上げるためだけのものであり、現在の状況では盛り上げるよりも、様々な問題の方が大きく取り上げられるようになっている。聖火リレーをやればやるほど気分は滅入る一方だ。やめたほうがいい。

 どうように開会式は開会宣言だけあればいい。ごちゃごちゃした問題だけが表面化し、内幕はドロドロしているのが見え始まているようなイベントは邪魔なだけだ。

 そもそもオリンピックも無理して行う必要もあるまい。そう思う人が触れているからこそ聖火リレーや開会式で雰囲気を盛り上げようとしているのだろうが、それはもう無理であることわかった。

 私はオリンピックは大好きだ。しかしすでに多くの人が犠牲になり、多くの人が苦しみ、多くの人が経済的な被害を被り、そして多くの人が大きなストレスを抱えている。こんな状況の中で「アスリートファースト」という言葉はあり得ない。

 もしどうしてもオリンピックをやるのだとしたら、すべてのイベントを中止し、無観客でやればいい。選手は試合ができるし、世界中の人もテレビでも盛り上がる。それで十分だ。
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夏目漱石作『二百十日』を読みました。

2021-03-22 17:55:15 | 読書

 夏目漱石の『二百十日』を読みました。江戸時代の戯作のような作品で、ほとんどが会話でできています。正直言ってどう評価すべきなのかがわかりません。

 阿蘇山に登る、2人の青年、圭さんと碌さんの2人の会話体で終始する小説です。ビールや半熟卵を知らない宿の女とのやり取りや、阿蘇山に上る道中が、まるで戯曲のようにほとんど会話だけで進んでいきます。2人は阿蘇の各地を巡ったあと、いよいよ阿蘇山に登ろうとするが、二百十日の嵐に出くわし道に迷い、目的を果たせぬまま宿場に舞い戻ってしまいます。翌朝2人は、いつか華族や金持ちを打ち倒すことと、阿蘇山への再挑戦を誓います。

 夏目漱石の作品の中では異色のものであり、決しておもしろいとは言えない作品ですが、初期の漱石がさまざまな実験をしているがわかります。こういう実験をしながら漱石は自分の文体を作り上げたのだろうと思います。そして漱石の文体はその後の日本の小説の文体になっていきます。その意味で日本文学史上において貴重な作品と言えます。

 江戸時代の戯作の最後がいつのまにか、近代小説になっているという発明です。

 成功しているのか、失敗しているのかと問われれば失敗ということになるかもしれませんが、戯作から小説への過程という見方もできるかもしれません。

 今のところどう評価していいのかわかりませんが、とにかく書いておかないと忘れてしまうので、書き残しておきます。
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